本メルマガの第30号(2001年06月06日配信)に「実証主義の見本」と題する文章を書きました。
それは、茨城大学の教育学部の某教授のアンケート調査について批評したものです。
今回、8人の研究者が11の公立小中学校に1年近く通って調査した結果、学力向上策は7つのカギにまとめられると結論した、と報じられました(2005,11,06, 朝日)。
8人の研究者とは「大阪市立大学の鍋島祥郎助教授らと教員のグループ」だそうです。テーマは「さまざまな家庭の子どもの学力格差をどう乗り越えるか」だそうです。
その結果としてまとめた「学力向上の7つのカギ」とは次のとおりです。
第1のカギ。子どもを荒れさせない。
第2のカギ。子どもを力づける集団づくり。
第3のカギ。チーム力を大切にする学校運営。
第4のカギ。実践志向の積極的な学校文化。
第5のカギ。外部と連携する学校づくり。
第6のカギ。基礎学力定着のためのシステム。
第7のカギ。リーダーとリーダーシップの存在。
分かりにくい所だけ詳しく見てみますと、第2のカギは「生徒の一人一人に『自分は必要な人間だ』と実感させるようにすること」だそうです。
第4のカギは、「教職員が『まずやってみよう』という雰囲気を共有していること」だそうです。
第7のカギは、「管理職の方針を徹底させる」のではなく、「教務、生徒指導、学年主任が中堅として働いて」「責任の所在をはっきりさせながら同じ方向に進む教師集団」が出来ていることだそうです。
さて、この7つのカギを見渡して皆さんはどう思いますか。7つがバラバラの感じがしませんか。これがこの結論の間違いないし不十分性を証明しています。これでは実践には役立たないでしょう。
ひとまとまりの物事は核心と2次的なものと3次的なものといったように立体的に出来ています。それを見抜けないのは、見る人の方の理解力が不十分だからです。
次に1つ1つを見てみましょう。第1のカギは当たり前の前提です。他の事柄の結果です。カギとするべきものではないと思います。
第2のカギは方法の1つですが、中間的なものでしょう。
第3のカギこそが核心です。そして、このような教師集団を作り発展させるのは校長の第1の仕事です。この8人の方々は「学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである」という根本命題を知らないようで、この校長の責任を指摘していません。
第4のカギはこうして取り上げるほどの事でもないと思います。
第5のカギは当然ですが、「未成年者の教育は家庭と学校と地域社会の3者が協力して行うものであり、学校はその中での学校の役割を繰り返し反省し、他の2者と相談しなければならない」という根本的な命題に定式化しておくべきでしょう。
第6のカギは「学力向上策」をテーマにしているのですから、当たり前です。1つの技術です。
第7のカギは第3のカギの一部として理解するべきでしょう。ともかく分かりにくいです。多分、民主主義における討論の必要性とトップのリーダーシップの兼ね合いのことなのでしょう。
このように考えてみますと、要するに、カギは第5を前提して、核心は第3です。これは私が繰り返し主張していることです。
では、この8人の方々はなぜこんな当たり前の事を確認するのに1年間もかけたのでしょうか。又、なぜこのようなバラバラな形にしか纏められなかったのでしょうか。
それは多分、8人の方々はみな、学校教員であるにも拘らず、自分の学校の様子を反省して、その善し悪しの原因を考えていない(という程ではないにしても、不十分にしか考えていない)からだと思います。つまり、自己反省の欠如(不十分さ)が他者考察の不十分さを結果しているのだと思います。
ここまで言うと、すぐにも連想されるのが、「批判と自己批判」という言葉です。昔、左翼運動の中で「万能の力を持つもの」かのように振り回されていた言葉です。かつては共産党の規約の中にも「批判と自己批判の方法」などという意味不明の言葉がありました。
原理的な検討なくして使われていたその言葉は、実際には、「幹部の方針と異なった意見ないし行動をした人に、自己批判という名の土下座をさせること」を意味していました。
今ではほとんど口にする人もいなくなりましたが、それの本当の意味は、「他者認識(批判)と自己認識(自己批判)は1つの認識の両面である」という意味であり、言葉としても「批判と自己批判の統一」と定式化するべきものでした。
左翼運動は、共産党などが今でも少しがんばっているようですが、消滅の方向に進んでいます。しかし、左翼運動はとにもかくにも「人類解放」という大目標を掲げて行われた運動なのです。そこで出てきた問題はやはりどんな社会運動をする人にとっても考えなければならない大切な問題だと思います。
