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ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

 2008年10月から「第2マキペディア」として続けることにしました。

教育の広場、第 217号、批判(02、批判と自己批判)

2005年11月22日 | ハ行
 本メルマガの第30号(2001年06月06日配信)に「実証主義の見本」と題する文章を書きました。

 それは、茨城大学の教育学部の某教授のアンケート調査について批評したものです。

 今回、8人の研究者が11の公立小中学校に1年近く通って調査した結果、学力向上策は7つのカギにまとめられると結論した、と報じられました(2005,11,06, 朝日)。

 8人の研究者とは「大阪市立大学の鍋島祥郎助教授らと教員のグループ」だそうです。テーマは「さまざまな家庭の子どもの学力格差をどう乗り越えるか」だそうです。

 その結果としてまとめた「学力向上の7つのカギ」とは次のとおりです。

 第1のカギ。子どもを荒れさせない。
 第2のカギ。子どもを力づける集団づくり。
 第3のカギ。チーム力を大切にする学校運営。
 第4のカギ。実践志向の積極的な学校文化。
 第5のカギ。外部と連携する学校づくり。
 第6のカギ。基礎学力定着のためのシステム。
 第7のカギ。リーダーとリーダーシップの存在。

 分かりにくい所だけ詳しく見てみますと、第2のカギは「生徒の一人一人に『自分は必要な人間だ』と実感させるようにすること」だそうです。

 第4のカギは、「教職員が『まずやってみよう』という雰囲気を共有していること」だそうです。

 第7のカギは、「管理職の方針を徹底させる」のではなく、「教務、生徒指導、学年主任が中堅として働いて」「責任の所在をはっきりさせながら同じ方向に進む教師集団」が出来ていることだそうです。

 さて、この7つのカギを見渡して皆さんはどう思いますか。7つがバラバラの感じがしませんか。これがこの結論の間違いないし不十分性を証明しています。これでは実践には役立たないでしょう。

 ひとまとまりの物事は核心と2次的なものと3次的なものといったように立体的に出来ています。それを見抜けないのは、見る人の方の理解力が不十分だからです。

 次に1つ1つを見てみましょう。第1のカギは当たり前の前提です。他の事柄の結果です。カギとするべきものではないと思います。

 第2のカギは方法の1つですが、中間的なものでしょう。

 第3のカギこそが核心です。そして、このような教師集団を作り発展させるのは校長の第1の仕事です。この8人の方々は「学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである」という根本命題を知らないようで、この校長の責任を指摘していません。

 第4のカギはこうして取り上げるほどの事でもないと思います。

 第5のカギは当然ですが、「未成年者の教育は家庭と学校と地域社会の3者が協力して行うものであり、学校はその中での学校の役割を繰り返し反省し、他の2者と相談しなければならない」という根本的な命題に定式化しておくべきでしょう。

 第6のカギは「学力向上策」をテーマにしているのですから、当たり前です。1つの技術です。

 第7のカギは第3のカギの一部として理解するべきでしょう。ともかく分かりにくいです。多分、民主主義における討論の必要性とトップのリーダーシップの兼ね合いのことなのでしょう。

 このように考えてみますと、要するに、カギは第5を前提して、核心は第3です。これは私が繰り返し主張していることです。

 では、この8人の方々はなぜこんな当たり前の事を確認するのに1年間もかけたのでしょうか。又、なぜこのようなバラバラな形にしか纏められなかったのでしょうか。

 それは多分、8人の方々はみな、学校教員であるにも拘らず、自分の学校の様子を反省して、その善し悪しの原因を考えていない(という程ではないにしても、不十分にしか考えていない)からだと思います。つまり、自己反省の欠如(不十分さ)が他者考察の不十分さを結果しているのだと思います。

 ここまで言うと、すぐにも連想されるのが、「批判と自己批判」という言葉です。昔、左翼運動の中で「万能の力を持つもの」かのように振り回されていた言葉です。かつては共産党の規約の中にも「批判と自己批判の方法」などという意味不明の言葉がありました。

 原理的な検討なくして使われていたその言葉は、実際には、「幹部の方針と異なった意見ないし行動をした人に、自己批判という名の土下座をさせること」を意味していました。

 今ではほとんど口にする人もいなくなりましたが、それの本当の意味は、「他者認識(批判)と自己認識(自己批判)は1つの認識の両面である」という意味であり、言葉としても「批判と自己批判の統一」と定式化するべきものでした。

 左翼運動は、共産党などが今でも少しがんばっているようですが、消滅の方向に進んでいます。しかし、左翼運動はとにもかくにも「人類解放」という大目標を掲げて行われた運動なのです。そこで出てきた問題はやはりどんな社会運動をする人にとっても考えなければならない大切な問題だと思います。

