なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

自転車パンク

2005-06-16 21:46:39 | 昭和
今朝、自転車を見たらパンクしていた。こんな日に限って朝9時までに行かねばならない。タイヤのパンク修理はした事がないし、時間がない。昨夜は車を職場の駐車場に置いて帰ったので代わりの足がない、さあ、困ったと思った時ストックヤードの奥に折りたたみ自転車を収納しているのにきずいた。昨年、近所乗りで買ったもので余り乗ることもなかったが何とか乗れそうな感じだったので今朝は折りたたみ自転車で15キロの道を通勤する事にした。ペダルを踏み出して10分位は良かったがその後は悪戦苦闘した、ロードバイクと違って折りたたみ自転車は前傾姿勢が取れない、だから、腰に重心がかかり、ペダルを思うように踏めないのだ従って速度も出せずイライラしながら職場まで辿りついた。折りたたみ自転車の行動半径はやはり近所乗りだけの目的に作られているのだと思った。職場に着いた時疲労感をロードバイクの倍に感じた。これも、パンクに備えて予備チューブの交換の仕方を覚えていなかった自分が悪いのだ。午後から家に帰り自転車を車に積んで199号沿いの自転車ショップに行ってチューブ交換の仕方の手ほどきを受けた、3回ほど練習するうちに何とか一人で交換出来るようになった。そのショップで最新の折り畳み自転車を見ていたらドイツ製のBD-1が陳列されていた。今大人気の折りたたみ自転車だ。軽さや速度もロードバイク並みに出来るしロングライドもオーケイだ。これなら専用バックに入れてJRに乗って目的地で自転車に乗ることが出来る。なんとも夢のある自転車だ。欲しくなった、でも、今の僕は衝動買いはしない、カタログをもらうだけにとどめた。値段も20万位する。もし、これを衝動買いして帰ったら多分家には入れてもらえないだろう、今のロードバイクを買ったの昨年末だから、その半年後に20万の自転車を買う事は家族のヒンシュクをかうのは必至だ、暫くはカタログを見ながら過ごそう。

洞海湾

2005-06-15 12:54:36 | 昭和
上の写真は明治初期の洞海湾の鳥瞰図である。洞海湾の入り口から見たのであろう。左の山が皿倉山、右の山が高塔山そして真中の島が中の島である。この中の島の真上に現在若戸大橋が掛かっている、この島は石炭輸送と製鉄の船の航行の邪魔になると言う事で昭和初期に削られて消滅した。この鳥瞰図を見て今から140年くらい前の北九州が寒村だった事がよくわかる。官営製鉄所が八幡村に建設決定されたのが明治30年(1897年)。以後この寒村に全国から人が集まり日本を代表する大きな工場地帯に発展していくことになる。140年後の現在の北九州の街の景観からその当時をしのぶものは何も残っていない、だが、皿倉山や高塔山の山の稜線はその当時とあまり変わっていない。だから、それらの山の木々は北九州の歴史をずっと見守ってきたのだ、もし、木々に記憶能力があればそれを再生したら面白いだろうと思う。もしかしたら江戸時代までさかのぼって北九州の歴史を見る事が出来るかもしれない。長崎街道を参勤交代する大名行列もいる、そして一般の人々が街道を歩いている。この一枚の絵を見ながら遥か遠い時代に思いをはせた。江戸時代の人は2週間かけて長崎まで歩いたそれが今では高速道路を2時間で行ける。自転車で行けるルートがあれば途中で宿泊しながら長崎まで行ってみたいと思う。通勤ばかりじゃ僕の「山頭火1号」もかわいそうだ。あー旅に出たい。

