槍と銃剣

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ピエール・ダルタニャン元帥伝

2013年05月19日 00時22分37秒 | 大北方戦争+軍事史
ピエール・ドゥ・モンテスキュー=ダルタニャン伯爵 モンテスキュー元帥 1640?45?-1725/8/12
バイヨンヌ総督アンリ・ドゥ・モンテスキュー=ダルタニャンとジャンヌ・ドゥ・ガッシオンの4番目の息子。

 フランス近衛銃士隊長シャルル・ダルタニャンと言えば、あるいは既に三銃士の主人公ダルタニャンのモデルとして有名かも知れない。しかしその従兄弟となるとやはり途端に無名になるのは世の習い。
 ピエール・ドゥ・モンテスキュー=ダルタニャン伯爵、後にモンテスキュー元帥として知られるこの男は、かのダルタニャンの母方の従兄弟である。
 生まれは1645年となればシャルル・ダルタニャンに比べておよそ30才の年齢差。この年の離れた従兄弟をあこがれの目で見たのが、ピエール14才の時だと伝わる。
 それは1660年6月9日。この日はフランスにとって晴れがましき、国王ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサとの結婚式の当日であった。ガスコーニュの一都市サン・ジャン・ドゥ・リューズで盛大に挙げられた式には当然ながらシャルル・ダルタニャンが隊長代理として実質の隊長を務める白銃士隊も参列する。かくて彼らは祝賀のパレードを飾り立て、その姿を沿道から眺め見たピエールは銃士隊入隊を決意した次第らしい。
 なにしろ若きピエール、当年取って14才。そんな若者にとって腕一本で成り上がるシャルル・ダルタニャンは、それこそ大デュマの銃士ダルタニャンもかくやの英雄だ。そもそも地縁を頼るのが当たり前の時代である。シャルル・ダルタニャンからして、親戚のつてを頼り上京しての立身出世。ピエールがそれに倣うを躊躇する理由はない。
 早くもその年の10月に上京したピエールは、まずは順当にパリ北東にあるオラトリオ会系の王立ジュイイ学院で文武を修め、次いで4年後の64年に王宮小厩舎の小姓となって宮仕えの第一歩を踏み出した。
 ちなみにこのような手順を踏むのは何もピエールだけではない。後に彼の上官となり、あるいは対立することもあったフランス大元帥ヴィラールも王立ジュイイ学院から、こちらは王宮大厩舎の小姓となっている。ヴィラールと違ったのはピエールには頼れる従兄弟がいたことか。
 折しも絶対王政の端緒とも言えるフーケ事件に関わっていたシャルル・ダルタニャンは、これを若者教育に最適と判断。かくして65年、既に近衛歩兵連隊の青年隊士となっていたピエールはダルタニャン配下としてフーケを移送するピニェロル護送に加わり、しかもその流れで銃士隊に入隊を果たす。
 こうして1665年のオランダ遠征、67年の遺産相続戦争に参加。銃士隊長および騎兵旅団長となったシャルル・ダルタニャンの側で、今や将軍となった従兄弟の第一流の指揮ぶりを学べたのだから、やはりピエールは恵まれていたと言えるだろう。
 トゥルネー、ドゥエー、リールと転戦し、1668年に戦争が終結するまでにピエールは一端の軍人になっていた。
 となれば今度は乳離れならぬ従兄弟離れと相成るわけで、戦争終結後直ぐにピエールは銃士隊から近衛歩兵連隊に移籍して直ちに旗手となる。普通なら、なかなか若者の昇進は覚束ないところであるが、ピエールには従兄弟譲りのガスコン地縁があった。この連隊は支援者グラモン公爵の連隊だったのである。
 早くも3年後の1671年には少尉(隊長代理補 sous-lieutenant )に昇進すると、再び始まったオランダ戦争に参加して、1673年には中尉(隊長代理 lieutenant )となる。この年にマーストリヒトの攻囲戦で偉大なる従兄弟シャルル・ダルタニャンを失うが、もう押しも押されぬ近衛将校であったピエールの出世街道に支障はない。
 1674年には幕僚長補(aide-major)に昇進。スネフの激戦にも参加して1676年には近衛幕僚長(major)。スヘルデ川流域作戦に参加してコンデ、ブシャンと進撃し、1677年のヴァラシエンヌ、カンブレー、サントメールの攻略、モン・カッセルの戦いに従軍。最早、従兄弟の力なくとも独力で運命を切り開く。
 翌1678年にはヘントとイーペルの包囲にも参加して、かくてオランダ戦争が終わる頃、ピーエルは近衛幕僚長の職と兼務して近衛歩兵連隊の中隊長職を得てしまう。
 なんとなれば僅か33才でピエールは近衛隊長となっていた。ルイ14世からの信頼篤く、1682年には歩兵査察官となったピエールの前途はまさに洋々であった。しかし彼をしてやはり抗し得ぬ評判がある。つまり出来星の将校ではないかという悪口である。そう。前述したが、ガスコン地縁だ。
 なるほど確かに、彼の生家、モンテスキュー家はガスコーニュ地方においては名門の家柄であった。父アンリはバイヨンヌ総督を務めた地元の名士。おまけに母ジャンヌ・ドゥ・ガッシオンの実兄はフランス元帥ジャン・ドゥ・ガッシオン伯爵なのだから一族の力は伊達ではない。
 もちろん、従兄弟にしてリール総督をも歴任した銃士隊長シャルル・ダルタニャン伯爵も忘れてはいけない重要な要素だ。
 だからやはり、パリに網の目の様に広がる一族の絆は確実に、ピエールの立身出世に大きな力を及ぼした。だが、これは当時のフランス軍人界の常識であり、ピーエルを非難するのは土台が時代錯誤のお門違いなのだ。
 こうして彼の出世は続く。1683年にはフランドル方面軍の参謀長、大同盟戦争が始まった1688年には准将に昇進。1689年にはシェルブールの守備を任された。1690年にはフリュールスの戦いに参加し功績が認められると、1691年には少将となるのだから、やはり地縁だけでなく能力もあったということだろう。
 同年モンスの包囲に参加し、翌年にはナミュール包囲戦へ、そしてステーンケルケの戦い。1693年はネールウィンデンの戦いにとピエールの転戦は止まらない。
 改めて見てみると、大同盟戦争の著名な戦い殆どすべてに参加しているのだから、大したものである。1696年1月3日には中将となったピエールは、特筆すべき大功こそ立てたことはなかったが、歴戦の将軍へと成長を遂げていた。
 戦争が終結すると1698年、ピエールはようやく前線勤務から外れることとなる。アラスの都市総督そしてアルトワ地方国王総代という輝かしい地位が忠実に戦った軍人への褒美であった。とはいえ、自らが地方に赴くのは出世にも影響するし、何よりも常に近衛であった彼自身の心意気に反する。そういうことでピーエルは常にヴェルサイユに出仕する道を選んだ。そしてこれが彼を更なる高みへと押し上げる。
 1700年、再び風雲急を告げる欧州情勢を受け、ピエールの出番はまたやってきた。ルイ14世の信頼厚き将軍はブラバント全体の情勢を探るべくモンスへと派遣され、そのまま1702年には王孫ブルゴーニュ公麾下でフランドル戦線に参加。ヴェルサイユに出仕していたピエールとブルゴーニュ公は知らぬ仲ではなし、覚え目出度く任務に励む。だが敵はイギリス史上最高の名将マールバラ。戦局は常にフランスの劣勢だった。
 それでもピエールは1704年にはナミュールを守り、1705年にはマールバラの芸術的機動により突破されたブラバント防衛線を奪回するべく奮戦した。その年の終わりにルーヴェンから5マイル離れたディーストに拠る敵軍への攻撃を提案。認められると軍を率いて24時間の内に、守備隊の4個歩兵大隊と4個騎兵大隊を打ち破り捕虜を多数手に入れた。
 既に戦略的意義を喪失してしまっていたとはいえ、負け続きの中でのピエールの働きはフランス軍を鼓舞した訳である。
 1706年もブラバント方面でマールバラと対峙し続け、フランス軍の敗北に終わったラミイの戦いでは歩兵隊を指揮した。マールバラとオイゲン公の天才を示したこの戦いで、ピーエルは明らかに引き立て役であった。その屈辱、復仇の念は察して余りある。