  (2005年11月22日発行)


批判は易しく、創造は難しい

2005年11月04日 | ハ行

 (2003年)05月03日の朝日新聞に「アフガン作戦、幕引き図る米」という見出しの記事が載りました。その他の見出しも書きますと、「乏しい戦果、泥沼化の懸念も」「カルザイ政権さらに弱く」とあります。

これだけでその記事の内容は大体分かります。つまり、2001年09月11日のいわゆる「同時多発テロ」に対して米軍は2001年10月、アフガン作戦を起こしました。それから1年半たった今、所期の成果を上げることなく打ち切りにしようとしている、ということです。

 別の記事によりますと、アフガンではカルザイ大統領は米軍の保護がないと身が危うく、首都カブールの外には出られないそうです。このままでは再びタリバーンが出てきてもおかしくないと思います。

なぜなら、タリバーンが支配権を握れたのは、諸部族の割拠が収まらず、治安が確保されなかったことが背景としてあったからです。タリバーンはともかく治安を確保したのです。

たしかにそれは大暴力団が全国制覇したために中小の暴力団が暗躍できなくなったというものではあります。しかし、民衆にとってはともかく治安の維持が第一なのです。

アフガンの現状をどう考えたらよいのでしょうか。

その記事の中に引用されている現地の有力者の言葉があります。「米軍は将来のアフガン政権づくりなど考えてこなかった。敵を倒すことばかり考えた荒っぽい作戦で逆に敵を量産している」。

私はこれを「批判は易しく、創造は難しい」と捕らえます。いわゆる社会主義革命でも、政権の奪取には成功しましたが、資本主義を上回る国づくりには失敗したのです。

しかし、その困難な創造の仕事こそ我々の目的です。どうしたら好いのでしょうか。それを考えるためには、その国での復興がどこまで進んでいてどういう困難にぶつかっているかを常に正確に知っておく必要があると思います。

先の記事の中にもそれらしき部分はありました。アフガンでは総選挙が来年の夏に予定されていること、その時までに国軍兵士を1万人養成する予定であること、そして現在訓練を受けた兵士が2千人以上いて一部は前線に派遣されていること、などです。

しかし、アフガンの復興の中心が法の支配の確立と経済的自立だとするならば、それがどの程度進んでいるかの全体像はこれでは分かりません。もっと必要十分な報道をしてほしいと思います。

つまり、私の考える所では、こういう問題ではマスコミの報道責任がとても大きいと思うのです。マスコミは例えば、毎月一定の日を「アフガンの日」と決めて、その日には必ずアフガンの復興の現状を伝える記事を載せるとかするべきだと思うのです。

小学校がいくつになったとか、学校に通う生徒数が何人になったとか、警察官が何人になったとか、犯罪が減ったとか、会社がいくつ生まれたとか、これこれの経済統計が出されるようになったとか、そういう事を毎月報告してほしいと思うのです。

05月07日の朝日新聞には、「平和維持は民生支援から」と題して東ティモールでのPKO(外国部隊の平和維持活動)の様子が報告されています。

記事の中でも「2002年05月の独立後、治安はおおむね安定しているが、支配層だったインドネシア人が引き揚げ、国づくりを担う人材が極端に不足している」とありました。つまりこの国の場合は、アフガンと違って治安は安定しているのです。

そして、この記事には「各国部隊の主な民生支援活動」の一覧表まで載っていました。しかし、これでもまだ不十分だと思います。非政府組織(NPO)などの活動には触れられておらず、肝心の東ティモールの人達の努力も書いてないからです。

新聞には毎日、将棋の棋譜が載っています。それを見ると必ず「終了図」というのが付いています。私は復興支援では、マスコミは毎月決まった日にその国の復興のその時点での「終了図」を載せてほしいと思うのです。

これから始まるイラクの復興でも同じです。

(2003年05月07日発行「教育の広場」から転載)

ペルー人学校への寄付に思う

2005年06月15日 | ハ行
浜松市は日系2世のブラジル人やペルー人の一番多い町です。日系ブラジル人の子どもたちのための学校(ポルトガル語系)は3校あると聞いています。2年ほど前に日本人女性(松本雅美さん)の努力で日系ペルー人(スペイン語系)のための学校が作られました。ムンド・デ・アレグリアです。

例によって財政難で経営は困難でした。授業料は当初4万6千円でしたが、昨年9月からは3万円になりました。それでも授業料が払えなくて辞めていく生徒が後を絶たないそうです。

昨年、静岡県が各種学校と認めるための条件を緩和しました。借家でもよいとかです。そのため平成17年度予算で浜松市は補助金を出せるようになり、予算を組みました。たった 145万円ですが。