本当に恐かった家庭の医学

2005-06-14 22:02:10 | 昭和
何気なくテレビのチャンネルを変えたら「本当は恐い家庭の医学」をやっていた。僕は「またか!」と言う感じで見ていた。この番組は少し大げさすぎる、ちょっとした身体の異変を最重病人にしてしまうからあまり好きな番組ではない。しかし、本日のテーマ「肩こり」に移った時いつになく真剣に画面を注視した。肩こりの中年女性が遂には倒れて病院に運ばれるシーンが登場したからだ。病名は「頚椎椎間板ヘルニア」だった。実は僕は3年前にこれと全く同じ経験をした。しかも、救急車で運ばれたのだ。年末の繁忙期を終えて正月休みもゆっくり休めず昨年の疲れを持ち越したまま仕事をした1月4日の夕方、突然、左手足が動かなくなった、そして、首を動かす事も出来なくなった、しかし、意識はしっかりあった、「しまった!脳血管がやられた」僕はその時思った。そして、近くにいた従業員に救急車を呼ぶように頼んだ。到着した救急隊の人に僕は「多分脳の血管の病気だと思います、血圧も高いし多分そうだと思います」と告げた。救急車で僕は脳外科に搬送された。そして、脳のMRIや検査を受けた、医師の質問にも正常に受け答えも出来た。医師は「脳の写真は全く正常です。それでは、首のレントゲンを撮ります」その結果は「頚椎の3、4がずれています、頚椎椎間板ヘルニアです」と診断された。この病気は加齢により頭を支える首の筋肉が弱くなるのが原因だと説明された。その夜は筋弛緩剤と痛み止めの薬をもらって家に帰る事が出来た。最大の原因は身体に無理を強いた事だった。その3週間前には父の葬儀もあり、タダでさえ超多忙の年末の繁忙期に睡眠時間を惜しんで仕事をした結果だった。次の日僕は整形外科には行かなかった、薬や注射で痛みが取れるのはその場だけた、元から直すには東洋医学しかないと思ったからだ。僕が行ったのは鍼灸治療院だった。そこで僕は生まれて始めて鍼やお灸の治療を受けた、ベットにうつ伏せになっている間に気持ちよくなり居眠りをしたほどだった。腰痛や肩こりは身体を支える腰椎や頚骨の経年変化が原因である、そのためには運動で身体を動かして筋肉をつけるべきだと教えられた、その後の僕は「運動お宅」に変わっていた。今でも、肩が凝る事は時々ある、その時はやはり仕事や運動で無理をしているのだ。だから、仕事は控えめ休息は十分にとるようにこころがけている。肩こりは正直ものである、「無理すんな、お前!」と僕に警告しているのだ。数日前にプログで見た「しろげしんた」さんや「霧雨」さんもお勧めの「低反発マット」を購入した。やはり、本当だった。目覚めが以前よりも気持ちがいい。いいものを紹介してくださった「しろげしんたさん」と「霧雨さん」に改めて感謝です。ありがとう。

