槍と銃剣

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魔術師クロンステッド(草稿その6 おわり)

2009年12月29日 07時43分44秒 | 大北方戦争+軍事史
魔術師クロンステッド(草稿その5)

 カール12世の信任を得て、彼は引き続き砲兵隊の改革を推し進めると同時に、攻城戦の技術の向上に努めた。その功績によって1718年8月3日、彼は男爵となる。そしてその年の冬に行われたノルウェー遠征でも活躍した。しかし1718年のカール12世の死に際しては(死の状況が不明確で当時のみならず、現在においてすらも暗殺とも流れ弾による戦死とも断定されていない)、暗殺の陰謀に加担したと噂された。もっともこれに明確な根拠はない。ただ、謎めいた台詞を吐いたらしいことは分かっている(陣中にあった厭戦意見に同調していたり皮肉っていただけの可能性も高い)。
 もっともホルシュタイン派であったメルネル元帥らの将校が閑職に回されたのに比べ、カール12世の死によってスウェーデンの絶対王政が終わり新体制となっても彼は、政府から信頼され続けた。1720年3月22日彼は中将に昇進し、ロシアの脅威に対処するべくフィンランドの砲兵隊の能力向上に努め続けた。そしてこれまでの改革が広く知られるようになると、彼の砲兵将校としての名声は全ヨーロッパに広がった。
 こうして1738年に彼は王国参事にも推薦された。しかし彼は何故かこれを断って、第一線の軍人であり続けることを望んだ。そして翌1739年6月19日にフィンランド方面の軍総司令官に任命され、ロシアとの国境の防衛強化により一層取り組むこととなった。
 しかし彼は時の政府であったハット党が推し進めたロシアとの戦争に反対の立場だった。スウェーデン軍はまだ何の準備も整っていないというのが彼の意見だった。彼は必死になって戦いは無謀であると訴えたが、結局はその訴えは無視され、しかもフィンランド方面軍総司令官の地位すらも取り上げられてしまった。代わりに1740年6月4日軍事顧問会議総裁となったが、最早、彼に戦いを止める術はなかった。
 結局1741-43年のロシアとの戦争は彼の懸念通り大失敗に終わった。彼の後任は無謀な戦いを仕掛けて大敗した。後任の将軍レーヴェンハウプトは死刑に処せられたことから、解任されて彼は幸運だったとも言える。
 その後の彼は、様々な委員会で仕事をしつつ過ごした。王国科学翰林院には1740年に入ることを許されている。席次は48番であった。また、1748年には、これまでの国家への勲功を鑑みて新たに創設された勲章を授与された。彼が死んだのは1750年12月13日ストックホルムにおいてである。奇しくも彼の妻の死からおよそ一月後のことであった。まことしやかに残された告白書(5種類存在する)によると、死の床で彼がカール12世暗殺の謀議に加わったと懺悔したことになっているが、そのどれもが偽物であると言われている。
 彼は小柄であったが、勇敢であることは疑いもなく、そして砲兵として素晴らしい才能の持ち主であった。彼が砲兵に為した数々の改良はどれも先進的で、時を待たず全ヨーロッパに広がって砲兵の発展を促した。彼は疑いもなく最後まで生き残ったスウェーデン栄光の日々を知る最高の将軍の一人であった。

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あと、草稿なので、あしからず。砲兵運用とかもう少し詳しくしたりしたい。

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