ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

「ユーゲント」第08号(1999年10月06日)

2007年09月02日 | 教科通信「ユーゲント」
「ユーゲント」第08号(1999年10月06日)

              ドイツ語教室の教科通信

 皆さん、夏休みはいかがでしたか。宿題の作品からいくつか掲載します。

    大岡昇平『野火』

 主人公である田村一等兵は、敗北が決定的となったフィリピン戦線で結核に冒される。わずか数本の芋を渡され本隊を追放された彼は、助けを求めに病院へ向かう。しかし病院はすべてのものが不足し、軍医達は患者を追いだして食料を確保することしか考えていなかった。

 病院にに見切りをつけた彼は単独でひたすら歩き続けた。フィリピンの大自然のなかで自決という選択を捨てた彼は、比島人の畠をあさるなどして飢えをしのぎ、たどりついた村で意味もなく人をあやめる。無辜の人間を殺したという罪の意識から銃を捨てた彼は村で塩を補給し、再び歩きだす。

 最後の林を出外れると彼を待っていたのは三人の日本兵だった。塩を与えることで彼らに合流した田村は、彼らと供に軍命令に従い、バロンポンヘと向かう。前途に死しか予想できなかった彼にバロンポンという生への道が開かれたのだ。

 バロンポンヘと向かう道は倒兵で溢れ、その中にはかつて病院で昼夜を供にした永松と安田の姿があった。米軍に降参するという彼らを見捨て、彼は進み続けた。

 パロンボンまであとわずかという湿地で、日本兵は米軍の攻撃にあう。死を身近に感じながら後退を決めた彼が翌朝見た物は、夥しい数の死体だった。もう先には進めない。

 仲間たちを失い、再び孤独になった彼を次に襲ったのは飢えだった。あらゆる草を食べ、自分の血を吸った山蛭を食べ、彼は必死に飢えと戦った。しかし飢えは極限状態にまで達していた。周りの屍体はどれも贅肉を失っていた。その理由を暗黙に理解した彼は自分の理性と本能の間で揺れ惑う。彼の理性は本能を押さえ込んだ。そして彼は立ち上がることさえできなくなった。蝿を追い払う力さえ失くした彼の前に現われたのはなんとあの永松だった。

 永松から与えられた肉で再び気力を取リ戻した田村はその肉が一体何の肉か気付きながらその肉を頬張り続けた。一方永松は歩けなくなった相棒の安田が重荷になってきていた。永松は安田を殺し、それを食料にし、米軍へ降伏するという計画を練った。そしてその時がやってきた。永松は田村の前で安田を殺し、田村は永松に銃を向ける。

 気が付くと田村は精神病院にいた。ただ1つ分かるのは彼が2人を食べなかったという事だけだった。

    太宰治『人間失格』

 主人公の葉蔵(太宰本人と重なる人物)の人生は、「自分を含む人間への不信」でした。彼は言います。「互いにあざむき合って、 しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、 実にあざやかな、 それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、 人間の生活に充満しているように思われます。」

 彼は、 どうやら人間というものを客観的に冷静に「観察」しすぎたようです。そして、 自分と世間とのちがいに敏感すぎていたような気がします。自分は世間とちがうのだ(一緒にされたくないという気持ちもあったかもしれないが)、そう自分で決めつけることによって、 いっそう自分と他人とを区切っていたのでは、 とも思います。全てにおいて投げやりで、 本当の自分を隠すために「道化」を演じ、生涯をとおして重い虚無感を背負って生きた男。

 しかしそんな太宰の感覚に私も共感できる部分があります。私も彼のように「人間への不信」を感ずる事がときどきあるからです。人間に対する絶望感。そして、自分もまたそのなかの一人であるという現実。その現実により、また考え込んでしまう。どうしようもない。何もできない。そんな無力感を覚えたりします。

 例えば、テレビで貧困に悩む国を取材している。その国は、 何か輸出するような資源をもつわけでもなく、資源を輸入して加工するような技術をもつわけでもなく、人口はどんどん増加し、 子はみな稼ぎにだされ、しかし少年は澄んだ目で笑い、そんな自分の身の上をなげくわけでもなく、日々を懸命に生きている。

 そんな番組を見たとき、 私はどうしようもない絶望を感じます。どうしろというのか。私はどうすればよいのか。

 例えば私の昼飯代を毎日この子にあげたとしたら、 彼はたすかるかもしれない。

 でも、 彼の兄弟をたすけることができるだろうか。/ 彼の両親をたすけることができるだろうか。/ 彼の友達をたすけることができるだろうか。/ 彼の国の餓えた人すべてをたすけることができるだろうか。/ 世界中の餓えた人すべてをたすけることができるだろうか。