個人タクシーその3 

2005-06-13 11:52:45 | 昭和
脳溢血の後遺症を負った父は不自由な右手の代わりに左手で字や絵を書く練習をしたり歩行練習をしたり日の長い一日の殆どをリハビリですごしていた。その成果は日を追うごとに現れ左手で見事な字を書けるようになっていた。食事もトイレも自分で出来るようになったが、身の回りの事が一人で全てできるわけではなかった起きている時は常に母の介護が必要だった。しかし、年月の経過と共にそんな父の姿が当たり前だと思えるようになった。それから、僕は所帯を持ち長女が生まれた。初孫の誕生を一番喜んだのが父だった。初孫を膝に乗せ左手で器用にあやすその顔には満面の笑みがあった。生きていたからこそこうやって初孫を抱けるのだ、僕は親孝行出来た事が嬉しかった。そして、月日が流れて平成13年12月20日、父はこの世を去った。86歳だった。実に倒れてから29年の歳月が流れていた。通夜の席で棺の中の父の顔を見ながら、僕は泣いていた、悲しいのではない、悔しかったのだ。「あの時もう少し健康に注意して生活していたら全く違った人生を過ごしていたはずだ。多分、家も建て老後の資金も蓄え悠々自適の生活を送っていたはずだ、時には旅行や温泉に行ったり。豊な老後が送れたはずだ」と。そして、29年間の介護ですっかり老けた母の姿が哀れだった。
 昭和30年代後半に始まる高度経済成長は日本人に食の欧米化をもたらした、その結果昭和40年代には糖尿病を患う人が増えた、飽食と運動不足の結果だった。その糖尿病は現在でも増加し、国民病といわれるようになった。父も例外なくそれまで殆ど食べた事のないトンカツとか焼肉を日常好んで食べるようになった。昼ごはんはタクシー仲間と一緒に町の定食屋でトンカツ定食なんかを毎日のように食べていた、そして夜の晩酌のツマミは揚げ物が多かった。仕事中は車の運転で殆ど身体を動かす事のない父が高血圧と診断されたのはそれから間もなくの事だった。医者の注意を聞いて食事の量を減らし運動をして体重を下げれば血圧はかなり下がるのだが一度覚えたトンカツや焼肉の味の誘惑には勝てなかった。父達戦前の人は飢餓体験があるので食事を残すとか捨てるという意識は全くなかった。そして、当時は健康情報など殆どない時代だった。当時の料理本を見ると「植物油で揚げた天ぷらやフライは植物性だから多いに食べましょう」と書いている。植物性でも動物性でも油は油だ、大いに食べる食品ではない。高血圧は自覚症状のない病気である、だから、先生の注意を忘れて食べて、飲んで運動もせず体重は増加して行った。おまけに血圧の薬も止めていた。そして、あの日ついに「サイレント・キラー」に倒されたのである。
 僕も父が倒れたと同じ年頃に高血圧と診断された、上が200下が120、それにコレステロール値も高かった。「やばい!おやじと同じじゃないか」と僕は血の気が引いた。そして、父が倒れた後、家族が経済的に窮地に追い込まれた事が頭をよぎった。それから、僕は生活習慣病を克服するため、30年間すい続けたタバコもピタリとやめたそして食事のコントロールと水泳・ランニング・自転車乗りを週に5日ほど継続するようになった。天気の悪い日はジムでも運動するようにした。その結果あれだけ高かった血圧は正常に戻り他の検査値も全て正常になった。僕は一家の大黒柱が健康に注意して生活する事は家族に対しての責任だと思う。自分一人だけの身体ではないのだ、家族いや仕事上の取引先まで迷惑をかけるのだ、不慮の事故なら仕方ない、生活習慣を改善するだけで本人も家族も幸せに暮らせるなら食のコントロールと運動する事は全然苦にならない。むしろ、運動は日常の生活の一部になった、さてと、天気予報では明日も晴れ「明日も我が愛車「山頭火1号」で通勤するか!」


 

