槍と銃剣

近世西洋軍事と日々の戯言&宇宙とか色々

幼き頃のカール12世の言葉

2006年09月22日 23時36分40秒 | 大北方戦争+軍事史
ノルデンヘルムが冒険についてカールの見解を問うことがあった。
ノルデンヘルム「身を危険の地に置くは、正当なりと思い給うや?」
カール「然り。但し過度なるべからず」
ノルデンヘルム「冒険に過ぎたりとは、如何なる場合にや?」
カール「何事も構わぬを言う」
ノルデンヘルム「然からば、絶対に危険を冒さぬ方がよろしきや?」
カール「否なり。しかる時は、人これを兎と言わん」
ノルデンヘルム「されど、兎と呼ばれても生きんことは、獅子と呼ばれて死するに勝るや?」
カール「否。生きて兎と言われてこそ恥ずかしけれ。余はむしろ死して人に尊ばれん」

ノルデンヘルムがカールに紳士とは何かと、問うた。
カール「紳士は、内に剛毅の心を持ち、しかも寛大親切に、敵に向かっては獅子の如く猛烈に、家にあっては、全ての人に子羊の如く優しくあるべきである」

1689年6月10日のカールの日記。
教師の一人の「最も望むことを書け」と言う質問に、
「一度父上と共に戦にいける幸いをもちたい」

カールが12才前後であったある時。
ノルデンヘルムは、勇壮な物語を好むカールが、これを持って妄想に耽るのではないのかと心配し、この種の読書を制限し、どの様な考えでこれらの本を好むのか知るため、アレキサンドロスの生涯についてカールの意見を聞いた。
「殿下、アレキサンドロスについて如何考え給いますや?」
カールは即座に答えた。
「余も彼の如き英雄にならんと欲す」
そこで更に、ノルデンヘルムは尋ねる。
「然れども、彼は僅か32才まで生きたるのみ」
カールは言い放つ。
「人もしあれほどの国々を征服し得たるならば、32才で世を去ろうとも、これ充分長く生きたるもので、何で惜しむにあたろうか」
この言葉を聞いた父王カール11世は喜び勇み、
「息子は余よりも遙かに優れた人物となるだろう。大グスタヴ以上の偉業を成し遂げるに違いない」
と感歎した。

幼いカールが父王の居間にて2枚の地図を眺めていた時。
地図の1枚は皇帝軍を打ち破ったトルコ軍に占領されたハンガリーの1都市のもの。
もう1枚は、1世紀近くスウェーデンが保持しているリヴォニアの首都リガの地図。
ハンガリーの1都市の地図には下の方にヨブ記より引用された次の一節が記されていた。
「神、我にこれを与え、又我の手よりこれを奪い給えり。神の御名よ、讃えられてあれ」
カールはこれを読むと直ちに鉛筆をとり、リガの地図の下に次の一節を記した。
「神、我にこれを与え給えり。悪魔も我が手よりこれを奪わ得じ」

ノルドベリィとの対話 カール6才
ノルドベリィ「知っておられますか、殿下。素晴らしき一生とは如何なるやを」
カール「良く知っている」
ノルドベリィ「では、私に如何にして過ごすか教えて下さいますか?」
カール「有益にして良き万事のために一生を捧げることであろう」
ノルドベリィ「何かしら良き事を為す前に、必要な事があります。殿下、何であるかおわかりでございますか?」
カール「予は理解しているつもりだ。まず神に祈らねばらない。次に悲しみと苦しみに打ち勝つ術を知らねばならない。そして良き助言と耳痛い諫言を聞かねばならない」
ノルドベリィ「他にありますか」
カール「高潔にして慈悲深く、神に対しては敬虔であらねばならない」
ノルドベリィ「殿下はまだ知っておりましょう」
カール「両親と良き助言を与えてくれる全ての者に対し従順でなければならない」
ノルドベリィ「付け加えることは何もありませんか?」
カール「子羊の如き穏やかさと同時に、勇気と剛毅を持たねばならない」
ノルドベリィ「叶うならば、今ひとつ」
カール「敵に向かっては獅子の如く、しかし家にあっては子羊の如く優しくあらねばならない」
ノルドベリィ「私は質問をはじめるに際し、一つの主題に答えられるや否やを求めるだけでなく、幾つかの素晴らしき物事を発見できるや否やについても求めておりました。私の予想を上回り、殿下は的確をつきました。私は心より殿下の勝利をお認め致します」

