西野了ブログ テキトーでいいんじゃない?

日々浮かんでくる言葉をエッセイにして・・・・・・。小説は「小説を読もう 西野了」で掲載中です。

32年ぶりの同窓会でわかったこと

2009-08-26 23:29:51 | Weblog

 高校3年のときのクラスの同窓会に出席した。といっても学年単位の同窓会なので、他のクラスの人間も混じり、結構な人数だった。
 僕は実に32年ぶり、つまり高校卒業以来の級友との再会となる。同窓会は時々開催されていたようだったが、僕には連絡がこなかった。それは何故か? 嫌われているとか問題があるとかではなく、単純に住所がわからなかったからだ。京都から愛媛に転居しただけだが、行方不明者になってしまった・・・・・・今回は幹事を務めてくれた人たちが頑張ってくれ、僕のクラス約40人のうち、連絡がとれなかった人は1人だけだった。

 実は今回の同窓会は何故か非常に緊張した。案内をもらって参加しますと返事を出した時点から、妙に緊張したのである。50歳になった自分がどう見えるのか、また同級生はどう変わったのか、そんな心配もあった。しかしその緊張感の一番の理由は、おそらく人生の一番多感な時期にともに過ごした人たちとどう接すればよいか、わからなかったということだと思う。
 しかしそれは杞憂に終わった、嬉しいことに。中学、高校と同級生だった友達と話していくうちに、様々な記憶がよみがえってきた。とくに中学3年のときのクラスの雰囲気がリアルな感覚で思い出すことができたのだ。そう、当時僕たちは仲がよかった。今では信じられないかもしれないが、クラス全体がなんとなく仲がよかった。もちろんいろんないざこざや男女間でのややこしい? 感情のもつれもあった。でも全体的には親密だった。
 
 なぜだろう? 僕たちが少年だったときもおそらく今の少年たちとそれほど変わらないはずだ。繊細で傲慢で孤独を求め暖かなつながりを求めていた。たぶん35年前の15歳の世界は今よりもシンプルだったのだろう。当時、僕たち男子は丸坊主で、女の子たちは野暮ったいセーラー服を着ていた。僕たちは未来を漠然としか考えておらず、窮屈な校則にあまり文句も言わず、それでも1日1日が自分の手の中にあった。

 記憶はふだんは眠っていて、日常の生活に影響していないと思っていた。僕が何とか生き延びてこられたのは、家族があり友人がいて、愛する音楽や小説があるからだと思っていた。もちろんそれはそうだけども、様々な記憶が僕を生きさせているということも今ようやく理解しつつある。(僕は相変わらず愚かで無知だ)いったい僕たちはどれほどの記憶を持っているのだろう・・・・・・
 中学3年の同級生と話していると、35年前の教室の情景が浮かんでくる。季節は秋で、窓からは弱い日差しが差し込んでいる。風はない。放課後、誰かの机のまわりに4、5人が群がってたわいもない話をしている。おそらく大した話ではないはずだ。だけど男子は変に意地をはったり、女子はうるさく笑ったりしている。確かに僕たちはその場所にいたし、そして今までずっと歩いてきたのだ。

 記憶というものは無意識のうちにかなり変えられるらしい。僕たちが共有している記憶は35年という時間の影響なのか、悪くないものばかりのように思えてくる。

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