01、大きな声は許されるのか
鈴木宗男議員の逮捕を契機にして私の考えた事を書きます。それは恫喝政治家という面についてです。
鈴木宗男議員は官房副長官であった時、その副長官室からはよく官僚を怒鳴りつける大きな声が外にまで聞こえてきた、といったことが新聞に書かれていました。
又、国後島かどこかで何かの式典をしたとき、その帰りの船の中で外務省の職員に暴力をふるい、1週間程度のけがをさせたとか、川口外相が発表していました。それに対して、鈴木議員は「机をたたいたり大きな声を出したりしたことはあるが、暴力はふるっていない」と答えていたと思います。
暴力は悪いということは前提します。では、大きな声を出したり机をたたいたりして話すのは暴力ではないのでしょうか。
鈴木議員は暴力ではないと考えているようです。世間的には、道徳的には悪い事だが法律上の罪になるほどではない、と多くの人が考えているのではないでしょうか。
又、指導者(先生とか監督など)が部下や生徒を叱ったりする時には、体罰は悪いにしても、大きな声を出しても好い、とも多くの人は考えていると思います。
私はこの問題には随分悩みました。今では次のように考えています。
机をたたいて言うのはもちろんのこと、大きな声を出して言うこと自体、暴力であり悪いことだと思います。場合によっては法的処置を取っても好いくらいだと思います。
なぜこれが暴力の一種かと言いますと、意見の内容によるのではなくて、それ以外の物理的な手段で自分の意見を強制することだからです。又、これは相手に屈辱感を与えると思います。
しかし、実際にはこういう手段を採る人はかなりいます。どういう人がどういう場合にそういう事をするかと言うと、たいてい、立場とか体力とかで上位にある(と思っている)人がそういう事をするのだと思います。
聞くところによると、サルなどの社会でも上位者が自分の権力を誇示するためにそういう振る舞いをするそうです。つまり、そういう事をする人間はサルと同じなのです。
これは学校でも、又大学のように学問の府とされる所でもあります。私の元指導教官もそういう人でした。厭味を言うこともありました。
なぜそうなるのでしょうか。理論的には、集団内で、あるいは先生と生徒の間で、意見が違ったとき、その意見の違いをどう処理するのが正しいかという理論、つまり集団的思考についての認識論がないからだと思います。
そのために、相手を言い負かそうとして、理論以外の手段を採るのだと思います。そこには「議論で勝ったほうが正しい」という前提があるのだと思いますが、この前提自身が既に妄想に過ぎません。
その意味で、こういう事をする人はむしろ間違っている人に多いと思います。それは一時的には自分の目的を達するにしても、長い目で見ると自分の墓穴を掘っているようです。
私の元指導教官もそういう事をしたために自分の哲学を発展させることが出来ず、大した業績も残せず、今では人々から忘れ去られました。死後に影響を残せないようなのは本当の実力ではありません。
真偽を決めるのは歴史であり、歴史だけなのです。暴力で支配した人々はみな、その後の歴史によって否定されています。
では、こういう事を防ぐにはどうしたら好いのでしょうか。何よりもトップのリーダーシップが大切だと思います。鈴木議員の場合にも、これだけ知られていた事なのですから、首相も耳にしていたはずです。それなのに何も注意しなかったのは、首相にもかなりの責任があると思います。
大学でもまずは研究室の主任の指導力の問題です。しかしそれ以上に何よりも学長のリーダーシップの問題だと思います。しかるに日本の多くのトップは天皇型で、自分は何もしないで、部下が「好きに計らう」ようにさせています。これがガンなのだと思います。
そ の 後 の 話
