現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

家康の義妹「多劫(たけ)姫」とは

2021-06-19 20:06:34 | 会津藩のこと

多劫姫」(たけひめ)とは?

母は於大の方。 於大は、初め「松平広忠」に嫁ぎ「竹千代(後の徳川家康)」を

生んだが、離縁させられて「久松俊勝」に再嫁した。そして生んだのが多劫姫

多劫姫は家康の異父妹となる。

多劫姫は、最初、桜井松平家松平忠正の室となり、家広を生んだが、まもなく

忠正が亡くなったため、その弟の松平忠吉と再婚し、信吉忠頼の二人の子をもうける。

 

桜井松平家は、三河一向一揆では家康に敵対し、後、許されて家康に属するが、

代々短命で、忠正の後は弟の忠吉が、忠吉の後は広。その後は忠頼が継ぐが、

忠頼も27歳で旗本の喧嘩の仲裁にはいって殺される。実は我が家の先祖は、

浜松の城主だった松平忠頼の家臣だったが、忠頼の落命でお家断絶。その後

浜松の藩主となった水野重仲に召抱えられた。

 

さて、多劫姫は、忠吉の死後、保科正直の室となるのである。三度目の夫。

保科正直には先妻との間に「正光」がいた。

多劫姫は正直に再々嫁して、「正貞」を産む。母親違いの兄「正光」には

子がなったため、「正貞」を世継としていた。そこへ二代将軍秀忠から

正之」を押し付けられる。

 

秀忠が隠し子の正之を 預けた先が なぜ保科正光だったのか?

多くの書籍では、「武田信玄の娘見性院が、旧武田の属臣であった保科正光に預けた。(信州の片田舎、高遠であれば目立たない)」というような論調であるが、見過ごしていた。その時の正光の母は、家康の妹、ということは秀忠にとって叔母の多劫姫だったのである。つまり秀忠は保科正光というより叔母の多劫姫に預けたのだった。これなら理解できる。

さてそれで、多劫姫の生んだ子「正貞」(正光とは母違いの弟)は気の毒にも、出奔して放浪し一時は桑名にいた。後、正之が会津藩主となると、正之は兄「正貞」を立てて「保科本家」として遇する。といっても元々高遠保科は一万石の小藩だったのだから、房総の飯野に陣屋を置く程度で江戸詰めの大名だった。

だが、この飯野保科家と会津は幕末まで深いつながりを持つ。

ペリー来航で会津藩が房総の警備に当たった時は、飯野陣屋に世話になる。

また、容保の義姉「照姫」は飯野保科の出。そして会津戦争の責任を

負わされて、萱野権兵衛長修が切腹した場所が、保科家の江戸藩邸。

これは偶然ではない。明治政府も、よくぞ遡って会津と飯野との

つながりを知っていたものと感心する。

千葉県房総半島の飯野保科家の祖となった保科正貞

 


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