長門裕之氏についで、朝丘雪路さん、津川雅彦氏も亡くなられた。
先祖を辿れば、「人間みな兄弟」。
叔母が「津川雅之とは遠い親戚だ」と言っていた。
「曾祖母の弟の孫が、津川雅之の母の前夫の娘と結婚して
いる」という。
もう わけわからない遠いつながりだ。
津川雅彦、長門裕之の母親「マキノ智子」は、「日本映画の
父といわれた 牧野省三の四女で、妻子ある月形龍之介と
不倫に発展。駆け落ちをした挙句、一女を儲けている」
とのこと。
その女性が 曾祖母の弟の孫「T」と結婚した。
「マキノ智子」は、その後「澤村國太郎」と結婚。長門裕之・
津川雅彦の兄弟を生んでいる。
というわけで、津川雅彦・長門裕之と 私は「血」は
つながらないが、「T」氏の妻の葬式には、津川・長門
両氏は「異父兄弟」ということで 参列していたそうな。
なお「T」氏の妹は「犬養毅」の息子と結婚している
そうな。
以前に書いたものを再掲です。重複しますが、武田惣角と当家の関係について
池月映著『合気の創始者武田惣角』によると「武田惣角」は
大東流合気術の中興の祖、「合気」の造語者とも
言われる武術家ですが、その生涯は謎に包まれ、
小説家によるフィクション(創り話)が一人歩きして
います。池月映氏は福島県郡山市在住の作家で、
「武田惣角」の関係者を取材して、その実像を
解明してきました。会津出身でありながら、
士族ではなかったため、会津では全く無視された
存在でした。
その中で、「武田惣角」に剣術を教えた 士族の
「佐藤忠孝」という人の妻が「牧原一郎」の五女
「ヤオ」。墓も確認されています。
「佐藤忠孝」は「武田惣角」の隣人で、その妹が
「惣角」の妻となっていますから、「牧原ヤオ」は
「惣角」の義姉となります。
私と血はつながりませんが、「武田惣角」が遠戚に
あたるとは、驚き桃の木。にわかに「合気道」に
関心を持ちました。
ロシアでも合気道は盛んです。前回、モスクワに
行った時、「ヤポンスキー(日本人)、ストロング
(強い)」と、試合を挑まれました。ロシア人は
“おそロシア”。中学時代、柔道部だった私ですが、
ヒグマのようなロシア人相手では歯がたちません。
池月英氏から「武田惣角」について、ご教示いただき、
合気道について関心が でてきた。
「武田惣角」は「大東流合気柔術」の開祖として、
「大東流」のホームページにいろいろ書かれて
いるが、その伝承について池月英氏は、いくつか
誤りを指摘されている。
「武田惣角」は会津の生まれ、剣、棒、半弓、杖、
手裏剣など武芸十八般に熟達し、槍は宝蔵院の
印可、剣については小野派一刀流の免許皆伝。
全国各流の道場を巡って技を練磨するとともに、
九州の鵜戸明神、日光の二荒山、出羽の羽黒山などに
参籠祈願し、心身鍛練を続け、その敵無しの剣は、
「会津の小天狗」と恐れられた。身長150センチに
満たない小男だったが、眼光は鋭く、その技は
入神の域に達し、 人の過去現在未来を 会う前から
察知していたという。
だが、会津人で彼を知る人は少ない。武田惣角は会津藩士と 自称しているが、実は相撲取で武士ではなかった。 詐称しているためか、会津には戻っていない。 それで会津では知られていない。
合気道を創始した「植芝盛平」は「武田惣角」の門人。
「You-Tube」には、その「植芝盛平」の映像が
いくつかアップされている。「植芝」も5尺(150cm) に
満たない小男で、巨体を、いともカンタンに投げ飛ばす。
ほとんど、体に触れないうちに倒される。「気」の
すごさは圧巻だ。
映像のほとんどが、英語版で、海外からのアップだ。
今や「合気道」「柔道」「尺八」は、日本人から離れ、
外国人の ものとなったか。
またまた、池月英氏から、コメント欄に貴重な情報が
寄せられたので転記させていただきます。
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武田惣角は陰陽五行の易、医術、気合術、霊術の足止め術を
会得しております。
隣りの塩川村に、呪い治療と易を無料奉仕した易師「万之丞」がおり、
彼に学び、気を自在に操り、柔術に導入して「合気」を会得した
ことになります。
会津の修験は、ほとんどが天台宗本山派ですが、易師は真言宗
成田山新勝寺で、湯殿山修験を修行してますから、私の真言
密教説は正しかった。秘伝9月号で発表したら、最近の古書市場
アマゾンで「合気の発見」は定価の5倍になりました。
隠されていた重要人物は、隣りの佐藤忠孝(妻やお)と、
忠孝と親しい柔術家長尾清、易師万之丞でした。
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この「佐藤忠孝」の妻「やお」が「牧原」から嫁いだ人とのこと。
子孫がおられるなら、会ってみたい。叔母の嫁ぎ先も「佐藤」
なので、同族ではないかという気がするのだ。
