現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える


南京虐殺は 中国国民党の仕業だった

2020-01-24 23:20:28 | 太平洋戦争

2012年の中国での新聞記事のようですが、誰もとりあげないようなので、


<「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉>

1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。

開国少将というペンネームの作者は、外祖父が自分の日で見た

南京大虐殺という文章を発表している。外祖父から聞いた話として。

彼は四川省の貧農の出身で、1928年に国民党に捕らえられて

兵士にさせられ、1937年の南京陥落前夜に少尉に昇格、

日本軍の猛烈な攻撃に「首都を守れ・国父を守れ」という

スローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の

進攻を食い止めることなど出来ず、南京城から撤退する

こととなった。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。

その時、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に

乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。

日本軍はすぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の

兵士たちは逃げることが出来ない。

誰かが「日本軍が来たぞ」と叫び、国民党指揮官は列車に

乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。

誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。

兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに

顔を見合わせていた。

指揮官は兵士たちに、「もうすぐ日本軍が来るのだから、

民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ」と言って、

一斉射撃を命じた。

あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。

約1千人の南京市民が、国民党の兵士たちの銃弾を浴びて

死んで行った。

国民党の部隊が逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、

それは日本軍の残虐行為として喧伝された。

外祖父の話では、他の部隊も同様のことをしてきたという。

全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として

転嫁されたのである。外祖父は国民党が貧乏人を虫けらのように

扱うことに抵抗があったという。外祖父は、逃亡する道を選んだ。

そして裏切り者といわれることを恐れて、経歴を隠して逃げ

回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて

語ったのである。「南京大虐殺は自分自身が犯した罪である」と。


さもありなん。十分考えられる。私の父も「敗走していく中国兵と

一緒になって行軍していた。もはや彼らは戦意喪失しているので、

撃ち殺すようなことはしなかった」と語っていた。

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「賢い中国人、愚かな日本人」? 自滅記事

2020-01-24 23:12:52 | 地球人類の問題
中国のインターネット上に、「日本人の“愚かさ”と中国人の“賢さ”」と
題する文章が掲載された。 

日本の地下鉄の駅の改札には、頑丈な柵のような設備や、乗客を監視する職員はいない。
そのため、日本では無賃乗車が容易である。大手を振って正面突破をすれば、
何事もなく地下鉄に乗り込むことができる。 

だから、無賃乗車をする客は後を絶たない。日本人はバカだな。もっと頑丈な装置を
設置すれば、無賃乗車をする人なんていなくなるだろうに。それに、改札で誰も監視
していないなんて。
中国人は確かに賢い。他人よりも得をしたり、規則の穴を見つけるのに長けている。
 
 
という内容。はて、日本では無賃乗車なんかする人はいない。
日本人は「性善説」。信用を重んじる。それを“愚か者”と言う中国人は、ますます
世界の笑いもの、嫌われ者になるか。
 
最近、日本を旅行した中国人の“驚きの感想”が たくさんアップされている。
どれも、信用、礼節を重んじる親切な歓迎ぶりを絶賛している。
 
それをいいことに、中国から詐欺団や窃盗団が多数来ているとか。騙されやすい日本人。
騙されても “気にしない、気にしない、平気平気” の心は、見上げたものでござる。
世界に誇れる日本人。
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南京虐殺は国民党のしわざだった!

2020-01-24 23:04:42 | 虚無僧日記

2012年の中国での新聞記事のようですが、誰もとりあげないようなので、


<「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉>

1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。開国少将というペンネームの作者は、外祖父が自分の日で見た南京大虐殺という文章を発表している。外祖父から聞いた話として。

彼は四川省の貧農の出身で、1928年に国民党に捕らえられて兵士にさせられ、1937年の南京陥落前夜に少尉に昇格、日本軍の猛烈な攻撃に、「首都を守れ・国父を守れ」というスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ず、南京城から撤退することとなった。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍はすぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが「日本軍が来たぞ」と叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。

誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、「もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだ」と言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。約1千人の南京市民が、国民党の兵士たちの銃弾を浴びて死んで行った。

国民党の部隊が逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。

外祖父の話では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があったという。

外祖父は、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者といわれることを恐れて、経歴を隠して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯した罪であると。


さもありなん。十分考えられる。私の父も「敗走していく中国兵と一緒になって行軍していた。もはや彼らは戦意喪失しているので、撃ち殺すようなことはしなかった」と語っていた。

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磐之媛の嫉妬が語るもの

2020-01-24 23:01:43 | 虚無僧日記

北見志保子の「平城山」の歌詞に端を発して、古代史の疑問が次々に。

北見志保子は平城山にある「磐之媛」の稜の前でこの歌を詠んだ。

「平城山」は 京都と奈良の境の小高い山。「磐之媛」は「仁徳天皇」の后。

仁徳天皇の后の稜がなぜ京都と奈良の境の平城山にあるのかが第一の疑問。

仁徳天皇といえば、その御稜は堺にある。世界最大の前方後円墳として知られる。

仁徳天皇の都は「難波」。現在の大阪。「平城山」からは ほど遠い。

 

