『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」の最期に、興味深いことが
書いてあります。
西郷頼母と20年連れ添った「きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで
写真を撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が
霊山の神主になった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が
別れた理由を問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかった。
その3年後の明治26年、「きみ」は 47歳で 南会津郡
伊南村の神官「大宅正則」に嫁した。名前も「照(てる)」と
改名している。
そして、大正14年12月28日、その村で亡くなっている。
墓は「伊南村白沢」にある。
「きみ」の晩年に数年間仕えたという婦人の娘が、
「母から聞いた話」というのが面白い。
①「きみ」さんの誇りは最後まで「会津藩家老の妻」だったということ。
②「きみ」さんが「頼母」と別れたのは、「頼母」に
「三富(みとみ)安(やす)」という女性ができたから。
(「えっぇぇ~」でござるよ。この女性については不明。
頼母の最期をみとったのは「斉藤なか」)。
③「きみ」の最初の夫「遠山主殿」との間に生まれた実子の
「横田つや」が、10年ぶりに 伊南村まで会いにきた。
④「西郷頼母」は、城を抜け出して、箱館なんかには行ってない。
「頼母」は、藩主の命令で日光東照宮に隠れていたんです。
(チョッと、これは誤報)
⑤「きみ」さんは会津戦争後、「伊与田」家の家族として
「上北郡四和村伝法寺」に移住し、「頼母」とはそこで
結婚したのです。
⑤が いい加減な情報だけに、⑥も信じてよいかは判らない。
しかし「頼母」の本籍が「伝法寺村」であったことから、
「頼母」は明治3年、館林を出て、一時「斗南藩」まで
行ったのだろうか。かつての筆頭家老が、斗南に現れたと
なると、それなりの扱いと記録があろうはずだが・・・。
他の藩士に顔向けできず、密かにだったのだろうか。
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私も先日、会津会に入会し一昨日、会津会から送って頂いた会報114号が着いて読んだところでした。
私はしばらく帯広に住んでいたので、とても興味深く読まさせて頂きました。