「武田 惣角」について、Wiki-pediaに載っていました。
安政6年(1859) 生まれで、昭和18年(1943年)青森で
亡くなっている。84歳。
武術家で宮相撲の力士でもあった会津藩士・武田惣吉の次男として、
福島県河沼郡会津坂下町で生まれた。幼少か ら相撲、柔術、剣術
(小野派一刀流、鏡新明智流)、槍術(宝蔵院流)などを学んだ。
(注:「会津藩士」というのは誤り。相撲取は武士ではない)
父「武田惣吉」は 、宮相撲の力士だった。
四股名は白糸。剣術、槍術、棒術、柔術の達人でもあり、戊辰戦争
には 250名を預かる力士隊の隊長として参加している。
なななんと。私の先祖「牧原奇平」は、戊辰戦争時、62歳だったが、
西軍が母成峠を越えて猪苗代に迫るの急報に、僧侶や力士を引きつれて
戸の口原に向かった。会津藩兵は 越後や日光方面に出払っていて、
城下には、老人子供しか残っていなかったのだ。この時、白虎隊も
共に出陣している。そして防戦空しく、牧原奇平は強清水で自刃。
白虎隊は飯盛山まで退いて自刃した。
牧原奇平と武田惣吉は、この時共に戦っていたのだ。「惣吉」の子
「惣角」は、この時まだ9歳。
明治10年 西南戦争の時、「武田惣角」19歳。「西郷隆盛」軍に参加
しようとして、九州に向かったが、検問厳しく、西郷軍に合流 叶わず、
西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行したという。
会津藩家老「西郷頼母」も薩摩の「西郷隆盛」と親交があったらしく、
「西郷隆盛」との関係を疑われている。
作家「司馬遼太郎」や「中村彰彦」氏によって、「西南戦争では、
旧会津藩士が大挙 警察隊に応募し、“戊辰の復讐”と、西郷隆盛軍に
向かっていった」かのごとく書きたてられているが、会津人でも
「西郷隆盛」を慕う人はいたのだ。意外な事実だ。
「武田惣角」は、明治21年(1888年)会津坂下町に戻り、佐藤忠孝の妹と結婚し、
佐藤忠孝の妹と結婚し、長男と長女をもうけた。
(この佐藤忠孝の妻が「牧原一郎の娘 やお」)。
明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた元会津藩家老「西郷頼母」より
「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と諭され、剣術の修行を止めて、
大東流合気柔術の修行をしたという。
その後、惣角は全国行脚して大東流合気柔術の技法を教授し、数多くの門弟を育てた。
大正元年(1912年)頃、惣角は北海道で再婚し、以後、北海道を本拠地とする。
そして、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)青森県で客死した。享年84。
「武田惣角」を扱った作品
津本陽 『鬼の冠』(新潮文庫)
今野敏 『惣角流浪』(集英社文庫)
今野敏 『山嵐』(集英社文庫)
池月映 『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』(本の森)
安彦良和 『王道の狗』
松田隆智 『拳児』
夢枕獏 『東天の獅子』(双葉社)
会津藩家老の西郷頼母(たのも)は、会津藩のお家芸
「お式内」の伝承者であり、それを会津のお抱え力士の
家に生まれた「武田惣角」に、「大東流柔術」として
伝えたという。
この「武田惣角」について研究されている「池月英」と
いう方から、私のブログに、情報が送られてきた。
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「明治9年の新戸籍に、士族「佐藤忠孝」の妻「やお」。
牧原一郎の娘(勘太輔の妹)で、会津坂下町中町に住んでいた。
「佐藤忠孝」は、会津藩士(御供番百石)で、会津戦争後、 会津坂下(ばんげ)御池田村の「武田惣角」の貸家に住んでいた。
そして「忠孝」は、力士の「武田惣角」に剣術を教え、坂下の
渋谷道場に一緒に通っ仲で、佐藤忠孝の妹「コン」は
「武田惣角」の妻になった。
「佐藤忠孝」は、坂下(ばんげ)で、小学校の教師をしており、
「(牧原)やお」との間に、三男六女が生まれた。
「やお」は、明治40年3月14日死去(50歳)霊号「八尾姫」
青津村亀ヶ森の墓地に葬られたが、その後、隣の青木村に移転し、
正徳寺に佐藤家の墓があり、「やお」の墓碑銘もある。
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つまり、「武田惣角」の妻の兄が「佐藤忠孝」で、「忠孝」の
妻が「牧原やお」。血はつながらないが、「牧原やお」は、
合気道の始祖「武田惣角」の「義姉」ということになる。
そして武田惣角に武術を教えたのは「牧原やお」の夫佐藤忠孝。
佐藤忠孝も牧原一郎も殿さまの「供廻り(SP=護衛兵)だったのだ。