『日本書紀』の記述では、

磐之媛皇后は 豊楽の酒宴のために、紀伊国へ柏(かしわ)の葉を採りに

船で出かけた。その間に仁徳天皇は八田皇女を妃として宮中に召し入れた。

皇后は難波まで帰って来て、この事を知り、怒って、柏の葉を海に投げ捨て、

難波から淀川を遡り、木津川へ入り、筒城岡の南(現京田辺市)に宮を造って

住まわれた。

天皇は皇后の所へ迎えの使いを送るが、それも追い返してしまう。そこで、

天皇自ら迎えに行くが、それでも皇后は会おうともしなかった。

 
さて、「日本書紀・古事記」の記述は、相互に若干異なるところがある。
また、何かを故意に隠蔽しようとして作文されているというので、記述
通りには読めない。
 
磐之媛が、難波から遠く離れた南山城に移り住んだということの裏には、
政治的社会的な何かが含まれているのではないかと云うことである。
 
そこは、渡来人か多く移住した土地であり、「磐之媛」は、その渡来人の
援助を受けて、宮を建て移り住んだ。(筒城は現京田辺市多田羅、
同志社大学のある辺り。タタラは製鉄の民の住んだ所)。
 
 
そして第二の疑問は、仁徳帝には何人かの側室がいた。磐之媛は、
「八田皇女」にのみ 特別な拒絶感を示したという話に嘘がかくされている。
 
磐之媛は、葛城襲津彦の娘で、皇女ではない。臣下から后となった最初の女性である。
磐之媛が生んだ子は、履中天皇反正天皇允恭天皇と三人が天皇になっている。
 
対して八田皇女は、応神天皇の娘で、仁徳天皇とは異母妹になる。母が違えば
兄妹でも結婚は許された。日本書紀では八田皇女が仁徳帝の后になることは
約束されていたという。八田皇女の母は、宇治の木幡に居を構えていた和珥の
日触使主の娘だった。
 
だから、八田皇女の背景には和珥(ワニ)氏という強大な勢力があった。ワニ氏は
渡来人であり、紀州から南山城に地盤を築いていた。磐之媛が移り住んだ地は
実は、そのワニ氏の勢力内。磐之媛は、“嫉妬相手”の?八田皇女のバックに
あるワニ氏の援助を受けていた。
 
この矛盾はどう解釈したらよいのだろう。磐之媛が柏の葉を採りにいったという
紀伊はもともと、ワニ氏の出身地。ワニ氏は紀州から、山城(京都)に移り、
双方に地盤を築いていた。磐之媛が「紀伊に柏の葉を採りに行った」というのは、
仁徳帝の命によって、まず紀伊の渡来人の協力を得に行ったということを、
暗に語っているのではないか。
 
そして磐之媛は、紀伊から山城に行き、ここでも渡来人の援助を得た。
 
 磐之媛が亡くなった時、磐之媛は出身地の葛城ではなく、ワニ氏の勢力下の
平城山に葬られた。そして媛の亡き後、八田皇女は仁徳帝の後后となった。
 
仁徳帝は磐之媛と八田皇女の二人のおかげで、ワニ氏を強力な味方につけた。
そのワニ氏とは  「太陽神を崇拝するイスラム系の渡来人である」と、最近
言われている。
 
さてそれなのに「磐之媛」が「八田皇女」に嫉妬したというのは、記紀の作者の
勝手な思い込みなのか、あるいは、もっと何か深いものを隠蔽しようとしたのか。
それが謎なのである。
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「千住明、真理子」兄妹も「劣等感のかたまり」だった。

2020-01-24 22:50:36 | テレビ・映画・芸能人

2004年TBSテレビで放映された「中居正広」主演のドラマ
『砂の器』。あのテーマ音楽にはしびれた。それで はじめて
作曲家「千住明」を知った。中森明菜の大ヒットカバー・アルバム
『歌姫』シリーズをすべて手掛け、累計100万枚の売り上げを
記録させているとのこと。

兄は日本画家の「千住博」(京都造形芸術大学学長)。妹は
ヴァイオリニストの「千住真理子」。

そして、この三兄弟妹が中学から慶応とは知らなかった。
兄たちは男子校の普通部、「千住真理子」は男女共学の
「中等部」。先輩には、ピアニストの「中村紘子」がいる。

さて、以前、作曲家の「千住 明」とヴァイオリニストの
「千住真理子」が NHKラジオ番組で対談していた。

二人とも「慶応の中学に入って、周りはすごい人ばかりで
劣等感のかたまりだった。劣等感があったから頑張れた。
劣等感は必要。劣等感は人を強くする」と語っていた。

かく云う私も「小学校始まって以来の“神童”」と言われ、
慶応の中等部に入ったものの、上には上がいて、もう
みじめ、みじめ。劣等感のかたまりでした。
それで「尺八」に のめりこんだのでした。
尺八ならライバルがいない。自分の土俵で相撲がとれる。


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