槍と銃剣

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ニルス・ビールケ伝

2010年01月24日 09時14分53秒 | 大北方戦争+軍事史
随分と昔にブログで取り上げた人物、ニルス・ビールケ陸軍元帥。
英雄にして悪臣
その簡単な伝記です。
無断転載しないでくれると嬉しいですが・・・・・・

ニルス・ビールケ(1644年2月7日ストックホルム-1716年11月26日)

1678年陸軍中将、1679年-82年駐フランス大使、1687年ポンメルン総督、1690年陸軍元帥。1687年にBielke af Åkerö として伯爵に叙せられたことから、その一族の開祖となった。

 男爵トゥーレ・ニルソン・ビールケとその妻クリスティーナ・アーナ・バネルの長男である。1648年に5月11日に父が亡くなると、翌1649年、クリスティーナ女王は正統フィンランド州沿岸の群島にあるコルポ(Korpo)の男爵領をこの幼子が相続することを認めた。彼は1661年から62年の間、クラエス・トット(Claes Tott)に従って外交使節の一員としてフランスに赴いた。その後、帰国すると数年間、太王太后の宮廷に出仕した。
 1669年、彼はエヴァ・ホルン伯爵令嬢と結婚した。彼女はビョルネボリ家系の伯爵グスタヴ・ホルン元帥と彼の二番目の妻シグリッド・ビールケ(1620-1679)の間の一人娘で、その女相続人であった。

 29歳の時、親衛騎兵隊(Livregementet till häst)の隊長として大佐に任命され、スコーネ戦争に参加する。スコーネ戦争中(1675-79)、彼は組織者として、また指揮官として重要な役割を担い功績を立てた。特に1676年のルンドの戦いにおいて、親衛騎兵隊550騎を率いて目覚ましい働きをした。カール11世は戦いの後、デンマーク騎兵を退却に追い込んだ彼の突撃を評して「私の王冠はビールケの王冠に掛かっていた。神に次いで、ビールケと彼が率いた我が親衛騎兵隊に、この勝利を感謝したい」と述べている。
 これらの戦いの功績により1678年陸軍中将に昇進する。翌年、平和が訪れると彼はフランスへ大使として派遣される。大使に任を終え祖国に戻ると、外国で軍務に付く許可を得て、1685年ハプスブルク家による対トルコ戦争に参加する。彼はここでも様々な戦いで功績を立て、1686年、帝国陸軍大将となり帝国伯となる。スウェーデンに戻ると僅か1年後の1687年に国王参事、ポンメルン総督、王国陸軍大将、そして伯爵に叙せられる。

 しかし彼は土地回収政策で打撃を受けた貴族の一人であり、親フランス派として当時、対フランス大同盟寄りの中立を維持していたスウェーデンの外交方針と対立していた。またポンメルン総督の地位は彼に多くの富をもたらしたが、これは土地回収政策の実施側に付くということでもあった。
 こうして徐々に、カール11世への影響力は薄れ始め、1690年代初頭の個人外交の結果ついには寵愛を失することとなった。その後、カール12世がスウェーデン王となると、1698年、彼は逮捕され種々の権力乱用で訴えられることとなった。王命に叛いたこと、悪貨を作り私服をこやしたことなどが罪状である。長い裁判の末、1705年に彼は法廷において死刑が宣告され、名誉と所領も没収と決まった。しかし太王太后やヘードヴィク、ウルリカ両王女の取りなしにより彼は王命によって死刑を免ぜられた。

 しかし彼はハンガリーでの戦いで得た動産や、その他の所領などを全て失った。また、ストックホルムの在住や宮廷への出仕を禁じられた。妻の所領であったために唯一残ったゲッデホルム(Gäddeholm)とサーレスタッドの領地に彼は引きこもり、おそらく心臓の病でサーレスタッドで1716年11月に亡くなった。72才だった。この裁判の裏にはビールケと敵対していた王国官房の策謀があったとされる。

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