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現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「山月記」の李徴そのままに

2011-07-12 13:19:34 | 虚無僧日記
「隴西の李徴は 博学才穎」で始まる中島敦の『山月記』、
高校の教科書に載っていて、暗記するほど読んだ。

詩才がありながら、性 狷介、自ら恃(タノ)むところ頗る厚く、
賤吏に甘んずるを潔しとしなかった李徴は、官を辞して
山にこもり、人との交わりを絶って、ひたすら詩作に耽
った。詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。

しかし、名声は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。
その容貌も峭刻となり、肉落ち骨 秀で、眼光のみ徒らに
炯々として、ある日 ついに発狂し、人を喰う虎になって
しまう」という話だ。

李徴は、自尊心とうぬぼれ、その裏側には、才能の無さに
気づくことが恐く、臆病で羞恥心が強く、あえて努力する
こともしなかったし、人と交わることもしなかった。

「名詩」は「才」だけでは作れない。人と交わり、社会で
もまれ、人間として磨かれなければ、人の心を打つ詩は
作れないのだと、李徴は 虎になって 後悔する。

それは「中島 敦」の 悶(もだ)え、そのものだったという。


私は、これを読んだ時、自分の将来を「李徴」に見た気がした。
(なんでこんな話を、前途有為の高校生に読ませる必要が
あるのだ。「李徴のようにならないように」との反面教師か
と、内心思った)。

あれから40年。私の人生は「李徴」の辿った道そのものだった。
今、いつか発狂して、虎になり、人を襲うのではないかと、
恐れおののく日々。

親が付けてくれた名は「伸一郎」。何をやっても一番に
ならなければとのプレッシャーに、押しつぶされた。

仕事でも、才能もないのに、あるように見せる努力ばかりし、
いつか仮面がはがれた。尺八でも「第一人者になる」と
うぬぼれていたが、結局「日暮れて道遠し」。夢破れて、
とうとう 怒り爆発。尺八を床に投げつけ 破砕してしまった。

私の人生 ここに尽きたり。一休の尺八の友「一路」の
末路は「われ 食 尽きたり」だったか。

「休養で入院」なんて とんでもない

2011-07-12 09:20:02 | 社会問題
松本前復興相が病院に搬送、入院(読売新聞) - goo ニュース


“飛んでもない”のに失脚した「松本前復興相」が入院。

「命に別状無し」「休養のため」で 入院するなんて
とんでもない。その医療費、健康保険から支払われるなら
とんでもない話だ。

今朝の中日新聞の投書欄にも「『九州人だから、言葉が荒い』
なんて、とんでもない。九州人に対しても謝れ」とあった。

「私はB型だから」とも言ったらしい。「B型」の人も
「失礼な」「迷惑」と ぼやいていた。

そもそも、私は病院は「死ぬために行くところ」と思っている。
家で死ぬと、警察沙汰になり、めんどうだからだ。最後は
病院で死ねば、即「死亡診断書」をもらって、火葬場に行ける。

延命治療なんか望まない。延命治療のおかげで、今、日本人が
一人死ぬために、平均 1,700万円の医療費がかかっているそうな。

回復の見込みがないものに、それだけの費用が必要なのだろうか。
ただでさえ、医療費が赤字だというのに、政治家や大企業の社長は、
ちょっと都合が悪くなると 病院に逃げ込む。病院は身を隠す場所か!