 結局、 大勢の中の1人をたすけたところで、 その少年は助かっても世界は変わらない。やはり、 彼と同じような少年は限りなくいるでしよう。そして、 今この瞬間にもどこかで死んでゆくでしょう。

 なんでこういう差がうまれるのか。貧しい国と豊かな国。そして私は豊かな国の人間なのだ。どれだけ心の中で貧しい人々をあわれんでも、所詮私は豊かな国に住んでいる。心のどこかに彼らの国に生まれなくてよかった、という安堵がある。

 つまり、自分は貧しい少年をあわれに思い、自分の損にならない程度のほどこしをする気はあっても、彼の境遇と自分の境遇を交換してまで彼をたすけようという気はないのです。

 結局、私の慈悲の心というのはそんな程度で、自分が今豊かに暮らしていることが前提にあり、そうしてはじめて他者を気にかけるというように、上から下をみる姿勢の中でうまれたものなのです。

 他者をあわれむことでヒーロー気分に浸っている自分。そんな自分を客観的にみて否定する自分。この2人の自分にはさまれながら、人間ってなんだろう。口では偉そうなこと言ってても、自分を1番に考えない奴なんていないんじやないかしら。それが人間らしいってことじやないかしら。もしかしたら人間は自己中心、欲、エゴイズム、こういうものをもっているから人間っていうのかもしれない。

 太宰は、そういう「人間くささ」を客観的にみすぎたため、それにギモンを感じてしまったところに、「人間失格」の原点があったんじゃないかしら。そんなことを考えました。

 ヨーロッパやアメリカなど、自分と同じくらいもしくはそれ以上の生活水準の国へ行くと、どれだけ高価なブランド品でも惜し気なく買うのに、水準の低い国へ行くと少しでも安く値切ろうとする人を見かけます。自分たちの方が豊かだということで、大きな気分になるのか。自分たちの方が偉いのだと錯覚するのか。これもすべて先にあげたエゴイズムで片付くのでしょうか。

 しかし皆が皆、自分のエゴを出してしまったら大変な事になるだろう。だから、どこまでエゴを主張してもよくて、どこからがだめなのかということの境界線としてうまれたのが「きまり」なのかもしれません。ある程度のエゴは出してもいいが、決まりをはみだすエゴは禁止するってことなのかしら。エゴに善い悪いがあるのでしょうか。

 人間とケダモノのちがい。それこそ、 このエゴではなかろうか。普段はどう猛なあのトラでさえ、 空腹でなければ虫一匹殺さない。どんなうまそうな獲物が近付いても知らない顔をしているそうです。そしてこれは、無意味な殺し合いをしないという動物間の自然なおきてによるものなのです。このおきてを唯一やぶるのが人間なのです。人間は彼らがもったエゴにより、 我が物顔で地球を闇歩しています。私も含めて。

 私が一番いやなのはここです。人間のもつエゴに嫌気がさし、 捨て去りたいと望む反面、自分も一般的な人間と同様に、 もしくはそれ以上にその人間くささに浸りきってしまっています。そしてそんな人間くささを手放したくないと思っているのも事実なのです。

 私は人間くささを完全否定できない。太宰はそれをすべて否定、 拒絶した。私と彼はそれだけのちがいではないでしょうか。第二の手記の最後で、 疲れきった太宰はこう記しています。「いまは自分には幸福も不幸もありません。ただ一さいは過ぎて行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きてきたいわゆる『人間』の世界においてたった一つ、真理らしく思われたのは、ぞれだけでした。ただ一さいは過ぎて行きます。」

    新聞記事を読んでの感想

  「ドイツでは育児を労働と見なして年金額に反映させる」

 私はこの記事を読んで率直にドイツの「育児=労働」という考え方をすばらしいと思いました。3年間という期間ながら、育児は労働とみなされるのは、日本では考えられないことです。ドイツでは育児、介護を経済的に評価し、日本では「妻」という立場を働きに関係なく評価したと、記事に書いてありました。

 しかし、私はこの日本の評価の仕方に少し疑問を覚えました。確かに専業主婦の方々からみれば、育児や毎日の家事、家族の介護をするのだから、年金をもらうのは当然なのだけれど、私は評価基準をもっと明確に定めるべきだと思いました。各家庭によって事情はちがうから、働く妻や自営業の方の妻には不公平感があると思います。

