ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 209号、第2外国語教育の衰退の原因

2005年08月20日 | 教育関係
 朝日新聞(2005年05月10日)の「天声人語」に次の文章があ
りました。

 ─ゴールデンウイークが終わって、きょうから大学のキャ
ンパスも活気を取り戻す。講義もそろそろ本格化する頃であ
る。

 かつては、英語以外にフランス語やドイツ語を学ぶことは、
知的な背伸びをしているようで、大学生になったという実感を
持ったものだった。最近は、第2外国語を必修から外す所も出
てきて、語学学習の風景もだいぶ変わった。

 都内の私大で第2外国語のスペイン語を教えている知り合い
によると、年々辞書を持たない学生が増えているという。毎
年、最初の授業で何冊かの辞書を推薦するのだが、今年3回目
の授業で尋ねたところ、クラス30人のうち購入したのは3人だ
った。かなり前なら、外国語を学ぶのに辞書を買うのは常識だ
った。いまの学生が辞書を買わない理由は「高い」「重い」
「引くのが面倒くさい」の3つだという。

 別の私大のベテラン教員は、一昔前のこんな話を教えてくれ
た。辞書の持ち込み可でフランス語を訳す試験を行ったところ
、ある学生は仏和辞典だけでなく、国語辞典も持ち込んだ。訳
文に正確さを期するためだった。これまた失われた風景だとい
う。

 いま書店の外国語コーナーをのぞくと、「超やさしい○○語
の入門」「10日でマスター」といったようなタイトルの薄っぺ
らい本であふれている。詳しい文法は省略だ。辞書を買わない
学生もこういう本は購入する。

 辞書を片手に難解な原書に挑戦するなんてことは今時、はや
らないかもしれない。だが、外国語は地道な努力が習得の基本
である。それはいつの時代でも変わらない。─

 これを読んだ第1印象は、なんだかどこかで読んだような文
だな、というものでした。こういうのも一種の「既視感」と言
うのでしょうか。第2外国語についてのこのような意見は聞き
飽きました。

 しかし、一度はきちんと批判しておこうかなとも思いまし
た。だからこうして今日まで取っておいたのです。先に、本メ
ルマガの第80号「全ての事をお金と結び付けて理解する」(20
02年06月02日発行)でも同じような事をしました。

 こういう天人さん(天声人語の筆者)や大学教員の考えはど
こに欠陥があるのでしょうか。それはすぐに分かります。この
現状に問題があるとたら当然考えるべき原因を考えていないと
いうことです。そして、ただちに学生側に全部の責任を押しつ
けて事足れりとしている、ということです。これでは学者とは
言えないでしょう。教養のある人とも言えないでしょう。

 天人さんたちが考えてくれないので、こちらで代わって考え
ますと、これまたすぐにも思いつくことは、第1に、大学進学
率の上昇と大学の大衆化で、学生全体のレベル及び学生の平均
レベルが下がったということです。従って、ここからの結論と
しては、こうなるのは当然という考えもありえますし、実際に
そう言っている人もいます。

 第2の原因は、授業のマスプロ化です。1クラスの人数が増
えて、大教室で授業がなされるということです。これは大学の
側の責任です。学生の責任ではありません。

 第3は、教授の数も増えて、教授の実力も下がっているとい
うことです。

 又、第4に、授業のやり方が学生の現状に合っていないとい
うこともあります。これも学生の責任ではありません。

 原因の検討はこれくらいにしてその他の感想を書きます。

 私の少し知っている事を書きますと、ドイツでも昔は映画
「嘆きの天使」の冒頭に出てくるような愚劣な授業が行われて
いたようですが、30年くらい前から会話中心の授業に変わった
そうです。

 天人さんや上の教授は辞書を買うのは当たり前と思っている
ようですが、私の見学したドイツの高校1年生の英語の授業で
は誰も辞書を持っていませんでした。テキストも先生がプリン
トしたもので、新しい単語はそのプリントの最後に英英辞典の
ような説明を付けていました。

 授業は全部英語で進めていました。先生が英語で説明し、質
問し、生徒が英語で答えていました。授業の後、先生に聞いた
所、ダイレクト・メソッドは最初の4週間くらいが大変だが、
そこを乗り切れば後は同じ、との事でした。

 もちろん教師のための研修は相当行われているようです。研
修の日程のための小冊子もあるくらいです。

 私の知っている範囲では、昔の授業も大した事はなかったと
思います。昔の教養主義は戦争を阻止することができなかった
ではないか、という主張もあります。そこまで言わないにして
も、昔の大学生は一種の特権階級でしたから、外国語学習はそ
ういう人達の教養とは趣味か飾りでしかなかったと思います。

 現に、そういう教育を受けてきた現在の教授が新しい事態に
対して何も出来ない教授になっているのではないでしょうか。

 最近は留学が簡単に出来るようになりましたので、語学教師
は留学して外国人の友達を作って満足している傾向もあると思
います。NHKのラジオドイツ語講座を聞いているとそう思い
ます。

 そこに出てくる講師も会話が出来るだけで、文法はほとんど
研究していないと推定されます。そもそも質問に答えるという
「教養」の基本がありません。

 英語教育や第2外国語の教育はどうしたらよいか。私案は既
に本メルマガでもいくつかの所で書いたと思いますので、今回
は書きません。

 最後に、天人さんの揚げ足取りを1つ。

 上の文章の中に「正確さを期する」という表現が出てきま
す。これは「正確を期する」が本当ではないでしょうか。ぜひ
「国語辞典」を見て調べてみて下さい。そして、国語辞典で分
からなかったら、こういう国語辞典しか作れない「かつての
語学教育を受けた人々」の教養とは何なのか、考えてみて下さ
い。

 この文章も天人さんに送ってみます。果して返事がくるでし
ょうか。

(2005年08月20日発行)