(2005年11月22日発行)
それは、茨城大学の教育学部の某教授のアンケート調査について批評したものです。
今回、8人の研究者が11の公立小中学校に1年近く通って調査した結果、学力向上策は7つのカギにまとめられると結論した、と報じられました(2005,11,06, 朝日)。
8人の研究者とは「大阪市立大学の鍋島祥郎助教授らと教員のグループ」だそうです。テーマは「さまざまな家庭の子どもの学力格差をどう乗り越えるか」だそうです。
その結果としてまとめた「学力向上の7つのカギ」とは次のとおりです。
第1のカギ。子どもを荒れさせない。
第2のカギ。子どもを力づける集団づくり。
第3のカギ。チーム力を大切にする学校運営。
第4のカギ。実践志向の積極的な学校文化。
第5のカギ。外部と連携する学校づくり。
第6のカギ。基礎学力定着のためのシステム。
第7のカギ。リーダーとリーダーシップの存在。
分かりにくい所だけ詳しく見てみますと、第2のカギは「生徒の一人一人に『自分は必要な人間だ』と実感させるようにすること」だそうです。
第4のカギは、「教職員が『まずやってみよう』という雰囲気を共有していること」だそうです。
第7のカギは、「管理職の方針を徹底させる」のではなく、「教務、生徒指導、学年主任が中堅として働いて」「責任の所在をはっきりさせながら同じ方向に進む教師集団」が出来ていることだそうです。
さて、この7つのカギを見渡して皆さんはどう思いますか。7つがバラバラの感じがしませんか。これがこの結論の間違いないし不十分性を証明しています。これでは実践には役立たないでしょう。
ひとまとまりの物事は核心と2次的なものと3次的なものといったように立体的に出来ています。それを見抜けないのは、見る人の方の理解力が不十分だからです。
次に1つ1つを見てみましょう。第1のカギは当たり前の前提です。他の事柄の結果です。カギとするべきものではないと思います。
第2のカギは方法の1つですが、中間的なものでしょう。
第3のカギこそが核心です。そして、このような教師集団を作り発展させるのは校長の第1の仕事です。この8人の方々は「学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである」という根本命題を知らないようで、この校長の責任を指摘していません。
第4のカギはこうして取り上げるほどの事でもないと思います。
第5のカギは当然ですが、「未成年者の教育は家庭と学校と地域社会の3者が協力して行うものであり、学校はその中での学校の役割を繰り返し反省し、他の2者と相談しなければならない」という根本的な命題に定式化しておくべきでしょう。
第6のカギは「学力向上策」をテーマにしているのですから、当たり前です。1つの技術です。
第7のカギは第3のカギの一部として理解するべきでしょう。ともかく分かりにくいです。多分、民主主義における討論の必要性とトップのリーダーシップの兼ね合いのことなのでしょう。
このように考えてみますと、要するに、カギは第5を前提して、核心は第3です。これは私が繰り返し主張していることです。
では、この8人の方々はなぜこんな当たり前の事を確認するのに1年間もかけたのでしょうか。又、なぜこのようなバラバラな形にしか纏められなかったのでしょうか。
それは多分、8人の方々はみな、学校教員であるにも拘らず、自分の学校の様子を反省して、その善し悪しの原因を考えていない(という程ではないにしても、不十分にしか考えていない)からだと思います。つまり、自己反省の欠如(不十分さ)が他者考察の不十分さを結果しているのだと思います。
ここまで言うと、すぐにも連想されるのが、「批判と自己批判」という言葉です。昔、左翼運動の中で「万能の力を持つもの」かのように振り回されていた言葉です。かつては共産党の規約の中にも「批判と自己批判の方法」などという意味不明の言葉がありました。
原理的な検討なくして使われていたその言葉は、実際には、「幹部の方針と異なった意見ないし行動をした人に、自己批判という名の土下座をさせること」を意味していました。
今ではほとんど口にする人もいなくなりましたが、それの本当の意味は、「他者認識(批判)と自己認識(自己批判)は1つの認識の両面である」という意味であり、言葉としても「批判と自己批判の統一」と定式化するべきものでした。
左翼運動は、共産党などが今でも少しがんばっているようですが、消滅の方向に進んでいます。しかし、左翼運動はとにもかくにも「人類解放」という大目標を掲げて行われた運動なのです。そこで出てきた問題はやはりどんな社会運動をする人にとっても考えなければならない大切な問題だと思います。
(2005年11月22日発行)