かつて本メルマガで論じたテーマについてその後、関連した事の出てきた場合、改めて論じるほどではないが少し書きたいという事があります。それを「その後の話」として書くことにします。
第5号で「隠しカメラのどこが悪いのだろうか」ということを論じました。多くの反発の投書をいただきました。私の真意は、次の通りでした。
1、学校は生徒を預かっている間は、生徒を教師の目の届く所に置いておかなければならない。
2、教師の肉眼でそれが出来ない場合は、監視カメラを使うことも仕方ない。
3、監視カメラを使う場合は「隠しカメラ」ではなく、「公然カメラ」にして関係者に知らせておくべきである。
(2002年)07月20日の朝日新聞の「青鉛筆」欄に次の記事がありました。
──東大の本郷キャンパスで7月末、路上を常時監視するカメラが7台設置される。痴漢やひったくりなど、最近増えてきた犯罪の防止のためだ。──
皆さんはこれをどう思いますか。私は賛成です。仕方ない事だと思います。
(2002年07月22日発行)
02、01の記事への第1の投書(K・S)
牧野先生
梅雨明けに急に暑い日が続きますが、一言お見舞いを申し上げます。今回もおもしろく拝読いたしました。
さて「机をたたいて言うのはもちろんのこと、大きな声を出して言うこと自体、暴力であり悪いことだと思います。場合によっては法的処置を取っても好いくらいだと思います。
なぜこれが暴力の一種かと言いますと、意見の内容によるのではなくて、それ以外の物理的な手段で自分の意見を強制することだからです。又、これは相手に屈辱感を与えると思います。
しかし、実際にはこういう手段を採る人はかなりいます。どういう人がどういう場合にそういう事をするかと言うと、たいてい、立場とか体力とかで上位にある(と思っている)人がそういう事をするのだと思います。」というご指摘には全く同感ですが、ここに民主主義破壊の芽があることも蛇足として申し上げたく存じます。
相手に自分の意見に同調させようとするとき、相手が真に自由意思で同調することが最低限度必要であると考えます。大声を上げて恫喝することは、相手に恐怖心・畏怖を生じさせ、「物理的な手段で自分の意見を強制すること」であり、まさに相手方の人格の否定に他なりません。これは相互に個人の人格を尊重して社会を形成しようとする民主主義と相反するものであり、この意味で民主主義破壊の芽であると思われます。
もっとも「大声をあげ」ても相手に自由意思を制限・否定するような恐怖心が生じない場合は、これを暴力とすることは行き過ぎでしょう。
歴史からは、特にナチスの勢力増大・政権獲得初期のドイツの状況が参考になろうかと思われます。これはコーゴン『SS国家』の受け売りなのですが、暴力を恐れてそれに沈黙することはテロを助長することになります。そこでテロをする側を支配者に、される側を被支配者に絶対的に固定することになるそうです。
先のドイツでの状況はまさに「突撃隊」という暴力装置が、ユダヤ人や共産主義者のみならず、穏健的社会主義者・自由主義者にまで暴力をふるいまし。政治家の中にはこれを必要悪と考える者、失業者一掃党のナチス改革を認める対価として消極的に認める者がおり(小泉内閣の改革を進めると同時に、靖国神社参拝や有事立法の制定等似た側面があるように思われます)、一般庶民はこの暴力から逃れることのみを考えておりました。このようにナチスの暴力を結果的に肯定したために、ナチ党支配の固定化を絶対化したといえましょう。
特にナチスの「夜と霧」といわれるものは、深夜から早朝にかけて忽然と一家族が国家機関に連行され、それについて噂を立てる者も同じ運命をたどるようにしたものです。ソビエト・ロシアにも似た状況があるように聞いています。朝起きてみたら隣人一家が国家機関によって連れ去られるような社会にならないようにするためには、個人個人がこのような暴力に屈しないこと、個人のレベルで不可能ならば、このような暴力に反対する他の人と連帯して戦うことが必要でしょう。民主主義は天から与えられたものではなく、不断に民主主義を実践することによって、民主主義を破壊しようとする者と戦うことによってはじめて実効性を持つものであろうと考えます。