フランス語を何故、使わないのかとの質問に対するカールの返答
「予はフランス語を存じているし、より習熟したいと望んでいる。そして予がフランス王と会うに際しては、彼にフランス語で話しかけるつもりである。しかしもし彼が予に大使を派遣したならば、予の判断においては、予がフランス語を学ぶよりも大使がスウェーデン語を学ぶ方が、より理にかなっているはずである。祖国の言語は彼の国のものと同じぐらい高貴であると予は考える故」

まだあるが、この辺で。

瓢箪から駒

2006年09月20日 00時40分09秒 | 戯言
ネットサーフィンをしていたら、こんな過去ログを発見。
歴史掲示板「一夢板風流記」過去ログ
下の方に、相良義陽さん(この方にはHP発足当時、相互リンクなどで大変お世話になりました。今も精力的に活動されていて凄いなぁ)の発言があるのだが、
ロシア・ポーランドは19世紀初頭までは北欧だったという論文の話が載っている。

思い出してみると、たしか日記の方にも、古い図書館だと、ロシア史が「北欧史」に紛れているのはそのせいだったみたいなことが書いてあったと思う。うろ覚えだが。

まぁ具体的な話しはリンクを読んでくださいって所だが、
この記事を読んで、自分のホームページの題名が間違っていないことを、今、ようやく知った。
当時の記憶によれば、連載15周年、ついに突入だよ魔導大戦。かっこいいなぁ。
久々の国家同士のMH集団戦! 燃える。隊列組んでガチンコ! 
隊列組んで? 近世欧州陸軍ぽいなぁ。メヨーヨの大帝? 
で、おぉ北欧大戦、いいじゃんそれっぽくて。みたいなノリだったからね。
(意味不明でスイマセン)
あの後、ダイ・グ陛下とカール君がオーバーラップしちゃってたなぁ。

後になって、ロシアは北欧じゃないじゃん! ポーランドも北欧じゃないじゃん! 間違ってるよ、題名! て気が付いて、まぁスウェーデンは北欧だから北欧の国が頑張った戦争なんだよって心の中で整理してたんだよねぇ。

もっとも、ず~と気になってて、何度か題名変更を考えたんだけど、変えなくてホントに良かった!

真実を言うと、ロシアやポーランドが北欧だって、オイラは昔から知っていたのだよと、今後言い張るとしよう(^^;

思い出したんだけど、ヴォルテールの「ルイ十四世の世紀」の区分も、実はロシアを北欧諸国と見なしていたりする。

「北欧諸国、即ちポーランド、スウェーデン、デンマーク。ロシア等も……」
<著 ヴォルテール、訳 丸山熊雄、ルイ十四世の世紀(一) p26 >

うん、オイラは昔から知っていたのだ!(大嘘)

ヨハン・ラインホルト・フォン・パトクルの婚約者

2006年09月06日 23時56分47秒 | 大北方戦争+軍事史
『彼[パトクル]はその名をアインジーデルと呼ぶ、サクソニアの一婦人と婚約の仲であった。此の婦人は名門の出である上、才能にも恵まれ、且つ美貌の持ち主である。而もはからずも、二人が結婚のためにと選んでいた時期は、パトクルの處刑の時と略々一致してゐた。彼は誨師に此の婦人を訪れて慰め、死に臨んで彼女を想う念は一入痛切であったと、傅えるやうに懇願するのであった。』<ヴォルテール 作 丸山熊雄 訳 英雄交響曲-チャールス12世- p189>

 これはヴォルテールがカール12世の伝記の中で、パトクルの処刑を記した文章からの抜粋である。これを読むと、パトクルには愛する恋人がいたことが分かる。そこで、この女性について調べてみた。

 彼女の名前は、アナ・ソフィエ・フォン・ルーモアと言う。ヴォルテールが言うところのアインジーデルは、彼女の最初の夫の姓であった。そう、パトクルはこの女性の再婚相手であったのである。
 アナ・ソフィエは1671年に生まれ、1689年2月17日に最初の夫ハンス・ハウボルト・フォン・アインジーデル(1654 8/17 -1700 10/1)と結婚した。アインジーデル家はドイツの大貴族と言っても良く、彼はその当主であった。彼はザクセン選帝候の宮内長官(Hofbeamter)、選帝太后妃アナ・ソフィエの侍従長(Oberhofmeister)、ポーランド王国とザクセンの財務官、ドレスデンの枢密院議員と、輝かしい地位を持っていた。
 一方、アナ・ソフィエの父もそれなりの実力者であったようだ。と言うのも、娘の夫が死んだ後、選帝太后妃アナ・ソフィエの侍従長(Oberhofmeister)という役職を継いでいるからである。当時の貴族間結婚の常識からして、ルーモア家もそれなりの家柄であったことは疑いない(調査したいな)。
 ハンスとアナ・ソフィエの間には5人の子供が生まれ、それぞれ無事に成人している。11年間の結婚生活は、そこそこ上手くいっていたのだろう。
 そして、ヴォルテールが「才能にも恵まれ」と表現したように、アナ・ソフィエは、抜群の才女であったようだ。彼女は夫が亡くなった後、長男が成人するまでその広大な領地一手にを取り仕切ったからである。また、彼女は企業家的精神にあふれており、専門家を招聘し、鉱山を開発し、鋳造工場を立ち上げている。
 おそらく、かなり個性あふれる性格をしていたのだろう。こういった手腕を知ると、パトクルの妻には相応しいと感じざるを得ない。
 もっとも、彼女とパトクルの関係に、どこまで愛があったのかは判断しかねる。この間読んだ本には、パトクルと彼女の婚約は、アウグスト王主導で進められ、パトクルはまったく関与できず、友人に愚痴の手紙を書いていたらしい。
 その後の交流で、愛がはぐくまれた可能性は否定できないし、大いにあり得る話しでもあるが(これも要調査だなぁ)。
 
