現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

地獄・極楽

2017-02-10 10:38:10 | 虚無僧日記

「一休さぁ~ん、地獄とか極楽って、どんな所ですかぁ?」

と 村人が一休さんに訊ねます。

「ああ、地獄、極楽か、一言で云うとな」

「ひとことでぇ?」

「ああ、一言で云うとな。 あのよオ~」

「あのよぉ?」 (笑い)

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死ぬと三途の川があり、渡ると、えんま大王が 「お前は娑婆で

何をやってきたか!」とたずねます。

たいていの人が 「私は悪い事は 何も してません」 と 答えます。

すると えんま大王は 「そのウソは本当か?」と 聞きます。

そして 「浄玻璃の鏡」という鏡で、その人の過去がすべて映し出され、

ウソも見破られてしまいます。そして嘘つきは炎熱地獄へ落とされて

しまいます。

人をだまして うまくやったつもりでも、自分自身をだます事はできません。

良心の呵責におびえ苦しむ事になります。こういう心の苦しみの状態を

地獄と言います。

 

“振り込めサギ師” には、良心の呵責はないんですかね。

彼らは地獄で裁きを受けると思えば、腹も立たなくなる。

 


水木しげるの「幸福の七ケ条」

2017-02-10 10:35:54 | 虚無僧日記

水木しげるの「幸福の七カ条」

第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

第二条 しないではいられないことをし続けなさい。

第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

第四条 好きの力を信じる。

第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

第六条 怠け者になりなさい。

第七条 目に見えない世界を信じる。

 

私の生き方にピッタシ。力強い応援をいただきました。

第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。

水木さん自身、世に認められたのは42歳過ぎてから。それでも、

「成功しなくてもいいんです。全身全霊で打ち込める事を探しなさい」と。

第二条 しないでいられないことをし続けなさい。

 「大切なのは好奇心」と。

私にとって『しないではいられないこと』は尺八の普及だ。子供の頃から尺八に

没頭して生きてきた。その尺八が廃れるのは口惜しい。


第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。

「自分の好きなことに専念するためなら、奇人変人になってもいい。いや、むしろ、

奇人変人になるべきだ。その証拠に、世界の奇人変人には 幸せそうな人が多いではないか」と。

はい、私は世界でオンリーワンの虚無僧。そのこと自体が「変人・奇人」の部類です。

第四条 好きの力を信じる。

好きこそ、ものの上手なり。尺八拭いて、いや吹いて60年。

第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。

「努力は人を裏切らない」とはよく言われるが、水木さんは「努力は人を裏切る」と明言。

努力すれば、必ず成功するという保証はない。むしろ失敗するほうがはるかに高い。

でも、好きの力を信じ、しないではいられないことをし続けていれば、努力することが

楽しい。努力そのものが喜びに満ちていると。

第六条 怠け者になりなさい。

「若い頃は必死に努力することは必要。しかし、中年を過ぎたら怠けることも覚えるべき」と。

永く続けるためには、怠けることも必要。迷った時には立ち止まってもいいんですと。

第七条 目に見えない世界を信じる。

この世には物質的な価値観ではとらえきれないものがあり、それこそがひとの心を豊かに

してくれるということです。

名作『星の王子さま』の一節。

「ものごとはね、心で見なくては よく見えない。本当に大切なことは、目には見えない」と。

『水木サンの幸福論』


「斉藤一人」の教示

2017-02-10 10:34:49 | 虚無僧日記

「斎藤一人」さんの言葉 

◆無理につくった人脈なんかいらない。自然に親しくなっていた人たちだけでいい

 名刺交換しただけの人脈なんか何千人いたって,なんにもならない。

 大切な人間関係は,無理につくった人脈なんかじゃない。いつの間にか

 親しくなっていた人たち。困っていたら,駆けつけずにはいられない友達だ。

 一万人にチラシを配っても、見てくれる人はいない。関心が無い人には

 どんな名言も聞いてもらえない。少しでも自分に関心をもってくれた人なら、

 話を聞いてきれる。

 

それはそうだ。そのためには「斎藤一人」さんは云う。

「世のため人のため、人に親切にしてあげよう」と、ずっと思い

つづけること。心の中でつぶやくこと。そう思っていれば実行できる。

 

お釈迦さまのことば「忘己利他」と同じだ。「もうこりた」と読む。

「もう懲りた」ではない。己を忘れて、他のために利するということ。

さて、世のため人のため何ができるだろう。

 


