槍と銃剣

近世西洋軍事と日々の戯言&宇宙とか色々

英雄にして悪臣

2006年08月27日 22時06分55秒 | 大北方戦争+軍事史
スウェーデンの陸軍元帥にして伯爵ニルス・ビールケはカール12世によって、その職務怠慢・横領などの罪などによりポンメルン総督の地位から罷免された。
しかも彼はカール11世が進めた土地回収政策に反対の立場を取るグループと近しい関係にあり、デンマークの外交筋とも親密につきあっていた。彼を含めたこの反対勢力はカール11世の死に乗じ、スコーネ地方をもデンマークに差し出し、その力を借りて、失われ、あるいは奪われつつある彼らの領地を取り戻すことすら視野に置いていたとされる。
それは許されざる行為だった。ニルスはこれにより完全に失脚した。太王太后の取りなしがなければ、すべてを失うことすらあり得た。

……これだけを書くと、彼は如何にも悪臣であるかのような印象を受ける。ただ家柄のみによって出世したような。
しかし人とは分からないものである。彼は決して、悪臣ではなかった。
それどころか、救国の英雄だった。
彼はカール11世の親友の一人ですらあり、そして辛く激しいスコーネ戦争での英雄にして王の戦友だった。
ルンド会戦での彼は、まさに英雄だった。カール11世はビールケの剣先にスウェーデンの王冠がかかっていたと述べたと言う。彼が率いた親衛騎兵隊550騎は、勝利を決定づける突撃をやってのけたのだ。しかも彼は、この戦争の中で、グスタヴ2世アドルフがしていたような白刃を片手にした短銃に頼らない騎兵突撃をスウェーデンに再導入していた。ドイツ傭兵が主流になり、射撃にたよっていたスウェーデン騎兵は彼によって本来の機動力と突破力を取り戻したのである。
彼の功績は明らかだった。それは戦いの後、その栄誉をたたえてビールケに授けられた剣~フランス王ルイ14世からカール11世に送られた剣~からも証明されている。この剣は、カール12世が率いた軍隊の剣のモデルともなったのだ。
ビールケは間接的に、カール12世の騎兵に素晴らしい勝利をあたえたとも言える。

人の一生とはかくも難しい。

Wikipedia ポルタヴァの戦い その添削

2006年08月05日 21時31分32秒 | 大北方戦争+軍事史
 ウィキペディアのポルタヴァの戦いがあまりにも悲惨なので、添削してみることにした。
 原則として、新しい文章を付け加えるのではなく、既存の文章を入れ替え、一部のみを変更するだけにとどめることとする。
 これだけだと、間違いなく不十分な文章にしかならないが、それでも大幅な改善が見込めるのではないかとも期待した。

 以下原文と添削文、そしてその注釈である。
 一応<>が文章の移動。[]が文章内容の一部変更部分である。また、不必要な誤解混じりの文章及び表現は記号無しで削除した。

<ウィキペディア原文>
 ロシアは、万全な体勢を取り、さらに焦土作戦を展開した。おりしも冬将軍がロシアを後押しした。スウェーデンは、補給を絶たれた上に、大寒波によって多数の凍死者を出す損害を被っていた。

 それでもカール12世は進軍を止めなかった。1709年6月、スウェーデン軍は、ヴォルスクラ川沿いの要衝ポルタヴァを包囲した。包囲戦の最中の6月17日、カール12世は狙撃兵によって足を負傷し、カール・グスタフ・レーンスケルドに指揮権を委託した。その後まもなくピョートル1世率いる42,000から45,000人前後の兵力と72門の砲を装備したロシアの援軍が到着、スウェーデン軍を逆に包囲した。圧倒的な兵力の劣勢から、カール12世は敵包囲軍を撃破して、北方へ突破することを決意した。この時点で、スウェーデン軍は著しい凍死者によって20,000人余りに減少しており、さらにポルタヴァから出撃するロシア軍をけん制するために軍の一部を割かねばならず、攻撃に使用できる兵力はわずか17,000人ほどだった。

<添削文>
 ロシアは、万全な体勢を取り、さらに焦土作戦を展開した。<それでもカール12世は進軍を止めなかった。>[しかし]冬将軍がロシアを後押しした。スウェーデン"軍"は、補給を絶たれた上に、大寒波によって多数の凍死者を出す損害を[被った]。