 何となればその証拠に、一時的にドイツ戦線へと転出された1707年、ヴィラールの指揮下でシュトルホーヘンにおける同盟軍防衛線突破で目覚ましい働きを示しているからだ。
 1708年にはフランドル軍の最先任中将となり、いずれ来るであろうマールバラとオイゲン公との決戦を待ち望んだ。しかしアウデナールデにおいて、ブルゴーニュ公とヴァンドーム公率いるフランス軍は敗北し、ピエールは再び復仇の機会を逃した。それでも彼はフランドル戦線で戦い続けた。ヘント近郊のフォール・ルージュを攻め落とし、1709年初頭にはヴィラールの命令により海岸方面の戦線を安定させるべくヴァルヌトンを守る同盟軍を打ち破り800名余りの捕虜を捕獲した。
 待ち望んでいた機会はもう、すぐそこにあった。このとき追い詰められたフランスは最後の野戦軍を不敗の名将ヴィラールに托していたからだ。1709年9月11日マルプラケ。不敗と不敗の戦いにおいて、ピエールはフランス軍右翼の歩兵隊を指揮する。
 意地と意地のぶつかり合い。戦いが史上稀に見る激戦となったのは自明と言うところ。近世の戦場において、これほど血が流されるのは7年戦争ではクネールスドルフ、ナポレオン戦争ではワグラムくらい。
 若くして近衛隊長となったピエールも、既に69才の白髪混じりの老将軍。だがそれでもなお、いや、それだからこそ、彼は奮い立った。血で血を洗う前線で彼は部下の先頭に立った。乗馬が撃ち殺されること三度。胸甲を撃たれること二度。負傷し血を流しながら指揮を執るピエールの勇戦はフランス軍人の範である。
 もちろん、彼ばかりではない。フランス軍においては総指揮官ヴィラール元帥も、その直下で左翼の次席指揮官となった僚友アルベルゴッティ中将も、重傷を負って戦線を離脱するほどなのだ。
 同盟軍が押せば、フランス軍が押し返す。戦いは一進一退。勝敗を決めたのはやはり、指揮官たちの負傷だったであろうか。かくて午前9時から6時間に及んだ戦いは午後3時に終わった。
 負傷し戦線から離脱したヴィラールに代わり軍の総指揮を任されていた老元帥ブーフレールは、この時、遂に勝利を諦めた。後衛の騎兵隊に守られ、軍は秩序を保って後退した。フランス軍は敗れた。しかしブーフレールは言う。
「不運がこれほどの栄光を伴ったことはかつてなかったと断言できます」
 そう、オイゲン公とマールバラは勝利した。けれどそれは「ピュロスの勝利」でしかなかった。同盟軍はフランス側の二倍に近い損害を受け、余りの死傷者を前にして、マールバラはもう二度と野戦をすることができなかった。何故ならイギリス政界が、イギリスの国力がそれを許さなかった。
 なるほど、それは戦術的敗北だった。しかし戦略的勝利であったのだ。
 そしてピエールの示した勇気は昇進に値した。彼は1709年9月20日、遂にフランス元帥となった。同盟軍は依然として進撃を続けたが、戦線に復帰したピエールは再びヴィラールの指揮下で同盟軍と戦った。
 マルプラケの戦いは転換点であった。マールバラは遂に1711年の年末に罷免されイギリスは同盟軍から離脱した。
 戦争は終盤にさしかかり、遂に元帥となっていたピエールは、更にその活動を広げた。それが新たな対立を生むのは致し方ないことか。上官ヴィラールは、ピエールら将軍たちからの数多の横やりに「軍の作家たちが無数の計画を宮廷に送る」と苦言を呈するに至る。
 だが、その中にピエールが考えたフランス逆転の糸口があるとなれば話は別だ。サン・カンタン方面においてスヘルデ河(エスコー河)とソンム河を結ぶ防衛線を形成するという彼の案は、全シャンパーニュ地方を危険にさらすものではあったが、ヴィラールに一つの着想を与える。
 即ち、この方面において戦線を形成すると見せかけて、オイゲン公の裏をかく。ただ残念なことに、ヴィラールはピエールにこの計画を告げなかった。
 そして、大逆転が始まる。
 この時、フランスは敗北の縁にあった。マールバラとオイゲン公は1711年に、戦力劣るヴィラールの懸命な術策にも関わらず、フランス国防の要、絶対防衛線を突破していた。翌1712年、マールバラが罷免された後もオイゲン公は着々とパリに迫る。
 絶対防衛線は既にブシャンを落とされたことによって大穴が開けられていた。防衛線は二つに割られ、スヘルデ河とサンブル河の間の平原には同盟軍が雪崩を打って殺到。補給線がトゥルネーからマルシエンヌ、そして側面をブシャンに守られたドゥナンを通り結ばれる。
 後一歩、後一歩でパリだった。オイゲン公は突出部を堅固にするべく、東方のル・ケノワを攻囲、これを7月4日に占領した。
 残るは南方にあるサンブル河河畔のランドルシー。ここさえ落とせば、突出部の東と南の防衛は万全となり、後顧の憂いなくスヘルデ河とソンム河を越えてパリへと進撃できる。オイゲンは当に戦争勝利に王手をかけていた。
 しかしこれこそが、ヴィラールの待っていた瞬間であり、ピエールの戦略案に着想を得た逆転のときだった。
 1712年7月23日午後6時、ピエールは幕僚らと伴にヴィラールの本営を訪れる。ヴィラールはランドルシーを直接救うべく、サンブル河を越える方針を示す。だがその夜、敵も味方もランドルシーへの進撃を信じる中、ピエールはヴィラールからの転進命令を受け取る。
 如何なる思いを持って、この命令を受けたのかは最早定かでない。そして、それは些細なことだった。
 ピエールは次席指揮官として軍を素早くまとめると、北へと転進した。敵前線を右手に望み、側撃の恐怖も夜間という困難にも負けずフランス軍は見事な行軍をやってのけた。
 7月24日朝、フランス軍はスヘルデ河を渡河。マルシエンヌとドゥナンの連絡線を断つと、そのまま旋回し、北方よりオイゲン軍の兵站を左右するドゥナンへと突撃した。
 時刻は午後1時。同盟軍はドゥナンの守備隊とマルシエンヌからの援軍を用いてフランス軍を挟撃しようとしたが、ピエールはもとよりヴィラールすらも先頭に立った突進は同盟軍を一蹴した。
 戦いは僅か2時間足らずで終わった。ドゥナンはフランス軍の手に落ち、同盟軍の突出部は分断された。オイゲンに残された道は退却だけだった。
 ランドルシーは救われ、ピエールらフランス軍は更にドゥエーへと進撃し、オイゲン公の策源を壊滅させた。奪われていたル・ケノワもブシャンも、フランスの手に帰した。
 こうして1710年から着々と整えられていたマールバラとオイゲンの勝利への道は、僅か3ヶ月のうちに消え去ったのである。
 正しく、ナポレオンが評したように、ドゥナンがフランスを救った。そして苦難の11年間を経て、遂にフランス勝利の日々が来た。ライン方面へと進んだヴィラールはオイゲン公を相手に連戦連勝。一路オーストリアへと迫る。
 残念なことに、ピエールはその間、ブラバント方面に留まった。だがしかし、彼の功績は比類無いものであった。ラシュタットで講和が締結されて戦争が終わったとき、ピーエルはフランス軍元帥として栄光を掴んでいた。
 彼の晩年はこうして輝かしいものとなった。1716年から1720年の期間においてはブルターニュ総督。1721年6月16日にはルイ15世の摂政団の一員となり、その年の10月ラングドック地方総督に就任。1724年2月2日、ルイ15世によって騎士勲章指揮官位を授与されるに及ぶ。
 従兄弟シャルルは大デュマによって一代の英雄となったが、現実には一介の武人に終わった。そして物語の中ですら、待ち望んだ元帥杖を手にした直後に世を去った。だがピエールは違う。
 若き日に憧れた従兄弟をいつの間にやら追い抜いて、彼こそが、夢を抱いてガスコーニュの田舎から上京し、仲間と上司に恵まれ、戦乱の中で元帥杖を手にフランスを救う、物語のような人生を駆け抜けた。
 モンテスキュー元帥と後に言われる。だが、三銃士、ダルタニャンの物語を愛するならば、こう言うべきだろう。
 もう一人のダルタニャン、ピエール・ダルタニャン元帥と。