「世阿弥・風姿花伝」を読む

2017-02-10 10:31:14 | 虚無僧日記

「世阿弥の風姿花伝書」

およそ、芸事に携わる者はむろん、客商売する者は すべからく読むべし。

指導者の心得としても、成功の秘訣がすべて書かれている。必携の書。

『風姿花伝』の第一章「年来稽古条々」は、年齢に応じた学び方があるというもの。

 

幼年期(7歳頃)

能に限らず、古来芸事は6歳から始めよという。だが、世阿弥は6,7歳の子供には、

型に嵌めようとせず、子どもの自発的な動きにまかせ、自由にやらせておけばいい。

師(親)が やかましく、とやかく言って、子どもを縛ると、学ぶことが嫌になったり、

親のコピーを作るだけで、親を超えていく子どもにはなれない。

少年前期(12〜13歳より)

12〜13歳の少年は、顔かたち、姿、声、それだけで美しい。

しかし、それはその時だけの「時分の花」であり、本当の花ではない。

子供の華やかな美しさに惑わされることなく、しっかり稽古することが肝心。

少年後期(17〜18歳より)

この時期に、人生で最初の難関がやってくる。

「まず、声変わりぬれば、第一の花 失せたり」

声変わりがし、にきびも出て、子供の愛らしさが失せる。

この苦境をどう生きるか。「たとえ人が笑おうとも、そんなことは

気にせず、自分の限界の中でムリをせずに声を出して稽古せよ」。

人生の境目で絶望したりあきらめてしまっては、将来何事も大成

しなくなる。、諦めずに努力する姿勢が後に生きてくる。

(受験勉強という難関をどう乗り越えるかということにも当てはまる)

 

青年期(24〜25)歳の頃

この頃には、声変わりも終わり、声も身体も一人前となり、若々しく上手に見える。

人々に誉めそやされ、名人を相手にしても、新人の珍しさから勝つことさえある。

新しいものは新鮮に映り、それだけで世間にもてはやされる。

そんな時に、本当に名人に勝ったと勘違いし、自分は達人であるかのように

思い込むことを、世阿弥は「あさましきことなり」と、切り捨てる。

「この時分の花に迷いて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すは

このころの事なり」。こういう時こそ、「初心」を忘れず、稽古に励まなければならない。

 

壮年前期(34〜35歳の頃)

この年頃で天下の評判をとらなければ、「まことの花」とは言えない。

「上がるは三十四−五までのころ、下がるは四十以来なり」

上手になるのは、34〜35歳までである。40を過ぎれば、ただ落ちていくのみである。

だからこの年頃までに、これまでの人生を振り返り、今後の進むべき道を考えることが重要。

(会社でも 34〜35歳で将来が決まる)。

 

壮年後期(44〜45歳の頃)

頂点を極めた者でも衰えが見え始め、「花」が見えなくなってくる。

この時期でも、まだ花が失せないとしたら、それこそが「まことの花」である。

この時期は、若者に対抗意識を燃やして新しい芸風を真似したりするのは

愚かなこと。自分の得意とすることを磨いて勝負すべき。

そしてこの時期、一番しておかなければならないことは、後継者の育成。

自分が、体力も気力もまだまだと思えるこの時期こそ、自分の芸を次代に

伝える最適な時期。この後は、後継者に花をもたせ、自分は一歩退いて

舞台をつとめよとも。

「我が身を知る心、得たる人の心なるべし=(自分を知り、限界を知る人こそ、名人)」。

 

老年期(50歳以上)

人生最後の段階。

「麒麟も老いては駄馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、

物数は皆みな失せて、善悪 見どころは少なしとも、花はのこるべし」

花も失せた50過ぎの能役者は、何もしないというほかに方法はないのだ。

それが老人の心得だ。それでも、本当に優れた役者であれば、そこに花が残るもの。

真の名人は、ただ立っているだけでも 輝く美しさを放つ。

世阿弥の父、観阿弥は52歳で亡くなる。その直前に演じた舞台姿は、動きも少なく、

控えめな舞なのに、これまでの芸が残花となって表われた。これこそが、世阿弥が

考える「芸術の完成の姿」。 老いても、その老木に花が咲く。

 

