現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『八重の桜』 第27回 中野竹子 涙橋に散る

2013-07-08 16:01:52 | 「八重の桜」

『八重の桜』第27回、中野竹子(黒木メイサ)と 神保修理の妻
ゆきこ(芦名星)の死。

中野竹子の父平内は江戸詰めだったため、会津に下向しても
城下に屋敷は無かった。それで竹子たちは「坂下(ばんげ)」に
仮住まいしていた。「山ノ内」家とも、薙刀師範の「赤岡」家とも。
竹子は「赤岡家」の養女になっいたとの話もある。

水島(依田)菊子の『会津婦女隊従軍の思ひ出』によると、
「菊子は姉の依田まき子と共に城に入ろうとしたが、城門が
閉ざされていたので、仕方なく、米代一ノ丁を西へ進むと、
外郭外堀の川原町口付近で、会津坂下から駆け付けた中野竹子ら
親子と出会った」とある。やはり「坂下」に居たようだ。

そこに、城より来た藩士が「照姫様は坂下へ御立退きになった」
というので、竹子らは坂下に戻った。しかし、照姫一行は、
来ていなかった。六人は落胆し、近くの法界寺に入って一晩を
過ごした。
その晩、妹の優子が敵の慰み者になってはと、殺そうかと
いう相談をしているのを聞き、菊子は必死に止めたという。

そして翌日、再び城に向かい、柳橋で敵に遭遇した。その時に
なって薙刀では鉄砲、大砲に敵わないことを漸く知る。
(なんで、それまで気がつかなんだべ)。


会津若松市の北西、七日町通りを過ぎると、只見線の踏切りが
あり、その先黒川にかかる橋が「柳橋」。その畔に今
「中野竹子」の像が立つ。

江戸時代、この先に刑場があった。処刑される罪人がここで
家族と最後の別れをしたので「涙橋」とも呼ばれた。
その先には遺体処理に携わる村があり、「ライ小屋」も
あった。

中野竹子たちは そんな場所で西軍と遭遇し、竹子は銃に倒れた。
竹子の首は妹の優子が介錯したとも、また郷士が斬ったとも。
そして再び坂下まで戻り、竹子の首は「法界寺」に葬られた。

七日町にある阿弥陀寺。ここは処刑された罪人を葬る寺だった。
会津戦争で戦死した会津藩士は埋葬することを許されず、
八方手を尽くして、翌年になってようやく許可を得たのが、
ここ阿弥陀寺に罪人として埋葬することだった。1300人
もの遺骨が集められて、墓石は「戦死墓」とだけ書かれている。


私の母の生家は、七日町に続く「西名子屋町」(現日新町)。
「名子」とは「名主」に隷属する身分の者という意味。
母方の「山室」の曽祖父は、会津戦争後、斗南(青森県の
下北)に移住し、明治四年、乞食同然の姿で会津に帰って
きてみれば、家屋敷は人手に渡り、城の郭外にしか住めな
かったのだ。そして祖父は野口英世と同じく、苦学して
医者になり、この町で人々の救済に尽くした。

私は子供の頃、毎年夏休みに一ヶ月、母の実家に預けられ、
七日町の阿弥陀寺まではよく遊びにいった。「戦死墓」の
横には、新撰組の最後の隊長で、後に時尾と結婚した
「斉藤一」の墓もあったことは、全く知らなかった。



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