[家族]
 ジャンヌ・ペドルーと結婚するも彼女は子が出来ぬまま1699年2月16日に死去。その後、エリザベート・エルミート・イエヴィルと1700年に結婚。息子ルイを1701年1月6日に授かる。彼は1717年2月に歩兵大佐となるがその年の7月5日に天然痘で死去。娘のカトリーヌ・シャルロッテ・ドゥ・モンテスキューは2才で死去した。

[墓所]
 ル・プレシ=ピケにある彼の城館で1725年8月12日に死去。8月14日に城館近くの教区教会、聖マグダラのマリア教会に埋葬された。墓碑銘は「いと高き強き君主、ピエール・ドゥ・モンテスキュー閣下。ダルタニャン伯爵にしてフランス元帥、国王軍指揮官、摂政団顧問、アラスの都市総督兼要塞総督、国王陛下の騎士勲章指揮官位保持者。ル・プレシ=ピケの城館にて1725年8月12日に逝去。享年85才と6ヶ月。足下に眠る」

[関連書籍]
ダルタニャンの生涯―史実の『三銃士』 (岩波新書)
ダルタニャン物語(全11巻セット)
スペイン継承戦争―マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史
プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア―興隆期ハプスブルク帝国を支えた男


テルシオのパイク兵に関する調書を読んだ

2012年11月26日 00時10分39秒 | 大北方戦争+軍事史
テルシオのパイク兵に関する調書を読んだ。
内容は
http://togetter.com/li/412493
を参照して欲しい。

 まず土台から私とは認識が異なった。16世紀において、モンテクッコリ曰く、歩兵の女王は、「槍」である。当時の常識において、銃兵が槍兵の付属物であり、その逆ではない。なので議論の始まりからしておかしい。では何故、女王は槍兵であったのか?

 当時、歩兵に対する最大の敵は騎兵であった。そしてその騎兵を打ち破るために生まれたのが槍兵方陣である。スイス人やフランドル人がこの隊形で騎士軍を打ち破って以後、この槍兵方陣が歩兵陣形のスタンダードとなった。実際、歩兵大隊の50%以上が槍兵であるならば、基本的に槍は多数の騎兵を全く寄せ付けない能力を持った。秩序だった密集隊形を取る2~300名の槍兵隊は、槍を水平に構えて全周を向けば、どんな騎兵隊であろうと、小火器あるいは随伴砲兵による援護無しに打ち破ることは不可能である、と私は考えている。

 小火器の性能はどうであったか? 確かに斉射によって敵の槍兵隊の突撃を破砕する能力はあった。しかし騎兵に対してはなかった。17世紀のグスタヴ・アドルフのスウェーデン軍ですら、野戦においてポーランド軍騎兵隊と正面で戦うことは敗北を意味した。この事実を持って、敵に騎兵隊がある限り、銃剣のない銃兵隊は槍兵隊の支援が不可欠であるということが言える。