自由民主党はその看板にある「民主」を守るためにも、大声で恫喝する鈴木宗男議員を「民主主義の破壊者」として除名すべきであったのに、「党に迷惑をかけた」という理由で離党を認めたのは、禍根を残すように思われます。
ますますのご健啖を期待しております。暑さ厳しい折、重々ご自愛なさることを祈念しております。
03、お返事(牧野 紀之)
悪い事をしている勢力(それが権力者である場合が多い)がある時、たいてい、それに反対して戦う正義派がいますが、大多数の人は中間派だと思います。
すると、正義派が悪い勢力と戦うのはいいとして、「悪い勢力が倒れないのは中間派が戦わないからだ」という考えになりやすいと思います。
Kさんの「暴力に反対する他の人々と連帯して戦う」というのには賛成ですが、これもややもすると、「中間派が我々と連帯してくれないのが悪い」という考えになりがちだと思います。こうなると正義派が不正義派に転化してしまうと思います。
歴史的にみても、共産主義運動にはかつて「社民主要打撃論」(社会民主主義者に攻撃の矛先を向ける)という考えと行動がありました。主としてスターリンの指導によります。
しかし、この考えは多くの「戦う」人の、特にその人が未熟な場合に、陥りがちな考えだと思います。だから、「スターリンはチンピラ左翼の権化だ」と言えるのだと思います。
これに反対して出てきたのが統一戦線戦術だと思います。私は統一戦線にも意義があると思いますが、実際には必ずしもうまく行っていないと思います。
そこで私は、宇井純さんの言う「一人でも戦うのが住民運動だ」という考えの方を高く評価します。これが本当だと思います。
しかし、中間派が権力者を守っている面も少しはあると思います。ですから、何か悪い戦力と戦う場合には中間派に対してどういう態度をとるかという大問題がつねにあると思います。
Kさんの考えも、悪の張本人と戦うより中間派に働きかけることに力点をおく考えにならないように気をつける必要があると思います。
04、01の記事への第2の投書(Y)
北海道在住の Y と申します。現在、職業訓練校にて電気通信の勉強をしています。第87号を読んで思った事がありますのでメ-ル差せていただきました。
タイトルは「大声は許されるのか」でした。別に鈴木被告の関係者ではないのですが、大声はいけないのでしょうか?
私の父は昔、組合運動で大声を出したため「言葉の暴力」ということで減給処分になりました。そのときのことは30年以上も前のことですが、今でも良く覚えています。その後、裁判を行い勝訴し処分取り消しになりました。
大声のレベルにもよるとは思いますが。大声で自己主張をすることは悪くはないと思います。特に、最近の子供は主張するべき時にせず、余計な時に大声を出すというのは問題ですが。
自分が正しいと思ったなら多少大きな声で主張することは許されると思います。
以前、選挙期間中に共産党員(候補者)が、長男(当時2才)が昼寝をしている家の裏で大音響で演説を始めました。私は、外へ行き共産党員に「子供が寝ているのでここでやるのは止めてほしい」とたのみました。ところ、共産党員は「これは、国で認められている行為なので止められない」といいやがった。(失言すみません)。これも、大声になるのではないでしょうか。選挙期間中でも市民の安住権は尊重すべきではないでしょか。私は、これも「言葉の暴力」「国が認めた言葉の暴力」だと思います。
組合運動での「大声は」罪になって「選挙での大声は」罪にならない、警察・選挙管理委員会に言いましたが相手にされませんでした。絶対に間違っています!!
