槍と銃剣

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テルシオ(スペイン方陣)

2009年12月20日 20時23分06秒 | 大北方戦争+軍事史
グスタヴ・アドルフなど三十年戦争が好きな人は
スペイン陸軍が誇るテルシオ、あるいはスペイン方陣についてもよく知っていると思う。

だけど、インターネットをくるくる見て回ると、
イマイチ、実情が理解されていないような感じがする。
ウィキペディアにおいてもテルシオ(スペイン方陣)の改良については、
「新隊形を開発するのは1635年のことである。それはスペイン方陣とスウェーデン式大隊を合成したものだった」
としている。
この年は正式にテルシオの人数が三千名から千名へ削減された年でもあるが、
実際はその前から実質においては削減されていた事実も忘れられている。

ということで、専門家ではないが、知っていることを書くとしよう。

まず通説だがテルシオについて抱いている一般のイメージはこんな所だろう。

ブライテンフェルトや後の戦いにおいてもテルシオは、
ほとんど常に全盛期と同様に巨大な方陣であり、その定員は1000-2000名であった。
そしてその時代遅れで鈍重な隊形は、スウェーデンやフランスが用いた新式の戦闘隊形によって打ち破られた、
といった感じだ。

文献を引用すると以下のようなのが一般的。

「前面に、およそ100人。これが12列から15列、最前列に銃兵が並び。中核には長槍が葦原のごとく林立し、…方陣の四隅を銃兵が堅め、1組のテルシオが完成される。…グスタフ軍の…銃兵が…射撃を間断なく注ぎ…テルシオの最外縁を固める火縄銃兵は…打ち倒され…切り崩されていく」"戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編



しかし実際をちょっと調べてみると次のようなことが分かった。

まずテルシオはリュッツェンやブライテンフェルトでは使われなかった。
名前こそテルシオであったがその戦闘隊形はスペイン方陣ではなく、オランダ・スウェーデン方式に近いもので、
中央に槍兵を置き、その両側に銃兵を並べる横隊隊形であったということである。
1630年から1635年にかけてのテルシオの槍兵の縦深は10列程度にまで削減されており、
銃兵の縦深も9-3列と状況に応じて、正面幅を延伸することが出来るようになっていた。
そして定員は1000名程度であった。
銃兵の比率も60-70%となりオランダ・スウェーデン方式に近い比率にまで高まっていた。
つまるところ、多少大きいがもう決して方陣ではなく、
機動力をではなく陣形の堅固さを保ったまま射撃戦能力を向上させ
守備的な横隊形を組み上げるようになっていたというわけである。

「「テルシオ」(現代の一部の歴史家の説に反して、リュッツェンやブライテンフェルトでは使われなかった)」
"オスプレイ グスタヴ・アドルフの騎兵"

「スペイン方陣(Spanish Tercio)はブライテンフェルトやリュッツェンだけでなくノルトリンゲンにおいても使われず、彼らは堅固な陣形と銃兵の能力を用いることでスウェーデン軍の突撃に抵抗することが出来た」
"The Spanish “Tercios” 1525 - 1704 "


(ちなみにこの絵はかなり適当。もっとちゃんとした絵が、The Spanish “Tercios” 1525 - 1704にある)

おまけに前記のサイトを読むと、ノルトリンゲンの戦いにおいて、
テルシオの兵は鈍重というイメージを覆すかのように、
スウェーデン軍の射撃準備にあわせて身を屈めるように膝立ちになり、
スウェーデン軍の一斉射撃をやり過ごすことまでやっている。

こうやって見てみると、如何に世間一般に流布しているイメージで
物事を判断することの軽率さというものの一端が見て取れると思う。

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