 しかも銃兵が敵の槍兵隊の突撃を破砕する能力を持つとしてもそれは限定的でしかない。まずマスケットであるがこれは重すぎて扱いが難である。故に連続射撃向きの兵器ではない。次にアルケビュースであるがその点は問題ない。しかしどっちにしても火縄銃である。これは大問題だった。
 槍と火縄銃の時代、兵士たちは後の7年戦争やそれ以降に比べて広がった隊形を組んでいた。それぞれの縦列の兵士たちは通常、2,3フィート離れていた。そしてそれぞれの横列は一般的に12から13フィート離れていた(下士官のハルバードの長さの2倍)。もし純粋に攻撃や防御と言った問題だけが関係しているならば、兵士たちはより密集しているべきであっただろう。しかし兵士と兵士の距離を保たねばならない大きな問題があった。
 フリントロック銃が普及する以前、それぞれの銃兵は火のついた「火縄」を銃につけていた。グスタヴ・アドルフは30年戦争期に紙薬莢を導入してあらかじめ決められた量の火薬と弾丸を一緒にした。しかしながらこの発明は、すべての欧州諸国陸軍に採用されたわけではなく、その理由は紙薬莢が高価で連隊指揮官たちが供給することが出来なかったからである。その結果、兵士たちにとって、火薬角のなかにだけでなく、革で裏張りされたポケットの中にも火薬の粉を入れて持ち運ぶということをスペイン継承戦争の中盤になるまで行っていた。もし兵士が密集しすぎて互いを押し合ったら、あるいは誰かがミスをしでかしたりしたら、その結果を予想することはあまりに簡単である。
 1680年頃の記録には、極めて頻繁にそのような惨劇が発生したことが記されている。当時、弾薬帯は銃兵の肩に掛けられていた。
「それらが火を発すると、通例、身に帯びているその人は負傷するか死亡させ、近くの仲間までも巻き添えにした。そしてもし一つの弾薬帯に火が移ったら、所属する残りの部隊全員に燃え移るということもありえた」
 17世紀に至り、紙薬莢の採用によって縦列間隔は以前に比べて半分あるいはそれ以下に削減できるようになった。しかしながらフランス軍は縦列間隔を狭めることに抵抗し、スペイン継承戦争の終わりに到るまで、2フィートの距離を保つようにさせた。
 もちろん、これは大隊が敵の50歩以内に接近した時を除く。敵と至近になれば横列間は極めて小さくなり、1~2歩(5フィート)程度となった。しかし、その際に彼らは射撃などできなかったろう。もし敵が至近距離まで近づいた状態で斉射を実施するならば、1分に1発が実効値としての平均射撃速度であった当時の銃兵は、間違いなく近接戦闘に陥った場合、敗北を免れなかった。
 このことは何故、火縄銃の時代に銃剣が発達しなかったのかについての解答ともなっている。事実、イングランド内戦の時代にはすでに熊手の先を外して火縄銃の銃口に差し込むというようなことが行われていた。しかし、火縄銃を使っている限り、密集できない歩兵の白兵戦能力、対騎兵戦能力は、期待できなかったのである。

 しかも上述の通り、突撃破砕を実施するには適切な距離での斉射が不可欠である。しかしこれが難しい。18世紀のイギリス銃兵隊ですら、剣と盾で武装した原始的な高地地方突撃の前に幾度となく敗北を喫している。銃剣があり、燧石式で密集が可能、しかも全員が銃兵で練度も十分な銃兵ですら、断固たる意志を持って突撃する歩兵を阻止することは難しかったのである。このような戦術を16世紀に頼りにすることは余りに自殺行為だと私は考える。

 つまり銃剣もない、密集も出来ない、射撃速度もおそい16世紀の火縄銃兵が、その能力を完全に発揮するためには、正面切っての野戦は相応しくないという結論に至る。銃兵が素晴らしい成果を上げるには野戦陣地あるいは、それに比肩するものが必要だということである。ポーランドにおいてフス派の流れをくむ車陣が盛んに利用されたのも、銃兵隊を敵の騎兵から守るためであった。西欧の解答は、野戦陣地の構築、あるいはその役割を槍兵に担わせることだったのである。

 こう考えれば、テルシオ方陣の全盛期において、銃兵が如何に制約があり、運用が難しいかが分かるだろう。これを主力にするなど狂気の沙汰である。比べて槍兵は守って良し、攻めて良しの主力たり得る存在であった訳である。

 この状況はスイス方陣以来、長らく続いたわけだが、17世紀に至り、マウリッツに代表される教練の普及により火縄銃兵の射撃戦能力が向上して、それに伴い、火力を最大化するために隊形が徐々に横隊化した(砲兵の発達も多少は影響しただろうが、遊兵を減らすことが最大の目的だった)。おまけに当時の西欧の騎兵は、カラコール戦術を行うことも多く、騎士軍の昔ほど、騎兵に突撃能力がなかったことも影響した。しかしここにおいても当初、槍兵は依然として大隊の中央を占め、主力を担った。理由は銃兵の射撃速度に対する不信、運用の難しさ、対騎兵戦能力の不足である。

 しかし、銃兵に対する改革は徐々に進展した。教練の力が大きかっただろう。騎兵の能力が落ちていたことも原因だったろう。そして人間は基本的に、白兵戦などしたくはない。よって1600年頃は1:1であった比率は、17世紀中頃には槍1に対し銃2となり、世紀の終わりまでに1:4となった。ここでようやく歩兵の女王が銃兵となるのである。

 しかし今度は、騎兵が突撃したとき、こうなってしまうと初期のマスケット銃兵隊の試みである、槍兵隊の後ろに隠れる方法や槍を低く構えた槍兵隊の隊列の間に身を置くやり方は、もはや17世紀の初期の頃のようには適切な方式ではなくなっていた。今や、擲弾兵を含めて530名の銃兵隊に対して槍兵隊は120名しかいなかった。これはもし銃兵隊が槍兵隊の隊列の間に身を置くとするならば、平均で言って4から5名の銃兵が2名の槍兵の間に位置することにならざるを得ない。騎兵隊は苦もなく槍を左右に蹴散らして歩兵隊を撃破することが出来ると言うことが言える。しかも5列しかない横隊の槍隊は、その昔の10列やそれ以上であった頃ほどの堅固さをもはや持ち得ていなかった。

 そこで様々な隊形が考案された。例えば最も有効だったのは、5列横隊の内の前後2列を銃兵、3列目を槍兵とした隊形である。この隊形が敵の騎兵隊に攻撃されると、兵士たちは密集し、武器を構える。第三列の槍兵が持つ槍はその長さ14フィートであり、低く構えられたとき、その槍先は第一列を超えてさらに7フィートは突き出されていた。この隊形は槍兵と銃兵の間に相互防御の関係を与えた。士官たちは大隊の前面に位置し、第一列は膝立ちして射撃に備え、大隊指揮官の命令によって敵に向けて射撃した。騎兵からの攻撃に対しては槍によって守られ、銃兵の射撃は非常に正確になったし、槍兵にしても騎兵の攻撃に対抗する際に、迎撃射撃という援護が得られ、自信を持って敵に対処し、臆病風に吹かれる心配も減った。
 しかしやはり運用に問題があった。こんな複雑な隊形をどうして運用できようか? おまけにせっかく火力を向上させてきたのに、後ろ2列は役立たずである。こうして1650年代にはこの戦術はうち捨てられた。