最後に、鈴木被告ですが。被告は北海道の先住民族のことで、さまざまな発言をしており正直よかったと思っています。ちなみに、私は先住民族ではありません。
私の意見を書かせていただきました。読んでいただいてありがとうございました。
05、Yさんへのお返事(牧野 紀之)
Yさんの考えは次の4点にまとめることができると思います。
1、組合運動での大きな声も、選挙運動での大きな声も法律的には認められている。
2、一般に、自分の正しいと思う考えは大きな声で言ってよいと思う。
3、しかし、選挙運動では市民の安住権は尊重するべきである。
4、鈴木宗男議員は北海道の先住民のために発言したから、評価できる。
大きな声は相手を傷つけるだけでなく、自分をも傷つけるという点をYさんは見逃していると思います。お父さんは、裁判で勝ったとしても、それで組合運動が発展しましたか。長い目でみて下さい。
議員の政治活動の評価は、その全体を見て総合的に判断するべきだと思います。個々の点だけを取り出して全体的評価とするのは、それこそ「群盲ゾウを撫でる」の譬え話で批判されていることだと思います。
(02~05は、メルマガ「教育の広場」2002年07月25日発行)
鈴木宗男議員の逮捕を契機にして私の考えた事を書きます。それは恫喝政治家という面についてです。
鈴木宗男議員は官房副長官であった時、その副長官室からはよく官僚を怒鳴りつける大きな声が外にまで聞こえてきた、といったことが新聞に書かれていました。
又、国後島かどこかで何かの式典をしたとき、その帰りの船の中で外務省の職員に暴力をふるい、1週間程度のけがをさせたとか、川口外相が発表していました。それに対して、鈴木議員は「机をたたいたり大きな声を出したりしたことはあるが、暴力はふるっていない」と答えていたと思います。
暴力は悪いということは前提します。では、大きな声を出したり机をたたいたりして話すのは暴力ではないのでしょうか。
鈴木議員は暴力ではないと考えているようです。世間的には、道徳的には悪い事だが法律上の罪になるほどではない、と多くの人が考えているのではないでしょうか。
又、指導者(先生とか監督など)が部下や生徒を叱ったりする時には、体罰は悪いにしても、大きな声を出しても好い、とも多くの人は考えていると思います。
私はこの問題には随分悩みました。今では次のように考えています。
机をたたいて言うのはもちろんのこと、大きな声を出して言うこと自体、暴力であり悪いことだと思います。場合によっては法的処置を取っても好いくらいだと思います。
なぜこれが暴力の一種かと言いますと、意見の内容によるのではなくて、それ以外の物理的な手段で自分の意見を強制することだからです。又、これは相手に屈辱感を与えると思います。
しかし、実際にはこういう手段を採る人はかなりいます。どういう人がどういう場合にそういう事をするかと言うと、たいてい、立場とか体力とかで上位にある(と思っている)人がそういう事をするのだと思います。
聞くところによると、サルなどの社会でも上位者が自分の権力を誇示するためにそういう振る舞いをするそうです。つまり、そういう事をする人間はサルと同じなのです。
これは学校でも、又大学のように学問の府とされる所でもあります。私の元指導教官もそういう人でした。厭味を言うこともありました。
なぜそうなるのでしょうか。理論的には、集団内で、あるいは先生と生徒の間で、意見が違ったとき、その意見の違いをどう処理するのが正しいかという理論、つまり集団的思考についての認識論がないからだと思います。
そのために、相手を言い負かそうとして、理論以外の手段を採るのだと思います。そこには「議論で勝ったほうが正しい」という前提があるのだと思いますが、この前提自身が既に妄想に過ぎません。
その意味で、こういう事をする人はむしろ間違っている人に多いと思います。それは一時的には自分の目的を達するにしても、長い目で見ると自分の墓穴を掘っているようです。
私の元指導教官もそういう事をしたために自分の哲学を発展させることが出来ず、大した業績も残せず、今では人々から忘れ去られました。死後に影響を残せないようなのは本当の実力ではありません。
真偽を決めるのは歴史であり、歴史だけなのです。暴力で支配した人々はみな、その後の歴史によって否定されています。
では、こういう事を防ぐにはどうしたら好いのでしょうか。何よりもトップのリーダーシップが大切だと思います。鈴木議員の場合にも、これだけ知られていた事なのですから、首相も耳にしていたはずです。それなのに何も注意しなかったのは、首相にもかなりの責任があると思います。