 パトクルの処刑後、アナ・ソフィエは再婚することなく、1725年に死去した。
 
 しかし、調べたら随分印象が変わった。私は当初、それなりに可憐な貴族の令嬢を想像していたのだが……(だってさ、「死に臨んで彼女を想う念は一入痛切であった」なんて言っているんだよ)……どっちかと言うと、現代的な女性のようだ。
 もっとも40半ばのパトクルと30過ぎのアナ・ソフィエ、年齢的には妥当だし、相性も悪くなさそう。結婚していたら、良い夫婦になれただろうに。

wiki風ポルタヴァの戦い(途中であきた)

2006年09月03日 19時46分26秒 | 大北方戦争+軍事史
ポルタヴァ会戦(瑞:Slaget vid Poltava、露:Полтавская битва)は、1709年6月28日(スウェーデン歴:以下すべてスウェーデン歴)、大北方戦争第1期における決戦。東ウクライナのポルタヴァでロシア軍とスウェーデン軍が交戦し、ロシア軍が勝利した。

 この会戦により、スウェーデン国王軍は壊滅した。戦争の行方を決した典型的な決戦の一つである。スウェーデン軍の指揮官は陸軍元帥カール・グスタヴ・レーンスケルド伯爵。なお、スウェーデン国王カール12世は負傷のため、軍の指揮は執れず観戦のみである。一方ロシア軍の指揮官はロシア帝国ツァーリ、ピョートル1世。ただし、ピョートル1世は、主に一将校として会戦に参加し、全体の指揮は陸軍元帥ボリス・ペトロヴィチ・シェレメーチェフ伯爵とアレクサンドル・メンシコフ公爵に任せた。この会戦にはウクライナ・コサックのヘトマン、イヴァン・ステパーノヴィチ・マゼーパもスウェーデン側として参加した。しかし彼とその配下のコサックは、この会戦において重要な役割を担わなかった(ロシア戦役全体では重要な役割を果たしたが)。

背景
 ロシアのピョートル1世は戦争初年である1700年のナルヴァ会戦で大敗した。しかしその後、スウェーデン国王カール12世とその国王軍がポーランド=リトアニアへ向かったため、ピョートル1世は1689年以後から推し進めていた軍の近代化と国家の改革を更に推進する猶予を得た。最終的にピョートル1世は1706年までにスウェーデン領バルト海沿岸部の多くを占領することに成功した。
 一方、ポーランド=リトアニアを転戦していたカール12世は、1706年にザクセンへ侵攻した。これによりザクセン選帝候でありポーランド国王であったアウグスト2世(選帝候としてはアウグスト1世)は、戦争からの離脱とポーランド国王位からの退位を余儀なくさせられた(アルトランシュテットの和約)。