 その結果、この時代、つまりテュレンヌの時代、カラコールから既に脱却を果たし、すでに突撃能力を取り戻していた騎兵は決戦兵種としての役割を奪還することに成功したわけである。もちろん、昔とは違い、銃兵の火力は向上していたから単純に正面から突撃することはなかったが、騎兵戦に勝利すれば、いくらでもやりようがあった。槍兵隊が持続して削減されていくに従い発生する問題を完全に解決する戦術は存在しなかったし、歩兵隊はますます騎兵隊に対して脆弱になっていったのがこの時代である。日本の戦国時代にも、朝鮮戦役において火力戦能力を高めすぎた所為で、明軍騎兵に対して押し込まれる事例が発生している。

 じゃあ槍兵を増やせよ、となるが、今度は対歩兵戦で火力の欠如が問題になる。火力戦への傾向は特にイングランドやドイツで強い。フランスやスウェーデンなどは突撃に信頼性を置いていた。ここで各国の特色が現れてくる訳であるが、それが発展する前に銃剣がようやく普及した。なお、銃剣の普及と燧石式の普及がほぼ同時であったのは、因果関係があるからである。前述のように火縄銃時代には既に銃剣は存在していた。しかし密集できない限り有用性は低かった。しかし燧石式ならば場合は違う。そして有用性が高まれば、改良が加えられる。こうして槍兵が増える前に、銃剣が普及し、槍兵は消滅した。
 それでもスウェーデン軍で槍兵が頑固に残っていたのは、攻撃に用いたときの槍兵の有用性を信じていたからであり、ポーランド騎兵に火力戦指向の横隊戦術が何度も打ち破られてきた経験から来る槍兵の対騎兵防御力への依存が色濃かったからであろう。

 それでも槍は依然として信頼を得ている。サックス元帥は槍の復活を唱えているのだから、愛されているねと感じざるを得ない。

ナポレオン戦術

2012年06月30日 23時35分26秒 | 大北方戦争+軍事史
整理をしていたら、ナポレオン戦術についてのメモ書きを発見した。
ナポレオン戦争はあんまし詳しくないので間違っていたら誰か指摘して欲しいなという願望を込めて掲載します。

内容については記憶が確かなら、mixiの世界軍事史のトビで紹介されていた著:小沢郁郎「世界軍事史」の一節を読んで思いついた。

以下は「世界軍事史」の一節mixiのトビからコピペ。
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 数十回も続くナポレオンの勝利の主因は何か?かれは戦術的天才であった。その作戦は、敵の意表をついて、自軍を予定戦場に敵より多く集中し、砲撃とときに白兵戦によって敵の中央を突破し、退却する敵軍を追撃せん滅するという図式をとった。機動力による兵力集中である。
 一見単純明快なこの戦法をナポレオンの敵はとれなかった。とりたくてもとれない。兵の質が違うのである。フランス軍は革命軍であった。義勇兵にしろ徴兵にせよ、かれらには個々の戦闘の向うに大きな戦争目的があった。夜間や雨中の行軍でも脱走兵が少ない。散兵戦術もやれる。補給の不足を戦わぬ理由とするわけにはゆかぬし、困苦欠乏は、敵地の抑圧されている民衆によってカバーされるであろう。フランス軍は解放軍なのだから。
 一人の指揮官が直接掌握し、戦況に応じて機敏に対応できる師団という単位に軍を編成したことも有効ではあったが、より大きく、絶対主義の王朝軍~傭兵と強制徴募兵には、分かっていて実行できぬのが、ナポレオン戦術だった。王朝軍は敗戦から軍の再建に金と時間がかかる。思い切った作戦は避けねばならない。が、フランス軍の兵員補充ははるかに楽であった。ナポレオンの軍事的「天才」とは、単なる作戦・用兵の巧みさではなく、自己の軍隊将士の敵と異なる特性を把握し、その全エネルギーを有効にすることであった。革命軍にのみ可能な戦術を大胆に採用した点であった。
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まぁ所謂、昔ながらの通説である。出版年も古いし、こんなものだろうという内容だ。で、もし私だったらどう書くかと考えたわけだ。

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 ナポレオンは戦術にのみ優れた軍人ではなかったし、基本的に軍事改革者でもなければ創始者でもなかった。彼は確かに敵の意表をつき、自軍を集中させ、退却する敵に追撃を加えたが、このような行動は、マールバラやオイゲン、その他多くの将軍が規模こそ異なれど実施しており、彼をその創始者と見なすには多くの無理がある。
 また同じくらい彼の強みとして強調される機動力は、革命の所産たる義勇兵や徴集兵によって獲得されたわけではなく、革命により軍の規模が劇的に拡大し、要塞が無力化されたため獲得された。つまり兵の質ではなく数の上昇が機動力増大(要塞無視)の源泉だった。そのため地理的要因から多くの攻城戦を余儀なくされたスペインにおいてナポレオンの部下はひどい目にあった。
 同様にしばしば革命的情熱が賞賛される義勇兵と徴集兵であるが、革命初期の質は酷いもので戦わずに逃げ散ることすらあった。志願兵についても募集は容易ではなく、重要な数も揃わなかった。これが総動員法につながり、恒常的な徴兵制の採用となる。しかしナポレオン時代のフランス徴兵制の実績であるが、初期の頃には高い比率の徴兵逃れと脱走が存在した。ナポレオンは様々な罰則を設けて無理矢理彼らを兵士に仕立てたが、はたしてそのような兵士が革命的情熱を持っていただろうか? おまけに代理人制度や賄賂によって金持ちは常に徴兵から逃れていた。かき集められた貧乏人たちに征服国からの徴発組、それが全盛期のナポレオンの軍の主力であった。
 一般に革命の所産として賞賛されている散兵戦術についても、それは事実ではない。この戦術は1740-1年においてフリードリヒ大王軍をハプスブルク軍のクロアチア・ハンガリー軽歩兵隊が撃退して以来、常に軍人らの注目を浴びる戦術となり、農奴を率いたスヴォーロフも散開戦術の有効性を戦場で証明した。軍制改革を本格的に行う前のプロイセン軍においても散兵戦術は取り入れられている。
 革命軍及びナポレオン軍の補給上の特徴とされる現地調達も、クレヴェルトが指摘するように17-18世紀において普通に実施されていた。むしろクレヴェルトは、ナポレオンの方こそが後方からの持続的な補給を可能にしようとした最初の軍人であったと見なしているほどである。
一部に根強いフランス帝国軍を解放軍と見なす考えもまた、事実を誤認している。これはスペインやドイツにおける反フランスの気運の高まりを見れば明らかである。実際の所、革命時代においても、周囲から大歓迎を受けたという話はイタリアぐらいである。全盛期のナポレオン軍を解放軍として一般的に歓迎したのは、独立を目指すポーランドだけだったのではないだろうか。
 師団編制は1740-8年のオーストリア継承戦争で試されているし、それ以前にも三兵科を保有する常設旅団が編制されたことがある。これらが広まらなかったのは、パーカーによれば「大軍を分散し、移動展開を相互に調整し、再び迅速に集結させるのに必要な道路と地図が、思うように手に入らなかったためである」とのことで、革命よりも政府(革命政府である必要性はない)と測量士の努力が構想を現実に変えたと見るべきだった。
 つまり通説として良く言われる、「絶対主義の王朝軍~傭兵と強制徴募兵には、分かっていて実行できぬのが、ナポレオン戦術だった」という意見は余りに一面的過ぎるのである。もちろん革命以後の「フランス軍の兵員補充ははるかに楽であった」のは事実であるし、それによる兵員数の増加がナポレオン戦争を特色づけ、要塞無視の戦略を取ることをナポレオンに許した。しかし、前述したとおり革命フランスが用いた戦術は、「革命軍にのみ可能な戦術」だったわけではなかった。
 この戦争は、兵員数の大幅増加やそれによって可能になった決戦主義(決戦による勝利を追求しその為には手段を選ばない)の一時的優勢によって説明されるべきなのである。
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こっちの話も別に真新しい話でもない。でもいまだに所謂通説に向こうを張るだけの勢力を獲得していない様な気がする。

