現代の虚無僧一路の日記

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1919年大流行のスペイン風邪で亡くなった大山捨松

2021-01-07 23:08:32 | 会津藩のこと

新型コロナウイルスで亡くなられた方は、昨日までに3,800人。

100年前、世界中に猛威を振るったスペイン風邪で、日本でも約40万人が亡くなった。桁違いに多かった。

有名人では、劇作家の島村抱月(1871~1918年)。皇族の竹田宮家当主「竹田宮恒久王」(1882~1919年)。西園寺公望の兄で宮内卿、内大臣を務めた徳大寺実則(1840~1919年)が亡くなった。

野口英世の母「おシカ」さんもスペイン風邪で亡くなったそうだ。


そして会津藩家老山川大蔵の妹で、西郷隆盛の従弟大山巌の後妻となった大山捨松もスペイン風邪で亡くなった。

明治元年、戊辰戦争で会津は敗れ、明治2年藩士は青森県下北半島の斗南藩に移住。不毛の地で刀を鍬に持ち替えて山野を切り拓くも、明治4年廃藩置県で斗南藩が消滅。藩士の多くは故郷会津か東京に移住した。会津藩家老山川大蔵は妹の咲子をアメリカの女学校に留学させる。咲子11歳。当時アメリカに渡るのも命がけ。母は「捨てた思いで帰りを待つ」という意味をこめて「捨松」と改名させた。同行者に津田塾を創設した津田梅子6歳。

アメリカで12年。大学を優秀成績で卒業し、1882年帰国。しかし「女に教育は要らぬ」という男尊女卑の日本では仕事は与えられず。大山巌の後妻となる。大山巌は西郷隆盛の従弟。薩摩藩士で戊辰戦争では会津を攻めた総大将。犬猿の仲の薩摩人との結婚はアンビリバボー。周囲の猛反対を押し切って結婚。大山巌44歳。捨松22歳。大山巌はフランスにも留学しており、外国帰りの捨松とは馬があった。鹿鳴館で外国の公使、商館長を招いて様式の結婚披露を開催。たちまち「鹿鳴館の女王」となる。大山巌は日清、日露戦争で司令官を務め、陸軍大臣、公爵にまで出世した。捨松は夫のバックアップもあって、日本初の看護学校を設立。また女子学習院、津田梅子の英語塾の設立に大きく関わる。

大山捨松の生涯 ~その情熱と志~

明治維新から、わずか4年後の1871年。5人の少女がアメリカに渡った。その中に当時12歳の山川咲子、のちの大山捨松がいた。激動の明治時代にあ...

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