世阿弥が説く7段階の人生は、何かを失っていく、衰えの7つの段階であるとも

いえる。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。何かを

失いながら人は、その人生を登りつめていく。そのプロセスは、失うと同時に、

何か新しいものを得る試練の時。それが世阿弥の説く「初心の時」なのである。

「初心忘るべからず」とは、芸事を始めた時ではなく、40歳50歳60歳、その時々に

初心があることを忘れるな」という意味。60歳の人が、20代の芸に帰れというのではない。

若者と競って、若者ぶった演技をしたとしたら、それは恥ずかしい。60になったら

60歳なりの若者には無い芸を見せよ、というのだ。

『風姿花伝』を書いた時世阿弥は36〜37歳だったということにも驚く。

 
 

世阿弥の言葉「衆人愛敬」

2017-02-10 10:30:16 | 虚無僧日記

昨日聞きに行ったコンサートには多いに失望した。

冷え冷えとした館内。楽譜を追うだけの覇気の無い演奏。

観客を喜ばそうというサービス精神は全くない。教室で

練習しているのと変わらない。

そこで、世阿弥は「上手は下手からも学ぶ」と説く。反面教師で、

いろいろ感ずるところはあった。 

いかにしたら観客を満足させることができるか。

そのことを、世阿弥は「衆人愛敬」という言葉で説いている。

「衆人愛敬」とは、上は将軍、殿上人から庶民、農民まで、あまねく大衆に

愛されることが第一、という意味。たとい「能」の知識、理解の無い人、

無関心な人であっても、見たら感動してもらえるような芸をしなければならない、

というのだ。

世阿弥の時代は、いくつも座があって、神社仏閣の境内などで競演が行われる。

観客の拍手が大きく、人気が上がれば、将軍、大名、公家、寺社が次回の公演の

パトロンになってくれる。不評に終われば、パトロンがつかず、座は解散。

座員は失業する。死活問題なのだ。

どうしたら観衆に感動を与えることができるか。そのことを事細かに

書き記したのが「風姿花伝」。

その中で世阿弥は「一度、絶賛を博したからといって、それを何度も

演じていたのでは、感動も無くなり、やがてそっぽを向かれるとも。

(昨今の一発芸人の流行り廃りの激しいこともこれに通じる)

常に大衆の人気を得ていくには、ここぞというときに出せる秘策を

練ることが肝要と。

観客に何を求められているのか、その場その場の雰囲気を読み取り、

それに合わせて能を舞う。そのような直感的能力がなければ、

いつまでも人気を保つことはできない、と世阿弥は言っている。

 


世阿弥の名言「秘すれば花」

2017-02-10 10:00:58 | 虚無僧日記

「秘すれば花」の解説として、よく言われるのは、「あからさまにすべてを

見せるより、一部だけを見せて、他は隠しておいた方がよい」ということで

しょうか。たとえば、着物姿で歩く女性の裾から足首がチラと見えただけで、

男性はドキマギするが、昨今の若い女性はショートパンツで堂々と 

太ももまでさらけ出しているが、これではかえって男性は刺激されない。

また、ベラベラ、えらそうなことをしゃべりまくる人は、かえって信用されないが、

会話の中で、ここぞというときに一言、キラリと光る言葉を発する人は、

一目置かれる。

極めつけは、「馬鹿でも黙っていれば、利口そうに見える」という例え。

口を開いたら、「馬脚を現す」ということも。

だが、世阿弥の「風姿花伝」に書かれている「秘すれば花」は、もっと

別の意味があるようだ。

勝負に勝つには秘策を持つこと。しかし、一度その手を使えば、もう

秘策ではなくなる。舞台芸人も、常に観客を喜ばす演出をしなければならない。

しかし、同じ手は使えない。そしてエスカレートしていけば、観客は「次は?」

と期待する。期待が大きくなると、そこそこの秘策では驚かれなくなる。

秘策とは、無いように見せて出すところに、意外性、驚き、感動が沸くもの。

秘策があることをも隠して、出すところに、感動という花が咲くというのだ。

武道でもそうだ。秘策、秘術、秘技を持っていると相手に悟られると、警戒

される。何もないふりをして、ふいに出す。意表を衝くからこそ成功する。

 

そういう目で、年末の「紅白歌合戦」も見ると、面白い。スタッフは あの手

この手、演出を考える。去年と同じものは使えない。小林幸子の衣装など

年々懲りすぎて、もう、驚かれなくなっている。飽きられてもきている。

そういう観客の空気をどう読んで、どのような演出をするか。そして、

それぞれ各出演者の秘策は本番まで隠される。リハーサルも報道関係者は

締め出しとか。まさに、「秘すればこそ花を開く」のだ。