 1709年[5]月、スウェーデン軍は、ヴォルスクラ川沿いの要衝ポルタヴァを包囲した。包囲戦の最中の6月17日、カール12世は[流弾]によって足を負傷し、カール・グスタフ・レーンスケルドに指揮権を委託した。その後まもなくピョートル1世率いる42,000から45,000人前後の兵力と72門の砲を装備したロシア[軍がヴォルスクラ川を渡河し]、スウェーデン軍[に迫った]。[ポーランドからの援軍が来ないことを知り、オスマン帝国からの援軍には勝利が必要であることを悟った]カール12世は[敵軍]を撃破することを決意した。この時点で、スウェーデン軍は著しい凍死者によって20,000人余りに減少しており、さらにポルタヴァ[の]ロシア軍をけん制するために軍の一部を割かねばならず、攻撃に使用できる兵力はわずか17,000人ほどだった。

<添削のポイント>
 最初の段落は順番の誤り。ロシア軍の焦土作戦→スウェーデン軍進撃続行→補給環境悪化→南方への転進決意→レースナヤ→ウクライナへ→補給環境改善→厳冬→補給環境悪化→多数の死者
が基本的な流れ。

 次の段落はまず月の誤り。ポルタヴァ包囲戦は5月からなので変更。6月17日のカールの負傷はヴォルスクラ河の中洲からの銃弾であり、決して狙ってあたる距離ではない。(カールの死因の時もそうだが、日本人はとかく「狙撃」と言う言葉を使いたがる。この時代のマスケットの性能を知らないのだろうか?)
 次はピョートル軍の到着について。彼はだいたい6月はじめにヴォルスクラ河の対岸に到着している。負傷の文章の後に「その後まもなく」と入れるならば、それは6/17以降のロシア軍ヴォルスクラ河渡河にあたる。また、「包囲」という言葉がこの後に数回使われるが、スウェーデン軍は包囲されていないので削除。
「北方への突破」も誤りとして削除。戦闘決意はポーランドからの援軍が来ないという情報が届いたためと、オスマン帝国との同盟交渉の問題から発生した。
「ポルタヴァから出撃するロシア軍」は好みの問題であるが、作戦立案の時点では出撃する可能性があるだけであり、誤解を招きそうなので削除した。

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<ウィキペディア原文:戦闘経過>

 6月28日、スウェーデン軍の攻撃は奇襲効果を狙って未明から開始された。奇襲は成功し、戦闘序盤はスウェーデン軍優位に進んだ。ロシア軍左翼、および中央はスウェーデン軍の勢いに押されて後退しはじめた。ピョートル1世は騎兵を投入して時間を稼ぎ、その間に全軍が後退して、野営地の前に築いた野戦陣地へと入った。

 夜明けになり、態勢を整えたスウェーデン軍はロシア軍陣地へと攻撃をかけた。アダム・ルードヴィゴ・レーヴェンハウプト元帥が指揮するスウェーデン軍中央がロシア軍中央に攻め寄せたが、この攻勢はすぐに頓挫した。カール12世が直接指揮を執っていなかったため、スウェーデン軍の統率は完全ではなく、各部隊の連携がうまくいかなかったのである。致命的な損失を招いたのは、カール・グスタフ・ルース大将率いる2,600人の歩兵部隊が、ロシア軍の稜堡に仕掛けた突撃である。ルースと指揮下の部隊は塹壕にはまりこんだ状態で猛烈な砲撃を浴び、1,000人以上の損害を出して降伏した。これによってスウェーデン軍の戦線に大きな穴が開いた。

 ここにおいてピョートル1世は反撃を命令した。ロシア歩兵は陣地から出撃し、スウェーデン歩兵へ攻撃を仕掛けた。さらに両翼のロシア騎兵も突撃を開始した。最初に崩れたのはスウェーデン軍右翼の騎兵であった。さらにまもなくスウェーデン軍左翼の騎兵も敗走。ロシア騎兵は両翼からスウェーデン歩兵の側面を圧迫した。カール12世は敗勢を悟り、全軍に撤退を命令した。スウェーデン軍は野営地へ向けて敗走し、ロシア騎兵の追撃によって多くの死傷者を出した。ポルタヴァの包囲軍と合流したスウェーデン軍は、野営地を放棄して南へ敗走した。ロシア軍は執拗に追跡し、多数の捕虜を得た。