会戦地図など

2011年02月02日 23時26分16秒 | 大北方戦争+軍事史
最近になってpixivにユーザー登録しました。
HP用にと考えていた会戦地図とかの作りかけをUPしてます。
そのうち、そのうちと考えてたけど文章作る暇もないしね。
それに、HPに大容量の画像を置く気にもなれなかった。
(未だにHP容量が泣きたくなるくらい小さいのです)

移転も考えたけど、そんな気力もない。

画像の差し替えとか、プレミアじゃないので出来ないから、
ちょっと使い勝手が悪いのが玉に瑕だけど、まぁ満足です。

基本的にHP別館、図録集として活用します。
当面の更新はこっちがメインになるかな。
UPしたらTweetしてるので、よろしく(誰に?)。

pixivへのリンクはここです。

近世騎兵戦術の発展

2010年01月30日 10時16分23秒 | 大北方戦争+軍事史
ということで騎兵熱が高まったので、思いの丈を文章にしてみた。

 16世紀、ホイールロック式の短銃が一般化したことを受け、騎兵戦術はその形態を変更せざるを得なく なった。短銃を装備した騎兵は、従来まで騎兵の花形であった装甲槍騎兵に対して優位を獲得したのである。これは槍が敵騎兵を攻撃し得る至近距離において、取り回しに難のある槍よりも短銃の方がその威力 を発したことによる。短銃の射程距離は短く、至近でなければ狙ったところに当たらなかったが、それでも槍の届く距離においては、絶大な威力を発揮した。更に装甲の継ぎ目や馬を狙うことも発見され、重長な鎧が無効化されることとなった。これらにより短銃騎兵は、最終的に装甲槍騎兵を戦場から駆逐することに成功した。
 しかし、対騎兵戦に優れる一方で、短銃騎兵は歩兵に対する攻撃力を失っていた。槍を持たない彼らは 、地面に立つ歩兵を攻撃する手段としてカラコールと呼ばれる、縦深を深く取った陣形で各列が入れ替わり射 撃しては後退するという射撃戦術をとったからである。これは、明らかに、騎兵にとって効率の悪い攻撃方法 であった。そこで、装甲槍騎兵の時代、騎兵の最強国として名高かったフランスはアンリ大王の治世下、短銃騎兵に装甲槍騎兵のような突撃戦術を融合することを試みた。
 これは、敵に近付き射程距離内に入ると射撃を行い、抜剣して敵陣に突撃するという戦術である。この戦術は、対歩兵戦における騎兵の攻撃力の復活を意味した。
 また、この戦術は、対騎兵戦においても優位を獲得した。かつては至近距離で2~6挺の短銃を持つ騎兵が敵の騎兵の至近距離にまで接近して射撃を行い、乱戦に持ち込んで、装甲槍騎兵を撃破したが、これには 短銃を持ち変えるという無防備な作業が必要とされた。しかしこの時の敵は重たく取り回しの利かない槍 を武器としていたため、その欠点は致命的にならなかった。一方、突撃戦術は短銃から剣に持ち変える瞬間を除いて、攻撃を連続的に行うことが出来た。また剣は槍に較べて取り回しが利き、乱戦時、短銃の銃床で対応するしかなかった純粋な短銃騎兵は苦境に追い込まれた。更にまた、射撃の後に突撃を行うため 、敵により接近して射撃を行うことがより強調され、それが実施された。純粋な短銃騎兵においても、同様のことが強調されたが、近接しすぎたときの不安が先に勝ち、なかなか上手く実施できなかった。このため 、最初の射撃戦においても、その後の近接戦においても、この抜剣騎兵は優位に立つことが出来た。
 この戦術が大々的に有名になるのはスウェーデン王グスタヴ2世・アドルフによる勝利によってである。彼 の騎兵は貧弱であり、資金の不足にもたたられ短銃も少なかった。そのため彼は、縦列を少なくし、射撃戦術ではなく、射撃後、剣を抜いての突撃戦術を多用した。もっとも彼の敵、帝国軍騎兵指揮官パッペンハイ ムもすでに射撃した後に突撃するという同様の戦術を実施するようになっており、伝説に言われているほど、 グスタヴの騎兵が活躍したわけではなかった。
 最終的にこの戦術は3列程度の横隊を組んで並足あるいは速歩トロットで前進し、短銃あるいはカービンの射程距離まで近付いた後、一斉射撃を行い抜剣して突撃すると言う戦術となった。この方式はフランスや オーストリアなどで採用された。しかしこの方式は、純粋な短銃騎兵に比べれば遙かに突撃力を確保して いたにもかかわらず、射撃のために前進を停止せざるを得ず、突撃のモーメンタムの多くを犠牲にしていた。 火力信奉者らはこの方式を突撃力と火力の融合としてある程度評価していたが、突撃力信奉者は、これを生ぬ るいと感じていた。その結果、射撃を行わずに直ちに抜剣突撃する戦術が生まれた。
 この方式の利点は、突撃の威力を最大限発揮できることにあった。射撃時、そしてその後の抜剣時において 騎兵はどうしても速度をゆるめるか、あるいは停止しなければならなかったが、始めから剣を抜いているこの 騎兵は、速度をゆるめることなく突撃を行うことが可能だった。
 おそらく、この種の突撃騎兵を広めたのはテュレンヌ元帥であった。彼はしばしば騎兵に射撃を許さず突撃させ、成功を収めている。そして、彼の部下であったマールバラ公とスウェーデン貴族によってこの方式の突撃騎兵が、イングランドとスウェーデンにもたらされた。特にスウェーデンに関して補足しておくと、グスタ ヴ2世・アドルフが短銃の不足により射撃なしの突撃を行ったことはあったが、それは定着化せずその場 しのぎで終わっていたと現在では思われている。そのため純粋な抜剣突撃は、テュレンヌの下で働いていたス ウェーデン貴族がスコーネ戦争時に実施するまでスウェーデン騎兵の基本戦術ではなかった。
 テュレンヌの撒いた種は十八世紀初めの二つの戦争で、大きな華を咲かせた。スペイン継承戦争ではマールバラが、大北方戦争ではカール12世がそれぞれ純粋な抜剣騎兵突撃を実施し、フランス・ドイツ諸侯・ポーラ ンド・ロシアといった依然として短銃による射撃を行った後に突撃を行う騎兵あるいは旧来型の槍騎兵など、これまでの騎兵をことごとく撃破したのである。
 もっともマールバラとカール12世の騎兵とではその突撃方法は大きく異なった。両騎兵ともに突撃時の射撃 が禁じられていたことまでは同一であったが、それ以外の方式は全くの正反対であった。