そして、この3月23日、地元の企業のスズキとかホンダとか約50社が約2千万円の寄付を申し出ました。このため今月からは小学生1万5千円、中学生・高校生2万円に引き下げたそう
です。

この際、この件で考えていた事をまとめておきたいと思いますが、前提として、この校長の話(TVで聞いた話)をお伝えします。

この学校は授業料が3万円で生徒が50人いれば一応経営的に成り立つとのことでした。基本的には月 150万円で成り立つということです。年間約1800万円です。もちろん生徒が増えれば
経費も増えますが、その時は授業料収入も増えるわけですから、50人以上なら大丈夫なわけです。

さて、私がまず第1に問題にしたい事は、浜松市の予算がたったの 145万円でいいのかということです。これを聞いたとき、とてもがっかりしました。

今多くのく自治体で職員の互助組合への補助金という名の第2給与が問題になっています。特に大阪市はそれがこれまで1人当たり11万円(総額65億円)だったそうで大問題になってい
ます。

では浜松市はいくらでしょうか。1人当たり2万9千円です。一般職員は3828人ですから、総額で1億1千万円余りです。

ヤミ給与にこれだけ出すのにペルー人学校にはたった 145万円。言うべき言葉を知りません。これに黙っている職員も職員です。

第2におかしいと思うことは、浜松市の教員ないし教員組合の動きが伝わってこないことです。教育委員会に問い合わせたところ、浜松市の小学校の校長と教頭はそれぞれ64名、教諭は
1318名です。中学校については校長が32名、教頭が34名、教諭が 739名です。つまり教諭だけでも2057名、管理職を入れれば2251名です。

もしこの人たちが1ヵ月に1人千円を出したとしたら、 200万円余りになるのです。ペルー人学校についても自分たちの力で義務教育無償の原則を実現できるのです。

学校教員は人材確保法とかで普通の公務員より5パーセント増の給与を取っているはずです。1ヵ月千円は問題にならない額のはずです。後はその見識があるかないかだけだと思います。

わが町もこの7月1日に浜松市と合併されます。つまり私も浜松市の市民になるわけです。つまりこういう市長の下でこういう教師たちと一緒に生きていかなければならないのです。

 生きることは苦しみであるとのお釈迦様の言葉を噛みしめています。
(2005年03月28日発行)

他者批判の資格

2005年06月14日 | ハ行
 K・Sさんからご意見をいただきました。まずそれを全文掲載します。

──初めまして。K・Sと申します。39歳.某県在住、私立高校で数学の講師をしております。『哲学の授業』「教科通信(というもの)」には大いに刺激と示唆を受けました。数学における「教科通信」は、どんなふうにできるか、どういうものにするのがよいか、思案中です。

 「教育のひろば」は、第 180号から配信を受けています。毎号たのしみにしております。

 さて、第 195号と第 193号の内容について投書致します。メールマガジン上で取り上げて頂ける場合は匿名でお願いします(年齢・出身地・職業は必要ならば示して頂いてもかまいません)。

まずは第 195号について。

<やれやれ。こんな事で本当に魅力ある授業が生まれるのでしようか。否です。ため息をついていても仕方がないので、考えてみましよう。

静岡県の事業に対するお嘆き、特に、仲間を天下らせるための予算をつける、大枠ではまことにごもっともと思うのですが、細部には不足感があるというか、腑に落ちない部分があります。例えば

<出発点としての事実は「魅力のない授業」が沢山あるということです。残念ながらこれは事実です。私は昨年、某県立高校の英語の授業を2回(高1と高2)参観しましたが、それはそれはお粗末なものでした。内容ゼロでした。生徒が荒れているわけでもないのに、です。本当に生徒が可哀相だと思いました。

 というところ、上記の英語の授業はどんなもので、そのどこがどう「お粗末」であったかを説明して欲しいと思います。詳しいほどいいと思いますが、少しでも、1例だけでも、ともかく「具体的に。

 参観された授業について、いかに牧野さんご自身が「お粗末」「内容ゼロ」と見てとったものであっても、具体的に伝えてもらわなければ参観していない者にはわかりまぜん。それを、ただ「『魅力のない授業』がたくさんある」と書かれて、「うん、そうそう、そういう授業っていっぱいあるよね」とあいまいに頷いて読み進めるような読み方は私にはできません。

 牧野さんは、いったいどのような授業(の例)を魅力のない授業(の例)だとお考えなのかが見えてきて初めて、私(読者)自身の中に「なるほど確かにそれでは魅力に乏しく、困る」となって同意共感が生まれるか、「いや、それはそれで魅力があると捉える生徒もいるのでは?」などという異論が出るかし、「自分の考えを自分にはっきりさせ、さらに発展させる」ことができるのだと思います(あるいは既に類似のことをどこかに発表されているのでしたらご教示下さい。『哲学の授業』『哲学の演習』の2冊は拝読致しましたが、「魅力のない」「内容ゼロ」の授業例への言及はされていなかったと記憶しています)。