個人タクシーその2

2005-06-12 18:59:30 | 昭和
45歳で独立した父の個人タクシーは順調に船出した、高度経済成長が追い風となり、我が家は裕福な生活が出来るようになった。カラーテレビや家電製品を買ったり、時には家族といっしょに外食したり他の家庭よりも少し贅沢な暮らしが出来るようになった。僕は高校に入学し、大学を目指すべく進学クラスに入った、その当時大学に進学希望の高校生は学年の3割程度だった。進学クラスで勉強できるのも父の商売のおかげだった、母は踊りの先生について本格的な名取を目指して生き生きと暮らしていた、それもみんな父のタクシーのおかげだった。しかし、そんな順風満帆な生活が続いたのは昭和49年の1月までだった。その時僕はK無線に入社して福岡で働いていた。その日は公休日でアパートで朝寝していた時大家さんから「戸畑から電話ですよ」と起された。電話は近所のおばちゃんからだった「Tちゃん大変よ!あんたのお父さんが仕事中に倒れて病院に運ばれたよ」。僕は直ぐに着替えて博多駅から戸畑の病院に直行した。病室に着くと「父は大きないびきをかいて寝ていた」その横にいる母は憔悴しきった顔で父の名を呼んでいた。父は脳血栓で倒れたのだ、仕事中の出来事だった、タイヤがパンクしたので車外に出てタイヤ交換中にそのまま倒れたのだ、一月の寒い日の事だ、暖かい車内から寒い外気に触れて脳血管が詰まったのである。しかし、意識不明状態が2ヶ月位続いて父は目がさめた。だが、後遺症が残った、右手足の運動麻痺と言語障害が残った、主治医が予想したとおりの後遺症だった。その後治療とリハビリのお陰で杖をついて自力歩行が出来るようになりやっと退院できた。半年以上に及ぶ長期入院だった。だがその後の生活が大変だった。もう、二度とハンドルは握れない、それは今後収入が0になる事を意味していた。父は近い将来家を建てるための資金を貯めていたのだがそのお金も半分以上が入院治療費で消えていった。現在のような医療保険のある時代ではない。幸いな事に僕は就職して給与があったので僕の収入でその後家族を養って行く事になる。まだ弟は高校生だった、僕は弟の高校だけは絶対に辞めさせないと頑張った。父の障害者年金や軍人恩給そして僕の仕送りで何とか一家は生活を維持していった。そうなのだ、僕達は再び貧乏生活に舞い戻ったのだ。たった10年の幸福な生活だった。「何故もっと健康に注意しなかったのか」と何度も悔やんだものだが現実は現実である。
 次回は父の発病前の生活習慣とその後の父の生涯を予定している。参考になれば幸いである。

個人タクシーその1

2005-06-11 12:39:33 | 昭和
僕の父は昭和39年に独立開業した。個人タクシー営業が陸運局から認可されたのである。僕が中学3年生の時だった。それまでタクシーは法人の営業のみで個人経営のタクシーは日本にはまだなかった。欧米では当り前の個人タクシーを日本でも普及させようと法律が改正されたのだ。しかし、一定の条件を満たした者がそのまま認可されるのではない、既存の法人タクシーの営業をおびやかさいないように個人タクシーには厳しい台数制限があった。父は福岡の陸運局に日参し、ややこしい申請書類の記入の仕方などを教えてもらい、その後面接や筆記試験を受けた。個人タクシードライバーになるには過去の運転歴と本人の人格などがもっとも重視される項目なのだ。当時個人タクシーの申請には多数のプロドライバーが応募しその競争率は数十倍にもなると聞いた。そして、結果を待つこと半年あまりのある日、父に陸運局から営業認可がおりた。しかも、父は戸畑で第一号の個人タクシードライバーとなった。あの厳しい競争を突破して父は独立開業の夢を手に入れたのだ。僕達家族はその喜びに酔いしれた。車の購入や車庫や事務所の建設などの設備資金は銀行が無条件で融資してくれた、個人タクシー許可証が担保も同然だった。そして、父はM醤油の運送部を辞め同僚からも祝福されて第2の人生を歩む事になる。間もなく、新車がやって来た個人○○タクシーの看板が眩しかった。上の写真は神社に行ってお祓いを受けた後車と父を写したものである。車はトヨペット・コロナ、マイカーなど庶民には高値の花だった時代だ。この個人タクシーの営業を期に我が家は経済的に少しづつ楽になって行った。やっと長い貧乏生活から脱出できたのだ。父はその時45歳になっていた、少し遅咲きの開花だった。                               次回へ続く

折尾消滅!

2005-06-10 21:25:29 | 昭和
午前中折尾に用事があったので車を新市場前の有料に留めて用事をすませた。一年ぶりの折尾の町だった。僕はヒマだったので折尾の町をウオーキングする事にした。駅前の丸和に入ったら一階にあったテナントが殆ど撤退していた。前はロッテリアやお菓子の店があって高校生達で賑わっていたのだ、それが広い誰もいない空間に変わっていた。それから堀川沿いを歩いた、新市場も客はまばらだ、開きテナントも目立つ、20数年前に僕達は則松の団地に住んでいた、その頃の買い物はいつも折尾だった、特に新市場は家内のお気に入りだった。家内はスーパーよりも市場での買い物を好んでいた。対面販売で世間話が出来るとか、今日は野菜を一つおまけしてもらったとか喜んでいた。あの頃の折尾の町の人ごみは前に自由に歩く事も出来ないほど人で混雑していた。その面影は今はない。スーパーマルキョウも撤退した、NTT折尾も撤退した、そして折尾郵便局も本局使命を終えて別の場所に移転した。そして、かっての商店街には空きテナントの張り紙が目立つ。しかし、旧199号線の渋滞は相変わらずだ。まさに、ただの通過道路になってしまった。去年よりもさらに折尾の町はさびれていた。このままでは折尾が危ない。そんな事を考えながら再び折尾駅に戻った。腹がへったので駅構内の売店で東筑軒の「かしわ飯」を買った。この折尾駅は実に風情がある、建物の外観といい構内は明治時代のまま現役で頑張っている。明治から昭和30年代まで石炭で賑わった折尾のため息が聞こえてくるような感じだった。そして、ひさしぶりのかしわ飯を食べながら折尾の繁栄を願った。かしわめし美味かった、端っこに添えられている奈良漬けとの相性が実に絶妙なのだ。

自転車ツーキニスト

2005-06-09 13:18:07 | 昭和
自転車通勤の人を「自転車ツーキニスト」と呼ぶ。都会では電車の時刻表から開放されたサラリーマンがロードバイクやMTBで通勤する人が増えた、HPを立ち上げているツーキニストも多数いる。実は僕もこの春から「自転車ツーキニスト」になった。天候や仕事の都合もあり毎日は乗れないがそれでも週に5日ほどは乗っている。僕の通勤コースは出来るだけ車の少ない道路そして広い歩道がある道を条件に3コースほど試してみた。その結果時間がかかり少し長い昇り坂があるコースを選んだ。学研都市の長い坂を駆け上り若松の花野路につき当たりさらに西に行くと遠賀川の河口堰に出るコースだ。車の排気ガスを浴びることなく、緑の中を夕日に向かって走る時の気分は最高である。そして、遠賀川の河口堰に着いたら水のみ休憩をとる事にしている。目の前には芦屋の洞山にまさに沈まんとする夕日とご対面できる。昨日は雲もなく、それはきれいな夕日の写真を撮る事が出来た。それから、再びペダルをこぎ御牧大橋を渡り競艇場前を通過する途中に速度違反取締りのパトカーが待機している、僕はさらに加速して時速40キロ出した、しかし、お咎めなしだ、自転車と言えども速度制限は30キロなのにおかしいじゃないか、よしモット足を鍛えて今度は50キロ出してやるぞと思った。そして、家に帰り着き自転車を降りる時充実感と幸福感を味わう、それは、長い距離をガソリンも電気も使わず自分自身の足でペダルをこいで家に帰ってきたという満足感にほかならない。「健康だからできるのだ」と自分の健康に感謝する。
 そして、本日サイクルコンピュータの積算距離が1000kを超えた。60日で千キロだから月に500キロ走った事になる。ガソリン価格に換算するとこの2ヶ月で23000円位(僕の車は燃費が悪い1リッターあたり5キロしか走らない)浮いた計算になる。しかし、車じゃないのをいい事に時々家の近所の居酒屋でビール飲んで焼き鳥を食べたりするので実際はガソリンを節約した事にはならない。しっかり自分に麦酒燃料を注入しているではないか。車通勤では考えられないほど自転車通勤は面白い。最近太ももの筋肉が割れてきた。          *上の写真は遠賀川河口に沈む夕日と我が愛車「山頭火1号」

マフラー改造車

2005-06-08 18:00:37 | 昭和
昨日のプログは犬害で終った、実はもうひとつ騒音の元が隣にある。それは大型犬を飼っている家の息子(24歳・フリーター)の所有している車の騒音なのだ。どこがうるさいのかと言うとマフラーを改造しているのだエンジンをかけると我が家のガラスが振動するくらいの大きな音を出す。しかも、何処かのコンビニを2軒掛け持ちでアルバイトしているため車の出入りが早朝や深夜に及ぶ。昼間なら気にならないそのマフラー音は深夜の閑静な住宅街ではかなりの音になる。もう、1年位その騒音に悩まされている。夜寝入りばなに重低音の何とも気分の悪くなるようなマフラーの音に目が覚めて睡眠障害を起こしてしまった、おまけに血圧まで高くなり、病院に行き降圧剤と睡眠薬を処方されるようになった。就寝時刻はそのバカ息子の帰って来る前に熟睡状態にしておきたいのでいつも11時過ぎに睡眠薬を飲んで就寝するようにした、薬のお蔭で目が覚める事なく朝まで熟睡出来るようになった。しかし、あのようなマフラーを改造して公道を堂々と走る事は道交法に違反していないのだろうか?最近軽自動車なんかにもマフラーを改造しているのをよく見かける。警察官もねずみ取りばかりに精を出さずに違法改造の車をどんどん摘発して欲しい。そして、静かな環境を取り戻して欲しい。睡眠剤に頼らず夏の夜はエアコンを入れず外気を部屋に入れながら扇風機の風量弱で寝ていた数年前の生活に戻りたいと思うのである。話は変わるが、その24歳の息子は2軒のコンビニを掛け持ちでバイトして収入は月に10万円位だそうだ、その収入の殆どを車のパーツ関係に使っているらしい、衣食住は親がかりだ。こんな若者の存在が現在社会問題になっている、少子化に歯止めがかからない原因の一つだ将来的には年金の存続さえ危ぶまれる問題である。昨日も今日も暗い話題ばかり、明日は明るい話題のプログを書きたいと思う。

犬害

2005-06-07 17:42:34 | 昭和
現在の家に引っ越して約10年になる。この家を購入する時の条件がひとつだけあった。それは、静かな住環境だけだった。何故かと言うと、それまで住んだ家は車の騒音が終日ウルサイ環境だった。だから今の家を購入する前に日に何回もこの家の周囲の騒音を一週間にわたって調べた。結果はこれまで検討した宅地の中では最高の条件だった。特に夜間9時以降の車の往来は殆どなかった。よって、今の家の購入を決定したのである。夏でも網戸だけで涼しい風が入ってくる、車の騒音でテレビの音が妨害される事もなくなった。僕達家族は静かな田園風景の広がる空気のきれいなこの住宅地で平穏な生活を送っていた。ところが、5年位前から両隣が犬を飼い始めたのだ、右隣は中型犬、左隣は大型犬、その犬が終日吼えまくるのだからたまらない。そして、僕の住んでいる組は半数以上が犬を飼い始めた、その犬を散歩させる時に各家庭の犬が一斉に吠え出すとテレビの音など飛んでしまう。中には夜11時を過ぎても散歩させる人もおり、その犬の通過前後は犬の大合唱である。犬が吼えないのは雨の日くらいである。おまけに夜遅く犬を散歩させる人は糞の始末をしない。まさしく、犬害である。ここ数年夜は窓を開けて網戸だけで寝た事がない、早々とエアコンのスイッチを入れる生活が続いている。ちなみにどれくらい凄い犬の吼え声なのかと言うと、車の盗難警報機が作動するくらいの音なのだ。想像頂けるだろうか?10年前の予備調査では犬の吼える声は殆どなかった。空前のペットブームと言われて久しい。しかし、そのブームの陰で迷惑している人もいるのだと言う事を愛犬家の方にわかって欲しい。10年後の住環境が「犬」によって損なわれるとは想像もしなかったことである。