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現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『名古屋叢書』 第6巻 地理編 (1)

2018-09-07 19:45:55 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第6巻 地理編 (1)

p.432 「金鱗九十九之塵 巻第22」

【呉服町】 七間町の東に在り 

当町は 往昔 清洲越の町にこれあり。清洲において町名を「ごふく町」と唱ふ。

然るに慶長の年中、那古野の此の地へ引越し来たり、旧号を用ひ「呉服町」と申し候。

家数64軒。

東照宮祭礼の警固 普化僧12人 紫衣を着た大領2人

 

【常盤町】 呉服町の南に在り

当町は 往昔 清洲にありし時、町内に竹を商うもの多く住居しける故に

「竹屋町」と呼びにけるよし。清洲より名古屋の此の地へ引越し来たりても

かの旧号を用ひ、「竹屋町」と称しける。然るに、元禄の頃、市中度々

出火せしかば、「たけや」を逆に読むと「焼けた」となり、忌み嫌って、

竹は常盤なるによって「常盤町」と改めるべく願い出て、元禄14年より

「常盤町」となる。

家数58軒 

東照宮祭礼の警固 頼朝 八幡詣10人出 

元は呉服町立合いにて 普化僧の練り物なりしが、天和・貞享(1681~)の

年間に、今の警固に変わる。

 

然るに慶長の年中、那古野の此の地へ引越し来たり、旧号を用ひ「呉服町」と申し候。

家数64軒。


大高源吾の尺八

2018-09-07 19:43:20 | 虚無僧日記

赤穂浪士の一人「大高源吾」は俳人としても名が知られ、
風流人だった。その「大高源吾の尺八」というのが、
虚無僧研究会の会報第7号に掲載されている。
紹介者は岩井省法氏。所有者は高松の水原明鏡氏。

原惣右衛門の尺八は室町時代の「一節切」だったのに
対し、こちらは2尺の藤巻き、黒光りする見事な尺八。
「元禄戌五年政重」の朱塗り銘と、「尺八随一の名人」
といわれた『春谷』の刻印がある貴重なもの。

これによって、元禄時代(1700年前後)には、すでに2尺
もの長い尺八が在ったことがわかる。
「大高源吾の尺八」とされる伝来の由緒が明らかにされ
ていないのが残念。



赤穂浪士原惣右衛門の尺八

2018-09-07 19:38:30 | 虚無僧日記

高輪泉岳寺の「記念館」に「原惣右衛門の笛」というのがある。
「一節切」だった。すっかり褪色し、色つやの無い灰色で、
割れていた。

原惣右衛門は足軽頭だが、300石取りで、47士の中では、
大石内蔵助(1500石)、片岡源五右衛門(350石)に
ついで、第3位の高禄。刃傷事件の後、屋敷の引き払いを
迅速に進め、その日のうちに早駕籠に乗って出立。赤穂に
「浅野内匠頭切腹」の報を告げた人物。

討ち入りの時の年齢は56歳と高齢。吉良邸の塀を乗越え
た際 足を挫き、泉岳寺へは駕籠に乗せられて行った。

その原惣右衛門と「一節切」を結びつけるような史料は
見当たらない。まさか、上野介を見つけたときの呼笛は
「一節切」ではあるまい。