母の兄嫁の訃報を聞き お葬式に 妹と参列しました。
享年92歳 歳からいえば天寿全う組に入るので 見送る人も大泣きをする人は
いないものの 雨の日のお葬式は なんか悲しいものです。

母も参列すべきでしたが 寒がもどり 凍てつくような寒さのこの日 風邪が怖くて
知らせませんでした。
母の兄嫁は16歳で嫁ぎ 娘をもうけたのち 出征した夫が昭和19年に戦死し 以来
再婚もせずに 十代からずうっと家を守り生きた 長い一生を閉じました。
夫との結婚生活はわずか2年ほどで 夫の忘れ形見の一人娘を育て 気難しい舅
姑に仕えて 戦争未亡人のお手本のような 長い長い人生が終わりました。
数年前から認知症が進み 病院や施設で過ごしたのち 最後は 一粒種の娘の顔さえ
認識できなかったといいます。
一粒種の娘も もう75歳となり 久しぶりに会えば 昔話に花が咲きます。
私が子どものころは娯楽らしいものはなく 母に連れられ 母の実家へ行くことが1番の
楽しみであり 母の兄嫁がいつも温かく迎えてくれた 幼い日の思い出は 記憶の中に
鮮明に残っております。
葬儀の翌日は母の注射日で 待合室で兄嫁の訃報を告げたところ ぱらぱらと涙を流し
泣きだしました。
49日法要が3月の終わりで このころは暖かくなっているので 絶対に連れて行くからと
約束をし なんとかその場をなだめ 注射が終わりました。
腕を組んで歩く 施設への帰り道 今聞いたことも覚えておらん母ですが 兄嫁の訃報は
頭から離れません。
「 姉さんも みててしもぉた 神さまになってしもぉた‥‥ 」
「 姉さんは 兄が早よぉに 戦死したき あたしとちごぉて 苦労したきねぇ 」
「 みんなぁ あっちに集まってしもぉた 次は あたしの番じゃね 」
( ま 順番からいうたら そうじゃけんど 10年ばぁがんばってから いたらええわね )
「 10年はムリじゃね あと2年ばぁじゃね うんとがんばって あと3年じゃね 」
あと少しで施設へ着くころ
「 ありゃ あんた 今日は花を撮らざったね 写真機は 持っちょらんかね? 」
( 持っちゅうけんど 今日は もうええ‥‥ )
「 そりゃいかん 撮りに 戻ろぉ 戻ろぉ 」

また病院へひきかえし 花の写真を撮りました。
毎週かわる玄関の花は 早咲きの桜をいけてありました。