今日の午前中に2016年オリンピックの開催地がリオデジャネイロに決まったことが報じられ、東京での開催は夢と終わってしまった。
ほぼ3年に渡った招致活動と150億円にも上る費用が一瞬のうちに消えてしまった事になる。
石原都知事は、記者会見で久し振りによい戦いをして清涼感を覚えたと語っていたが、公の立場と個人的な感傷を混同しては困り物だと思う。
いささか強引なオリンピック招致の発案だったと思うが、当初から極めて困難な課題であることは皆わかっていたと思う。
それなのに、IOC総会が開かれたコペンハーゲンでのロビー活動でも各国に比べて決定的に後れを取っていたと言う。
いつもながらの外交下手、人脈不足で国際交渉に弱いところが露呈したと言う事だろう。
2012年オリンピックがロンドンに決まった時に、時のブレア英国首相はどんな手を使ったのか、圧倒的なパリ優勢の情況を逆転して自国開催へ漕ぎ着けたと聞く。
ヨーロッパの社交界、あるいは国際関係は基本的には、組織や国の力ではなく個人的な人間関係で成立してると言う。
それはある面極めて限られたセレブな人間関係かも知れないと思う。
日本では、昔から”平家、海軍、国際派”と言う言葉があり”源氏、陸軍、国内派”が主流を占め、前者はいわば傍系と言われてきた事から、中々優秀な国際人が育たなかったのかもしれない。
今までは自民党の派閥に代表されるように、内向きで群れを成すほうが島国では効果的な事だったのかもしれないと思う。
若い頃、この人は素晴らしい国際人だと思う何人かの人に知遇を得たことがあるが、個性的で魅力的な人であるほど、国内ではほとんど少数派で不思議に思ったこともある。
渡辺昇一氏など、日本は相続税を廃止して、金持ちを作らないと国際的でセレブな人間関係の中にとても入れないと極論を言う人もいる。
今回のような出来事に遭遇すると、オリンピックはともかくとして、日本人の中の国際化と言う言葉が極めてむなしく感じるのは、私だけだろうか
海外へ出て行くことだけが国際化ではなく、ひょっとして極めて日常的な行為や考え方の中に国際化へのヒントがあるのではないかと思う。