疲れたので終わる。読み返してないので間違い多数かもしれない。
まぁいいか。

騎兵は死なず

2010年01月30日 10時08分14秒 | 大北方戦争+軍事史
アフガンでアメリカの特殊部隊が馬を用いているという話は知っていましたが、
詳しい話が
祖国は危機にあり 関連blogというブログで
21世紀の騎兵突撃
として紹介されていました。

不謹慎ですが、ワクワクしました。
確かに紹介にあるように、物語性が強すぎるけど、十分すぎます。
Horse Soldiers、買ってしまおうかな?

騎兵という兵種のしぶとさを感じてしまった。
やっぱり中央アジアには馬が似合う。
乙嫁語りとかね(笑) 全然、騎兵じゃないけど。

ということで久々に騎兵熱が高まりました。
なにか書こう。 よし書いた

ちなみに坂の上の雲は見ませんでしたが・・・・・・

iSlate改めiPad

2010年01月28日 21時30分38秒 | 大北方戦争+軍事史
遂に発表されました、アップルタブレット。
その名もiSlate改めiPad。

でもやはり、欲しいと思えませんでした。
要するに、大きいiPhoneのようです。
Flashも動かない。USBポートもSDスロットもない。
カメラもないので、仮想現実も楽しめない。
マルチタスクにも非対応。
アップルの縛りがガチガチに結ばれていそうなのも、残念でした。

値段が思ったよりも安かったのが唯一良かったくらい。
あと、連続10時間の駆動は良い。
ただ実際の使い方で何時間か分かるまでは何とも言えない。

加えて電子書籍を読むにしても、液晶だと疲れるので、余り好みではない。

というわけで喜んでいるのはアップル好きの人々だろうと思いました。
i-Phoneのアプリがそのまま使えるのはi-Phoneユーザーにとっては大きな利点だろうけど、
もってない私には関係のない話である。

以上のことから、個人的には残念でした。

もっとも、世間はきっと称賛するんでしょうね。

さて、これに対してアマゾン・キンドルはどうするのか?

こんな記事があります。

iPad vs Kindle:Amazonはどう応じるべきなのか?

単一機能でいくのか、エンターテイメント路線に梶を切るのか?
興味深いところです。

おそらく次のキンドルに採用されるだろうミラソルディスプレイの出来次第なのかなと思います。
今の電子ペーパーの実力ではカラーにしたところで、
液晶採用のタブレットPCとエンターテイメント路線で勝負しても
勝負にならないのは目に見えていますので。

追記:
タブレットPCを買うとしたらChrome OSが入った奴を買うでしょうね。
少なくとも、i-Padより自由度が高いはずだから。

ニルス・ビールケ伝

2010年01月24日 09時14分53秒 | 大北方戦争+軍事史
随分と昔にブログで取り上げた人物、ニルス・ビールケ陸軍元帥。
英雄にして悪臣
その簡単な伝記です。
無断転載しないでくれると嬉しいですが・・・・・・

ニルス・ビールケ(1644年2月7日ストックホルム-1716年11月26日)

1678年陸軍中将、1679年-82年駐フランス大使、1687年ポンメルン総督、1690年陸軍元帥。1687年にBielke af Åkerö として伯爵に叙せられたことから、その一族の開祖となった。

 男爵トゥーレ・ニルソン・ビールケとその妻クリスティーナ・アーナ・バネルの長男である。1648年に5月11日に父が亡くなると、翌1649年、クリスティーナ女王は正統フィンランド州沿岸の群島にあるコルポ(Korpo)の男爵領をこの幼子が相続することを認めた。彼は1661年から62年の間、クラエス・トット(Claes Tott)に従って外交使節の一員としてフランスに赴いた。その後、帰国すると数年間、太王太后の宮廷に出仕した。
 1669年、彼はエヴァ・ホルン伯爵令嬢と結婚した。彼女はビョルネボリ家系の伯爵グスタヴ・ホルン元帥と彼の二番目の妻シグリッド・ビールケ(1620-1679)の間の一人娘で、その女相続人であった。

 29歳の時、親衛騎兵隊(Livregementet till häst)の隊長として大佐に任命され、スコーネ戦争に参加する。スコーネ戦争中(1675-79)、彼は組織者として、また指揮官として重要な役割を担い功績を立てた。特に1676年のルンドの戦いにおいて、親衛騎兵隊550騎を率いて目覚ましい働きをした。カール11世は戦いの後、デンマーク騎兵を退却に追い込んだ彼の突撃を評して「私の王冠はビールケの王冠に掛かっていた。神に次いで、ビールケと彼が率いた我が親衛騎兵隊に、この勝利を感謝したい」と述べている。
 これらの戦いの功績により1678年陸軍中将に昇進する。翌年、平和が訪れると彼はフランスへ大使として派遣される。大使に任を終え祖国に戻ると、外国で軍務に付く許可を得て、1685年ハプスブルク家による対トルコ戦争に参加する。彼はここでも様々な戦いで功績を立て、1686年、帝国陸軍大将となり帝国伯となる。スウェーデンに戻ると僅か1年後の1687年に国王参事、ポンメルン総督、王国陸軍大将、そして伯爵に叙せられる。

