『虚鐸伝記国字解』によると「虚無僧の祖は楠木正成の子
正勝」だという。正史では「楠木正勝」の実在すら不明の
人物である。
また、普化宗を中国から日本に伝えたのは、由良の興国寺の
開山「法燈国師覚心」としている。法燈国師の正史には
「普化宗」との関係を示すものは皆無なのだが、なぜ
「法燈国師」を普化宗の日本開祖に担ぎ出したのかが
謎なのである。
その答えは、由良の興国寺が南朝寄りだったからではないかと
私は推察している。「興国寺」は鎌倉時代に「法燈国師」に
よって開かれた時は、高野山真言密教系の寺で「西方寺」
だった。
それが「法燈」の弟子「孤峰覚明」(1271~1361)の時、
後醍醐帝、後村上帝の帰依を受けて、「興国寺」と改名される。
「興国」とは、後村上天皇の1340年から1346年までの南朝の
年号である。
つまり、「西方寺」が「興国寺」となったのは、二代目住職の
「孤峰覚明」の時、1271~1346年の間のことであった。禅宗に
宗旨替えしたのもこの時であろうか。
由良の興国寺が南朝方であったことから、一休も「法燈国師」
には関心をもっており、詩にも詠んでいる。
私の推測だが、虚無僧たちは、一休の詩から「由良の開山、
法燈国師覚心」を知り、興国寺が南朝方であったことから
「楠正勝」の名を担ぎだしてきたのではないだろうか。
そもそも、『虚鐸伝記国字解』は、江戸時代の後半、
出自の怪しげな虚無僧宗に対して、幕府の詮議が厳しくなり、
虚無僧の由緒を正しくするために、虚無僧の意を受けた者が
創作したものと私は考えている。