許せん。「病院は死ぬために行く所」と信ずる私。九州まで
行けるなら、行って「死ぬお手伝い」をしてさしあげたい。

五木寛之『親鸞』 念仏とは

2011-07-12 06:06:05 | 虚無僧日記
7/12 中日新聞掲載の五木寛之『親鸞』。

かつて、親鸞を殺そうともした守護代「戸倉兵衛」が、
親鸞のもとに泣きついてきた。

「もう生きているのが いや になった。死んで地獄に
おちるのはこわくはない。いやよろこび勇んでいって
やる。だが、いま、この苦しみはどうすればいいのだ。
念仏して、この苦しみからすくわれるものなら、念仏
させてくだされ」と。

親鸞は「念仏は、すくいの種子(たね)ではない。だが
念仏したいと思われるなら、念仏なさるがよかろう」。

そして「それはおのれの計らいではないのだから」と。


「念仏は、すくいの種子(たね)ではない」と?
では、何のために念仏するのか。「念仏したいと思うのは
己れの計らいではない」とは「仏の心がそうさせるのだ」
というのだろうか。

私も「良き人と思われるよう演じ続ける」ことに
疲れてきた。残された人生 あと数年と思って、最後の
あがきで、好き勝手に生きてみたい。いや、今までも 
さんざん好き勝手に生きてきた。でも、なぜか空しい。


靴の脱ぎ方ひとつ

2011-07-12 05:16:02 | 虚無僧日記
ある詩吟の宗家の家におじゃました時、私は
脱いだ靴をきちんとそろえて上がった。
(いつも、自分の家でも、必ずそろえることに
している)

それを見て、客間に通されるなり、開口一番、
「よし、あなたに(尺八伴奏を)お願いしよう」と。
尺八を吹いて聞いても もらわぬうちに、大きな
仕事が決ったのだ。

私の家に来る営業マン。靴の脱ぎ方で、私は
判断する。家を建てた時も、数社から設計と
見積りをとったが、最終的に決めたのは、
営業マンの靴の脱ぎ方。

最終決定したのは、「設計プランの良し悪し」や
「金額」では なかったのだ。一番高くて、一番
悪い設計書を持ってきたS社に決め、設計図は
私が書いたもので、建ててもらった。すべての
要望を、快く聞いてくれたのだ。他者は強引で
押し付けがましいのが、実に不快でもあった。

お箏の会などに招かれていって、楽屋で まず
目に入るのは、お弟子さんたちの「草履」の
脱ぎっぷり。最近は、どこへ行ってもひどい。
それで、そこの社中の演奏の程度が判る。

ひとのことは言えない。わが社中も、先日の
「一路会」で、箏、三絃の女性会員二人の靴が
そろえてなかったことに、私は内心腹を立て、
私が揃えた。案の定、演奏はメタメタ。演奏の
良し悪しは二の次。私がなんで、不機嫌だったのか、
彼女達はわかっていないのが哀れ。

私が 嫁を選ぶとしたら、靴の脱ぎ方で決める。
今時、家でも 揃えるような女性は居ないか。
ザンネン。

靴をそろえよ

2011-07-12 03:49:39 | 虚無僧日記
禅語に「脚下照顧(キャッカ ショウコ)」というのがある。
「足元を照らして、己れを見つめよ」などと解説されるが、
「宮崎奕保」師は それを「ただ 靴をそろえよ と いう
意味です」と、説かれた。

「宮崎奕保」師は、108歳で大往生された永平寺の貫主。
その禅の大家が 実にわかりやすく 説かれたのだ。

「日常の生活、すべてが 座禅や。

 靴を脱ぐのも 坐禅の姿や。
 靴をそろえるのは 当たり前のこっちゃ
 と 誰もが わかってはおる。

 わかっておって、できんのは、心が
 いがんでおるから。

 靴が いがんでおったら、自分の心が
 いがんでおるんだ。」


「宮崎奕保」師の話は、さらに奥深い。
雲水たちが、草履を脱ぎ散らかしていると、
老師が、自ら、揃えるというのだ。

永平寺のトップの100歳の老師が、若い雲水たちの
草履を揃える。それを見て、若い者たちは、何も
しないわけはなかろうとは思うが。最近の若者は
わからん。

老師は言われた。「永平寺の教えは、言葉ではなく、
行動で 世の人に 光を指し示すものです」と。

虚無僧もそうありたい。ただひたすら尺八を吹く
ことで、人々の心に光明を照らすものでありたいと。