<添削文>
 6月28日、スウェーデン軍の攻撃は奇襲効果を狙って未明から開始された。奇襲は成功し、戦闘序盤はスウェーデン軍優位に進んだ。<ピョートル1世は騎兵を投入して時間を稼ぎ、その間に全軍は[戦闘態勢を整えた]。>"一方"<致命的[だったの]は、カール・グスタフ・ルース[少将]率いる2,600人の歩兵部隊が、ロシア軍[が]<野営地への接近経路に作った>稜堡[群の一つにこだわったことである]。><カール12世が直接指揮を執っていなかったため、スウェーデン軍の統率は完全ではなく、各部隊の連携[は]うまくい[っていなかった]>。<ルースと指揮下の部隊は猛烈な砲撃を浴び、1,000人以上の損害を出して[潰走した後]降伏した。これによってスウェーデン軍の[戦力は大きく減少した]。>

 [ルースの到着を待ち続けたため時間を浪費した]スウェーデン軍は[午前9時45分頃]ロシア軍[に]攻撃をかけた。[既に]ロシア歩兵は陣地から出撃し[てい]た。アダム・[ルートヴィヒ]・レーヴェンハウプト[大将]が指揮するスウェーデン軍中央がロシア軍中央に攻め寄せた。<ロシア軍左翼、および中央はスウェーデン軍の勢いに押されて後退しはじめた。>が、この攻勢は[遂]に頓挫した。

 ここにおいてピョートル1世は反撃を命令した。両翼のロシア騎兵[が]突撃を開始した。最初に[攻撃を受けたのは]スウェーデン軍右翼の騎兵であった。さらにまもなくスウェーデン軍左翼の騎兵[が]敗走。ロシア騎兵は[スウェーデン軍左]翼からスウェーデン歩兵の側面を圧迫した。スウェーデン軍は野営地へ向けて敗走し、ロシア騎兵の追撃によって多くの死傷者を出した。ポルタヴァの包囲軍と合流したスウェーデン軍は、野営地を放棄して南へ敗走した。ロシア軍は執拗に追跡し、多数の捕虜を得た。

<添削のポイント>
 基本的に戦闘の順番がぐちゃぐちゃなので、大幅に入れ替えた。
 原文では、奇襲→スウェーデン軍優位→ロシア軍左翼・中央後退→ロシア軍騎兵投入→時間を稼いで全軍後退→ロシア軍、野戦陣地に入る→夜明け→スウェーデン軍ロシア陣地攻撃→攻勢が頓挫→理由はカールの負傷のため連携不足→ルースの失敗→戦線に穴が空く→ロシア反撃→スウェーデン右翼騎兵敗走→スウェーデン左翼騎兵敗走→スウェーデン軍両側面を圧迫され、最終的敗北。
 しかし現実には、
 奇襲→スウェーデン軍優位→ロシア軍騎兵投入→時間を稼ぐ→ロシア軍戦闘体制→ルースの失敗→理由はカールの負傷のため連携不足→ロシア軍、陣地を出る→10時少し前→スウェーデン軍ロシア野戦軍に攻撃→ロシア軍左翼・中央後退→攻勢が頓挫→ロシア反撃→スウェーデン右翼騎兵攻撃されるもこれを撃退→スウェーデン軍歩兵動揺→スウェーデン左翼騎兵敗走→スウェーデン軍左翼を圧迫され、最終的敗北。

 これにそって原文を入れ替え、文章を変更、あるいは削除した。
 ロシア軍騎兵の攻撃は経過が複雑なので添削した後の文章も不十分だ。実際にはメンシコフ率いるロシア軍左翼騎兵がロシア軍左翼側面を攻撃するスウェーデン軍右翼騎兵の後方を攻撃したが、この攻撃は失敗しロシア軍左翼騎兵は退却させられている。しかし、その間に騎兵の支援を失ったスウェーデン軍歩兵隊は勢いを遂に失う。一方、ロシア軍右翼歩兵はスウェーデン軍左翼歩兵を圧迫し、バウアー率いるロシア軍右翼騎兵隊は、集結に失敗していたスウェーデン軍左翼騎兵を敗走させ、スウェーデン軍左翼歩兵の後背に攻撃をおこなった。そしてこれが、勝敗を決定した。

 このように本当はもっと補足説明を沢山追加して、きちんしなければならないが、それだと当初の添削という考えから逸脱し、原文とは似ても似つかぬものになってしまうので行わない。

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 しかしあらためてウィキペディアの記述がファンタジーになっているかが分かった。幾つかの文章を除いて文章1つ1つには大きな間違いはないのに、その間違えと順番がおかしいだけでまるで別の戦いとなってしまっている。
 他にも似たような事例が沢山ありそうである。

ウィキペディア原文は以下より引用
"ポルタヴァの戦い." Wikipedia, . 31 7月 2006, 01:16 UTC. 5 8月 2006, 12:29 <http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84&oldid=6887310>.