槍と銃剣

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ナポレオン戦術

2012年06月30日 23時35分26秒 | 大北方戦争+軍事史
整理をしていたら、ナポレオン戦術についてのメモ書きを発見した。
ナポレオン戦争はあんまし詳しくないので間違っていたら誰か指摘して欲しいなという願望を込めて掲載します。

内容については記憶が確かなら、mixiの世界軍事史のトビで紹介されていた著:小沢郁郎「世界軍事史」の一節を読んで思いついた。

以下は「世界軍事史」の一節mixiのトビからコピペ。
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 数十回も続くナポレオンの勝利の主因は何か?かれは戦術的天才であった。その作戦は、敵の意表をついて、自軍を予定戦場に敵より多く集中し、砲撃とときに白兵戦によって敵の中央を突破し、退却する敵軍を追撃せん滅するという図式をとった。機動力による兵力集中である。
 一見単純明快なこの戦法をナポレオンの敵はとれなかった。とりたくてもとれない。兵の質が違うのである。フランス軍は革命軍であった。義勇兵にしろ徴兵にせよ、かれらには個々の戦闘の向うに大きな戦争目的があった。夜間や雨中の行軍でも脱走兵が少ない。散兵戦術もやれる。補給の不足を戦わぬ理由とするわけにはゆかぬし、困苦欠乏は、敵地の抑圧されている民衆によってカバーされるであろう。フランス軍は解放軍なのだから。
 一人の指揮官が直接掌握し、戦況に応じて機敏に対応できる師団という単位に軍を編成したことも有効ではあったが、より大きく、絶対主義の王朝軍~傭兵と強制徴募兵には、分かっていて実行できぬのが、ナポレオン戦術だった。王朝軍は敗戦から軍の再建に金と時間がかかる。思い切った作戦は避けねばならない。が、フランス軍の兵員補充ははるかに楽であった。ナポレオンの軍事的「天才」とは、単なる作戦・用兵の巧みさではなく、自己の軍隊将士の敵と異なる特性を把握し、その全エネルギーを有効にすることであった。革命軍にのみ可能な戦術を大胆に採用した点であった。
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まぁ所謂、昔ながらの通説である。出版年も古いし、こんなものだろうという内容だ。で、もし私だったらどう書くかと考えたわけだ。

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 ナポレオンは戦術にのみ優れた軍人ではなかったし、基本的に軍事改革者でもなければ創始者でもなかった。彼は確かに敵の意表をつき、自軍を集中させ、退却する敵に追撃を加えたが、このような行動は、マールバラやオイゲン、その他多くの将軍が規模こそ異なれど実施しており、彼をその創始者と見なすには多くの無理がある。
 また同じくらい彼の強みとして強調される機動力は、革命の所産たる義勇兵や徴集兵によって獲得されたわけではなく、革命により軍の規模が劇的に拡大し、要塞が無力化されたため獲得された。つまり兵の質ではなく数の上昇が機動力増大(要塞無視)の源泉だった。そのため地理的要因から多くの攻城戦を余儀なくされたスペインにおいてナポレオンの部下はひどい目にあった。
 同様にしばしば革命的情熱が賞賛される義勇兵と徴集兵であるが、革命初期の質は酷いもので戦わずに逃げ散ることすらあった。志願兵についても募集は容易ではなく、重要な数も揃わなかった。これが総動員法につながり、恒常的な徴兵制の採用となる。しかしナポレオン時代のフランス徴兵制の実績であるが、初期の頃には高い比率の徴兵逃れと脱走が存在した。ナポレオンは様々な罰則を設けて無理矢理彼らを兵士に仕立てたが、はたしてそのような兵士が革命的情熱を持っていただろうか? おまけに代理人制度や賄賂によって金持ちは常に徴兵から逃れていた。かき集められた貧乏人たちに征服国からの徴発組、それが全盛期のナポレオンの軍の主力であった。
 一般に革命の所産として賞賛されている散兵戦術についても、それは事実ではない。この戦術は1740-1年においてフリードリヒ大王軍をハプスブルク軍のクロアチア・ハンガリー軽歩兵隊が撃退して以来、常に軍人らの注目を浴びる戦術となり、農奴を率いたスヴォーロフも散開戦術の有効性を戦場で証明した。軍制改革を本格的に行う前のプロイセン軍においても散兵戦術は取り入れられている。
 革命軍及びナポレオン軍の補給上の特徴とされる現地調達も、クレヴェルトが指摘するように17-18世紀において普通に実施されていた。むしろクレヴェルトは、ナポレオンの方こそが後方からの持続的な補給を可能にしようとした最初の軍人であったと見なしているほどである。
一部に根強いフランス帝国軍を解放軍と見なす考えもまた、事実を誤認している。これはスペインやドイツにおける反フランスの気運の高まりを見れば明らかである。実際の所、革命時代においても、周囲から大歓迎を受けたという話はイタリアