なすがままに

あくせく生きるのはもう沢山、何があってもゆっくり時の流れに身をまかせ、なすがままに生きよう。

オーデイオブーム最終回

2005-06-05 12:48:23 | 昭和
昭和55年の年が明けた頃。K無線はもはや危機的状況だった。メインバンクのN銀や最大取引先のP社から役員がK無線に送りこまれてきた。僕達は彼らから常に監視されているみたいで落ち着かない日々を過ごしていた。言わば、敗軍の捕虜みたいな気持ちだった。銀行やメーカーが入って経営を立て直す手段を探しているのだ、つまり、K無線の優秀な販売能力、しっかりと整理された顧客名簿を生かして再建しようと言う考えだった。その再建策がその年の春に決定した。それは、K無線の現社長及び一族の解任、そして、B電器への経営権の委譲だった。K無線の社員もB電器の社員になる事も決定した。K無線の同僚達はその決定を大歓迎した。「大きなB電器の社員になれる、そしてオーデイ販売もこれまでのやり方で出来る」みんなは大喜びだった。そんな、同僚達の歓迎ムードを僕は冷ややかな目で見ていた。そして、K無線破産の記者発表が本社ビルで開かれた。社長を真中に僕達幹部社員が並んだ、前には多くの報道陣が待ち構えていた。僕達の社長は穏やかな顔を取り戻していた。そして口を開いた「社員の諸君、関係者の皆様このたびは私の不徳のいたすところからこのような結果になり申し訳なく思っております。敗軍の将 兵を語らずと申します。みんな私の責任です。私の心にこの数ヶ月常にわだかまっていたものがきれいに晴れました。それは、私とともに頑張ってきた私のかわいい社員の今後の生活の事だけでした、彼らを路頭に迷わせたくない、入社した時は独身社員の彼らも家庭を持ち父親として頑張っています。こんな優秀な社員を持つ事は私の誇りでした。B電器に彼らが移籍出来る事で私の最後の仕事が終わりました。社員諸君ありがとう、新しいB電器でK無線魂を発揮して頑張ってください」すばらしい演説だった、僕達は男泣きした、そして社長と抱き合った。その様子はテレビでもローカルニュースとして放映された。
 僕はB電器に移籍する事を辞退した。その年の8月僕はK無線を辞職した。その時僕は一歳半の娘の父親になっていた。自ら路頭に迷う道を選んだのだ。何故B電器移籍を辞退したのかと言うと、B電器の目的はK無線のオーデイオ販売のノウハウと顧客名簿が欲しかったのだ。その目的を達成したら元K無線の社員はお払い箱になるはずだと確信したからだ。それに年齢が30過ぎの社員を雇う給与もB電器の負担も経費増となるからだ。僕の予想は的中した、それから一年以内にB電器に移籍した元K無線の同僚達は全て辞職してしまった。つまり、去るも地獄、残るも地獄だったわけだ。B電器のそんな昔の出来事がいまだに忘れられない僕は今でも電気製品はB電器では絶対に買わない、買うのはいつもデオデオばかりだ。広島の第一産業のあの日の担当者の熱心なまなざしが今でも僕の心にある。こうして8年のオーデイオ店勤務は終わった。そして、K無線の社長はその後体調を崩し入退院を繰り返した後間もなくこの世を去った。オーデイオと音楽にロマンを求め続けた70年の人生だった。その時僕は31歳になっていた。まだ、まだやり直しは出来る、わずかばかりの退職金と失業保険そして貯金で僕は職を探すこともせずその後一年の長期休暇を取った。妻は「8年間の疲れが取れるまでユックリ休みなさい、うちも働くけ」なんとも嬉しい彼女の言葉に僕は胸が熱くなった。                              上の写真は久留米時代の僕のオーデイオ装置。全て金額換算すると250万円位