 次いで第 198号について。こちらは,かなり遅い反応で恐縮です。

<最後に積極的な提案をしましょう。

このご提案を、あるいは本号の内容全体を、早川氏本人にはお伝えになったのでしょうか。ここに書くだけでなく、それをすべきだと思います。両方同時か、まず早川氏宛が先か、がいいと私は思います。せっかくのこのような文章を早川氏宛に示さないのであれば、それこそそんなことだから「世の中はよくならない」、のではないですか。

 既になさっていらっしやるのでしたらすみませんが、もしそうならば、こういう私のような誤解は十分予想可能なはずですから、そのことを合わせて記して頂ければと思います。また、私の主張は単に「(早川氏に伝えることを)すべきだ」ではなく「牧野さん自身がすべきだ」というものです。よって、もし「引用自由なのだから、そう思ったおまえがせよ」と言われるとすれば、それは的を射ていません。──


    感想(牧野 紀之)

 こういう「やる気がないのにあるように偽装している人」とは関係したくないのですが、どこに偽装があるのかを暴露するのも意義があると思いますので、1度だけ感想を書きます。

 第1に、高校の数学の教師であるK・Sさんは私の活動や本に触れて「自分もどういう教科通信を出したらいいか思案中だ」と言っています。つまり、まだ出していないのです。これで「自分には牧野批判の資格がある」と思い込んで批判を展開しているわけです。

 これを読んで思い出したのはわが町の教育長が、「町の小中学校にホームページを作らせろ」という私の要求に対して、「浜松でもそうだったから1年くらいの準備期間が必要だ」と答えたことです。この返事は本メルマガ第 192号に載せてあります。

 つまり、やる気のある人は「すぐ始めてやりながら改善していく」のです。やる気のない人は「すぐにはやらないで何とか理由をつけて先延ばしする」のです。それだけです。言い訳無用。

 第2に、私が授業参観した英語の授業について具体的に描写していないから「自分の考えを自分にはっきりさせ、さらに発展させる」ことができないと言って、責任を私に転嫁しています。

 第 195号の趣旨は、「仲間を天下らせることが真意」というだけではありません。その施策とやらが間違いで、校長のリーダーシップが本当の問題だ、と言っているのです。

 K・Sさんにやる気があったならば、この趣旨を正しく理解し、「自分の学校の校長のリーダーシップはどうかな」と反省してそれを書いただろうと思います。しかし、これはK・Sさんの保身と出世の妨げになると思ったのでしょう。避けています。

 第3に、第 193号の内容を早川和雄さんに直接伝えたのかと質問して、「もし伝えていないならば」という仮定で私を批判しています。K・Sさんは私が憎いのか嫌いなのかどちらかでしょう。それは自由です。しかし、まずは質問だけで止めておくのが常識ある社会人の態度だと思います。

 ついでにその後分かった事を書いておきます。早川和雄さんは長崎総合科学大学の教授ですが、集中講義だけを担当しているそうです。ですから、日頃の教授会にすら出席せず、集中講義の時だけ長崎に来るようです。つまり神戸に住んでいるのでしょう。

 集中講義というものをどう考えるか。私見は本メルマガ第41号(集中講義を全廃せよ。まぐまぐでの配信日は2001,07,14)に書きました。

 第4に、早川さんへは牧野だけが言う義務があるのであって、K・Sさんにはその義務はないという趣旨の事を書いています。しかし、K・Sさんも「牧野がどこそこであなたの事をこう批判していますよ。答えたらどうですか」と言うことは全然悪くないと思います。

 立花隆さんや長谷川宏さんは自分に対するしっかりした学問的な批判を無視して活動を続けています。たしかに、批判には必ず答えなければならないとは言えませんが、総合的にみて答えるべき批判と答えなくてもいい批判とがあると思います。それは一般大衆の判断だと思います。

 立花さんや長谷川さんに対しては一般の方々も「批判に答えたらどうか」と伝えた方がいいと思います。立花さんが批判に答えないので、立花さんへの評価を下げたという人はいます。NHKなどは相変わらず立花さんを使っていますが、良識を疑います。

 最近は偽装が多いようで、かつて世界一の大富豪だった人も株の名義の偽装とやらで逮捕されました。やる気の偽装では逮捕はされないと思います。しかし、簡単に見破られます。牧野批判などというのは教科通信を 100号以上出し、自著を10冊以上出してからでも遅くはないと思います。
(メルマガ「教育の広場」、2005年04月09日発行)