大学でもまずは研究室の主任の指導力の問題です。しかしそれ以上に何よりも学長のリーダーシップの問題だと思います。しかるに日本の多くのトップは天皇型で、自分は何もしないで、部下が「好きに計らう」ようにさせています。これがガンなのだと思います。
そ の 後 の 話
かつて本メルマガで論じたテーマについてその後、関連した事の出てきた場合、改めて論じるほどではないが少し書きたいという事があります。それを「その後の話」として書くことにします。
第5号で「隠しカメラのどこが悪いのだろうか」ということを論じました。多くの反発の投書をいただきました。私の真意は、次の通りでした。
1、学校は生徒を預かっている間は、生徒を教師の目の届く所に置いておかなければならない。
2、教師の肉眼でそれが出来ない場合は、監視カメラを使うことも仕方ない。
3、監視カメラを使う場合は「隠しカメラ」ではなく、「公然カメラ」にして関係者に知らせておくべきである。
(2002年)07月20日の朝日新聞の「青鉛筆」欄に次の記事がありました。
──東大の本郷キャンパスで7月末、路上を常時監視するカメラが7台設置される。痴漢やひったくりなど、最近増えてきた犯罪の防止のためだ。──
皆さんはこれをどう思いますか。私は賛成です。仕方ない事だと思います。
(2002年07月22日発行)
02、01の記事への第1の投書(K・S)
牧野先生
梅雨明けに急に暑い日が続きますが、一言お見舞いを申し上げます。今回もおもしろく拝読いたしました。
さて「机をたたいて言うのはもちろんのこと、大きな声を出して言うこと自体、暴力であり悪いことだと思います。場合によっては法的処置を取っても好いくらいだと思います。
なぜこれが暴力の一種かと言いますと、意見の内容によるのではなくて、それ以外の物理的な手段で自分の意見を強制することだからです。又、これは相手に屈辱感を与えると思います。
しかし、実際にはこういう手段を採る人はかなりいます。どういう人がどういう場合にそういう事をするかと言うと、たいてい、立場とか体力とかで上位にある(と思っている)人がそういう事をするのだと思います。」というご指摘には全く同感ですが、ここに民主主義破壊の芽があることも蛇足として申し上げたく存じます。
相手に自分の意見に同調させようとするとき、相手が真に自由意思で同調することが最低限度必要であると考えます。大声を上げて恫喝することは、相手に恐怖心・畏怖を生じさせ、「物理的な手段で自分の意見を強制すること」であり、まさに相手方の人格の否定に他なりません。これは相互に個人の人格を尊重して社会を形成しようとする民主主義と相反するものであり、この意味で民主主義破壊の芽であると思われます。
もっとも「大声をあげ」ても相手に自由意思を制限・否定するような恐怖心が生じない場合は、これを暴力とすることは行き過ぎでしょう。
歴史からは、特にナチスの勢力増大・政権獲得初期のドイツの状況が参考になろうかと思われます。これはコーゴン『SS国家』の受け売りなのですが、暴力を恐れてそれに沈黙することはテロを助長することになります。そこでテロをする側を支配者に、される側を被支配者に絶対的に固定することになるそうです。
先のドイツでの状況はまさに「突撃隊」という暴力装置が、ユダヤ人や共産主義者のみならず、穏健的社会主義者・自由主義者にまで暴力をふるいまし。政治家の中にはこれを必要悪と考える者、失業者一掃党のナチス改革を認める対価として消極的に認める者がおり(小泉内閣の改革を進めると同時に、靖国神社参拝や有事立法の制定等似た側面があるように思われます)、一般庶民はこの暴力から逃れることのみを考えておりました。このようにナチスの暴力を結果的に肯定したために、ナチ党支配の固定化を絶対化したといえましょう。
特にナチスの「夜と霧」といわれるものは、深夜から早朝にかけて忽然と一家族が国家機関に連行され、それについて噂を立てる者も同じ運命をたどるようにしたものです。ソビエト・ロシアにも似た状況があるように聞いています。朝起きてみたら隣人一家が国家機関によって連れ去られるような社会にならないようにするためには、個人個人がこのような暴力に屈しないこと、個人のレベルで不可能ならば、このような暴力に反対する他の人と連帯して戦うことが必要でしょう。民主主義は天から与えられたものではなく、不断に民主主義を実践することによって、民主主義を破壊しようとする者と戦うことによってはじめて実効性を持つものであろうと考えます。
自由民主党はその看板にある「民主」を守るためにも、大声で恫喝する鈴木宗男議員を「民主主義の破壊者」として除名すべきであったのに、「党に迷惑をかけた」という理由で離党を認めたのは、禍根を残すように思われます。