 私の母も働く妻です。毎日、働いた後に家族のために料理を作ったり、家事をしています。でも父はほとんど何もしません。その家事を行った分もきちんと評価して欲しいと思います。

 今、女性は大変な就職難です。いつ結婚して辞めてしまうかもわからないからという理由で仕事に就けないというのはおかしいと思います。ドイツのように3年間でもいいから育児のための期間を与えるべきだと思います。育児休暇も他の国々に比べて日本は本当に短いし、女性への対応もとても厳しいです。もっと男女平等と言えるような社会にしていかなければならないと思いました。

   「ドイツの「閉店法」をめぐる議論」

 閉店法という法律があることに驚いた。日本では店にとっては日曜日こそがかせぎ時という考えが常識だと思うので、日曜日に店を開けてはいけないという法律に都市部の商店が反発するのも当然だと思う。まさに「化石のような法規制は経済のグローバル化に百害あって一利なし」だと思う。それに、何曜日に店を開けても閉めても、それはそれぞれの店が決めるべきだと思う。

 私はキリスト教徒ではないので、宗教的な見方はできないけれど、伝統を守るために閉店法を定めているのなら、生鮮食品、新聞店、観光地、歓楽街を対象に例外を設けるというのもおかしいと思う。利益を追求したいのはどこの店も同じだと思うので、例外を定めるのは不公平だ。その法律は早くなくすべきだと思う。

   「中央大学の入学前通信教育について」

 大学に入って私は、大学の勉強は高校の時までの勉強とは全く違うと感じました。今までは、点数を取るための暗記中心の勉強でしたが、大学は、自分の頭で考えて勉強する場所だと思いました。暗記中心の勉強できた私は、図書館で調べたり、自分で考えること、自分の意見を持つことに慣れていなかったので、レポートを書くのに苦労しました。また、学校の勉強以外の知識のなさや、社会の事に対する疎さも感じました。

 だから、この中央大学の事前学習はとても良いものだと思いました。大学生の学力低下が言われている中、事前に図書館の使い方などを学んだり、問題意識を持つことは、合格が決まってから入学するまでの生活と、入学してからの学生生活を有意義にするものだと思いました。

 ただ、このような事前学習は大学側が行うことではなく、高校教育の一環として行われるべきものではないかとも思いました。

   未修外国語の授業に意義はあるのか

 フレッシュマン・セミナーでやった未修外国語についての討論をもっと詳しく書きたいと思います。

 未修外国語は英語と比べ、学ぶ期間も短く、理解するのはかなり困難である。前回の「ユーゲント」に書いてあった「未修外国語を肯定する意見は?」ということですが、その意見として、英語圏以外の言葉に触れ興味を持つことで、文化の相互理解が出来るとか、国際人としての日本人を育てるためにも二カ国語は話せなければならないなどの意見が出ました。

 しかし、短期間で興味を持つことは難しく、更に文化の相互理解などは英語でも出来なかったことだから、無理である、という結論が出ました。あと、二カ国語話すのは、興味を持ち、仕事で使おうとしている人しか必要でない、ということになりました。

 先生の反応は特になく、授業方法や人数の話は出ませんでした。

 でもあの討論で疑問が出てきました。なぜ大学になって突然現れた未修外国語は必修で、何を目的としているのですか? もう1つ、なぜドイツ、ロシア、中国、フランスの4カ国語しかないのですか? もし他の言葉は文系の担当だからと言うのなら、この4カ国語はなぜ理系に必要なのですか?教授の意見をお聞きしたいです。

   夏休みの一こま

 8月10日、看護学校の去年の生徒たちと掛川郊外の「ねむの木村」を訪ねました。宮城まり子さんの主宰する肢体不自由児のための施設です。浜岡町から移転しました。吉行淳之介文学館が出来て、宮城に宛てた恋文が展示されてあるとか。

 台風が来ていて雨模様の日でしたが、私たちの歩いている時は幸い雨は降りませんでした。まり子という喫茶店には他の客はおらず、半年ぶりに会った元生徒たちとカレーセットを食べ、談笑しました。

 文学館の展示には、宮城の心の中に今でも生きている吉行に話しかけるような言葉が添えられていました。その後、茶室で抹茶を飲みました。少し離れた所には美術館も出来たとか、そしてそれが自然採光で、太陽の動きと共に絵の見え方も変わっていくようなものだとか、聞きました。これは秋晴れの日の夕方に見に来たいな、と思いました。(牧野)


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