 しかし彼は土地回収政策で打撃を受けた貴族の一人であり、親フランス派として当時、対フランス大同盟寄りの中立を維持していたスウェーデンの外交方針と対立していた。またポンメルン総督の地位は彼に多くの富をもたらしたが、これは土地回収政策の実施側に付くということでもあった。
 こうして徐々に、カール11世への影響力は薄れ始め、1690年代初頭の個人外交の結果ついには寵愛を失することとなった。その後、カール12世がスウェーデン王となると、1698年、彼は逮捕され種々の権力乱用で訴えられることとなった。王命に叛いたこと、悪貨を作り私服をこやしたことなどが罪状である。長い裁判の末、1705年に彼は法廷において死刑が宣告され、名誉と所領も没収と決まった。しかし太王太后やヘードヴィク、ウルリカ両王女の取りなしにより彼は王命によって死刑を免ぜられた。

 しかし彼はハンガリーでの戦いで得た動産や、その他の所領などを全て失った。また、ストックホルムの在住や宮廷への出仕を禁じられた。妻の所領であったために唯一残ったゲッデホルム(Gäddeholm)とサーレスタッドの領地に彼は引きこもり、おそらく心臓の病でサーレスタッドで1716年11月に亡くなった。72才だった。この裁判の裏にはビールケと敵対していた王国官房の策謀があったとされる。

カール12世とアレクサンドロス大王(その9 おわり)

2010年01月16日 10時17分18秒 | 大北方戦争+軍事史
カール12世とアレクサンドロス大王(その8)へ

オスカー:カール12世とアレクサンドロスの伝記の後、現在は何を構想していますか?

ベングト:それは秘密ですが、今現在はPopulär Historiaでアドルフ・ヒトラーについての一連の記事を書いています。あとは中学校で教えていますし、外部でも講義をしています。

オスカー:貴方の講義は非常に素晴らしいですよ。ヨーテボリのブックフェアでのアレクサンドロスについての講話も軍事博物館でのカール12世についての話も素晴らしかった。またいずれ、もっとも多くについて聞きたいと思っています。

ベングト:ありがとう。妻は2000年代に入ってから、スライドをパワーポイントに変えろとうるさいのですがね。でも私は嫌がっているんです。私の意見を言わせてもらえば、パワーポイントはビジネス向けすぎるんですよ。

オスカー:オリバー・ストーンがアレクサンドロス大王の映画を撮っています。カール12世が映画になるときは来ると思いますか?

ベングト:新しい映画と言うことですか? 私は1925年の映画の「Carl XII」のDVDを見ることを推奨しますよ。その時には是非、4時間バージョンのものかあるいは1940年のカット版を見てください。たしかにフィクションがあり、歴史的でないところもありますがね。私はラッセ・オーベリィ(Lasse Åberg)が撮ったベンデリ騒乱(Kalabaliken i Bender)よりもカール12世がよく描かれていると思っています。私の息子は好きですが。

オスカー:私もそう思います。しかし今新たにカール12世の映画が撮られるとして、彼のアレクサンドロスへの憧憬は描かれると思いますか?

ベングト:多分、カール12世がクルティウスのアレクサンドロスの伝記を読んでるシーンは出てくるでしょう。

オスカー:もしアレクサンドロスか、カール12世どちらかにあえて、会話を交わすことが出来るとしたならば、どちらを選びますか?

ベングト:私は常々、カール12世に、ペレヴォロチナに軍を残したままドニエプル河を渡ったとき何を考えていたのかを訊ねてみたいと思っています。どうしてなのか? どんな計画があったのか? 私はいつも考えるのですよ。

オスカー:分かりました。非常に素晴らしい時間をありがとうございました。ベングト・リリエングレーン!

ベングト:こちらこそ、君の質問はとても面白かった。ありがとう。


****************
途中、よく分からないところは適当に訳したのであしからず。

なかなか興味深い対談だった。
カール12世は後世、北方のアレクサンドロスと呼ばれたが、
言われなき綽名ではないということだろう。
リリエングレーンのカール12世の伝記は持っているのだが、
暗殺の部分しか読んでないので、いずれ全部読んでみたいなぁ。
彼のアレクサンドロス伝も読みたいが、スウェーデン語なのが最大のネック。
とりあえず、クルティウスをもう一度読み直すかな。日本語だしね。


カール12世とアレクサンドロス大王(その8)

2010年01月12日 23時22分37秒 | 大北方戦争+軍事史
カール12世とアレクサンドロス大王(その7)へ


オスカー:アレクサンドロスとカール12世はどちらも優れた指揮官でした。しかしその指揮下にあった兵士たちはそのイメージの形成にどれほど貢献したと思いますか? 彼らは偉業を築き上げるのをどのように助けたのでしょうか? どう思われますか?

ベングト:どちらともに非常に重要な個人としての役割に影響を与えたと私は思う。

オスカー:個人としてのアレクサンドロスやカール12世について知ることは非常に難しいですが、何故でしょうか?

ベングト:これは非常に込み入った問題です。特にカール12世についてはね。彼はまるでグレタ・ガルボのようにミステリアスだ。カール12世については嫌になるくらい資料が沢山あるのに、個人としての彼を取り扱ったものはごく希です。同じ事はアレクサンドロスにも言える。全般的にそういったものは少ない。そして怪物としても聖者としてもどちらでも彼ら二人は捉えることが出来てしまう。

オスカー:アレクサンドロスとカール12世には多くの伝説が残されています。どのようにしてこのような伝説の影響を排除しているのでしょうか?

ベングト:歴史家ならば皆が伝説を打ち破ることを使命としている。実際の歴史調査は、これまでのことを見直すことを基本にしています。私たちはつねに、何かしらの新たな、これまで真実と受け入れられていたことを塗り替えるようなものを求めています。なぜ私がカール12世の伝記を書いたかについて言いましょう。ベングトソンとハットンの伝記を読んだ後、私はもしカール12世が、この二つの本にあるような英雄であるならば、どうしてその結末はスウェーデンに悪い結果をもたらしたのかと考えたからです。それは真実の探求と呼ばれる種類のものです。もっとも私はハットンの本を完璧だと考えています。私はおそらく、このようなものを書くことが出来ないでしょう。

オスカー:カール12世は1718年に死んで以後、あらゆる政治的背景のなかで利用されてきました。同じ事はアレクサンドロス大王にも言えるでしょうか?

ベングト:アレクサンドロスはカール12世以上に利用されてきました。ローマ帝国の皇帝たちはアレクサンドロスを支配者の象徴としていました。彼はコーランや聖書の中にも見受けられます。彼は、仏陀やキリストとともに歴史上世界で最も描かれてきた人物です。例えば現代でも、WW2のドイツの「電撃戦」などアレクサンドロスの戦術の応用とも言えます。ノーマン・シュワルツコフは湾岸戦争でアレクサンドロスの兵術を適用したと言っています。というよりも、アレクサンドロス以降のほとんどの軍人は彼に学んでいるのです。それはカール12世も同じです。

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