ロシア戦役
 1707年8月27日、カール12世と国王軍はザクセンを進発し、ロシアへの行軍を開始した。ポーランド西部にまで進出していたアレクサンドル・メンシコフ公爵率いるロシア軍は、ピョートル1世の焦土作戦の方針に従い、占領地をすべて荒掠させ、速やかにポーランド・ロシア国境地帯にまで退却した。焦土と化したポーランドとロシア国境地帯に直面したカール12世は、1708年2月、バルト海沿岸部スウェーデン領・リーヴラント総督、歩兵大将アダム・ルートヴィヒ・レーヴェンハウプト伯爵を召還し、レーヴェンハウプト麾下の軍を護衛とした輜重隊を編成し、主力軍に合流するよう命令した。そしてスウェーデン軍はモスクワへの前進を続行した。
 1708年7月3日、ベレジナ河を越えたスウェーデン軍はホロウツィン村付近でロシア軍主力と交戦した。敵前でヴァビッチ河を強襲渡河したスウェーデン軍はロシア軍中央の分断に成功し、勝利をおさめた。しかしロシア軍の多くは退却に成功し、カール12世は講和に結びつくような決定的勝利を逃した。そして勝利したスウェーデン軍はレーヴェンハウプト軍の到着を期待しつつモヒレフで約1ヶ月間の休息をした。しかし彼らは現れなかった。スウェーデン軍は前進を再開し、ドニエプル河を渡り、スモレンスクを伺う地点まで進出したが、そこで攻勢限界点に達した。
 一方、レーヴェンハウプト軍12,000名と数千台の車両からなる輜重隊の行軍は、ヨーロッパ東部の劣悪な道路事情により遅れに遅れていたが、この時期、主力軍から数十哩の地点にまで迫っていた。しかしスウェーデン主力軍は、待ち続けることが出来なかった。カール12世はスモレンスクからのモスクワ進撃を諦め、南方のまだ疲弊していない地域を目指すという方針を決定した。敵味方両軍が通過し疲弊させ尽くした土地にこれ以上とどまることは不可能であると考えたためである(このカール12世の判断は妥当性を持っているが、絶対に正しいとは言えない。多くの歴史家は数日間の糧食欠乏に耐えればレーヴェンハウプト軍との合流に成功したはずであると見なしている。しかしカール12世が補給をまったく軽視していたという意見は完全な誤りである)。スウェーデン主力軍は南下を開始し、ロシア軍はその圧力から解放された。ピョートル1世は、この隙を見逃さなかった。
 1708年9月29日、レースナヤ村付近でピョートル1世率いるロシア軍はレーヴェンハウプト軍を捕捉した。レーヴェンハウプトは輜重隊を村まで後退させるとロシア軍を迎撃した。ロシア軍は数で勝ったがレーヴェンハウプト軍も激しく抵抗した。しかしロシア軍の援軍が到着すると村まで後退し、敗北を悟ると輜重車両を焼き払い、夜陰に紛れて退却した。レーヴェンハウプト軍を殲滅させるには至らなかったが、ロシア軍は充分にその目的を達成した。後にピョートルはこの勝利を「ポルタヴァの母」と呼んだ。
 輜重が全て失われたことを知ったカール12世は落胆したが、南方のウクライナへの進撃を続けた。輜重の代わりをウクライナで得る心づもりであった。なぜなら同盟が成立していたコサックのヘトマン、マゼーパは援助を確約していたし、一度も戦場となっていない肥沃なウクライナは、それでなくとも有望な策源地であったからである。事実、スウェーデン軍の補給事情はウクライナへ入ると好転した。軍は一端の休息を得た。しかしマゼーパが確約したコサックの援軍と援助は、メンシコフ率いるロシア軍の迅速な行動により失われた。そして冬が来た。
 1708-9年の冬は、歴史上でもまれに見る厳冬であった。木の枝に止まっていた鳥がそのまま凍り付いたとも言われている。コサックの援助を受けることに失敗したスウェーデン軍の冬営は厳しいものとなった。好転していた補給事情もこれにより再び悪化し、多くの将兵が飢えと寒さで命を落とした。春が来たときスウェーデン軍の総数は約20,000名になっていた。それは最盛期の半分以下であった。
 春の訪れとともにカール12世は行動を開始した。彼は疲弊したそれまでの駐屯地を捨て、新たな策源地として更に南方のヴォルスクラ河流域を選択した。そこはまだ疲弊しておらず、同盟交渉を続けているオスマン帝国やその朝貢国であるクリミア汗国とも連絡が取りやすい地域であった。しかもヴォルヒニア・ポドニア経由でポーランドからの援軍も期待できた(これはウクライナ全体に言えることであり、国力的問題から1700年以降ほぼ常に現地に補給を求め続けていたスウェーデン軍にとって、本国との連絡よりもポーランドやウクライナなどの援軍や補給が期待できる土地との連絡の方が優先事項であった)。そしてスウェーデン軍はポルタヴァに現れた。
 攻囲戦は2ヶ月以上に及んだ。ロシア軍は良く守り、逆にスウェーデン軍の動きは緩慢だった。一説にはロシア軍との主力決戦を望んでいたためとも言われている。


ここで書くのに厭きた。いずれ続きを書くかも知れないが、今のところその予定はない。
……飽きっぽいなぁ俺。

そう言えば、前回は気が付かなかったが、Wikipediaのポルタヴァの戦いの一番下、
暦については大きく間違っているな。
スウェーデン歴だぞ~