ますますのご健啖を期待しております。暑さ厳しい折、重々ご自愛なさることを祈念しております。
03、お返事(牧野 紀之)
悪い事をしている勢力(それが権力者である場合が多い)がある時、たいてい、それに反対して戦う正義派がいますが、大多数の人は中間派だと思います。
すると、正義派が悪い勢力と戦うのはいいとして、「悪い勢力が倒れないのは中間派が戦わないからだ」という考えになりやすいと思います。
Kさんの「暴力に反対する他の人々と連帯して戦う」というのには賛成ですが、これもややもすると、「中間派が我々と連帯してくれないのが悪い」という考えになりがちだと思います。こうなると正義派が不正義派に転化してしまうと思います。
歴史的にみても、共産主義運動にはかつて「社民主要打撃論」(社会民主主義者に攻撃の矛先を向ける)という考えと行動がありました。主としてスターリンの指導によります。
しかし、この考えは多くの「戦う」人の、特にその人が未熟な場合に、陥りがちな考えだと思います。だから、「スターリンはチンピラ左翼の権化だ」と言えるのだと思います。
これに反対して出てきたのが統一戦線戦術だと思います。私は統一戦線にも意義があると思いますが、実際には必ずしもうまく行っていないと思います。
そこで私は、宇井純さんの言う「一人でも戦うのが住民運動だ」という考えの方を高く評価します。これが本当だと思います。
しかし、中間派が権力者を守っている面も少しはあると思います。ですから、何か悪い戦力と戦う場合には中間派に対してどういう態度をとるかという大問題がつねにあると思います。
Kさんの考えも、悪の張本人と戦うより中間派に働きかけることに力点をおく考えにならないように気をつける必要があると思います。
04、01の記事への第2の投書(Y)
北海道在住の Y と申します。現在、職業訓練校にて電気通信の勉強をしています。第87号を読んで思った事がありますのでメ-ル差せていただきました。
タイトルは「大声は許されるのか」でした。別に鈴木被告の関係者ではないのですが、大声はいけないのでしょうか?
私の父は昔、組合運動で大声を出したため「言葉の暴力」ということで減給処分になりました。そのときのことは30年以上も前のことですが、今でも良く覚えています。その後、裁判を行い勝訴し処分取り消しになりました。
大声のレベルにもよるとは思いますが。大声で自己主張をすることは悪くはないと思います。特に、最近の子供は主張するべき時にせず、余計な時に大声を出すというのは問題ですが。
自分が正しいと思ったなら多少大きな声で主張することは許されると思います。
以前、選挙期間中に共産党員(候補者)が、長男(当時2才)が昼寝をしている家の裏で大音響で演説を始めました。私は、外へ行き共産党員に「子供が寝ているのでここでやるのは止めてほしい」とたのみました。ところ、共産党員は「これは、国で認められている行為なので止められない」といいやがった。(失言すみません)。これも、大声になるのではないでしょうか。選挙期間中でも市民の安住権は尊重すべきではないでしょか。私は、これも「言葉の暴力」「国が認めた言葉の暴力」だと思います。
組合運動での「大声は」罪になって「選挙での大声は」罪にならない、警察・選挙管理委員会に言いましたが相手にされませんでした。絶対に間違っています!!
最後に、鈴木被告ですが。被告は北海道の先住民族のことで、さまざまな発言をしており正直よかったと思っています。ちなみに、私は先住民族ではありません。
私の意見を書かせていただきました。読んでいただいてありがとうございました。
05、Yさんへのお返事(牧野 紀之)
Yさんの考えは次の4点にまとめることができると思います。
1、組合運動での大きな声も、選挙運動での大きな声も法律的には認められている。
2、一般に、自分の正しいと思う考えは大きな声で言ってよいと思う。
3、しかし、選挙運動では市民の安住権は尊重するべきである。
4、鈴木宗男議員は北海道の先住民のために発言したから、評価できる。
大きな声は相手を傷つけるだけでなく、自分をも傷つけるという点をYさんは見逃していると思います。お父さんは、裁判で勝ったとしても、それで組合運動が発展しましたか。長い目でみて下さい。
議員の政治活動の評価は、その全体を見て総合的に判断するべきだと思います。個々の点だけを取り出して全体的評価とするのは、それこそ「群盲ゾウを撫でる」の譬え話で批判されていることだと思います。
(02~05は、メルマガ「教育の広場」2002年07月25日発行)