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川柳・政治・時事・エッセイ

川柳は社会共同の詩

2008年02月11日 | 川柳
              尾 藤 三 柳

    江戸時代、発生期の川柳には、作者というものがありませんでした。

    自分のいいたいこと、考えていることを誰かが代わっていってくれる。

「そうなんだ、それをいいたかったんだ」と共感した時、その句は共感者すべてのものになります。

 こんなふうにして口から口へ共感の輪が広がり、ひとびとの連帯を作り上げていきます。

 この場合、作者がどこの誰かであるかは、特に必要ありません。それが、川柳の特性です。

 これは、旅先で絶景に接したときなど、その感動を自分の胸のうちだけに留めて置くのがもったいなくて、そばにいる見知らぬ人に「いい景色ですね」と同意を求めたくなる気持ち、また新聞に載った没義道な事件などについて、その怒りを第三者にぶちまけることで、多少胸が軽くなったような気分になる、一種のカタルシス(精神浄化作用)の役目も果たしているのと同じです。

 作者がまずあって、しかる後に作品がある短歌や俳句と、本質的に区別されるべき川柳の「社会性」は、この大衆のアノ二ミティ(無名性)にあります。

 川柳は、作者自身が感動し、詠嘆する個人的文芸としてより、社会の誰かれが「口ずさむ」文芸として親しまれ、発展してきたのです。

 これを「横の詩」と表現するとき、代弁者である作者個人の小主観や独善は、排除されなければなりません。江戸川柳の客観的態度は、ここからうまれたのです。
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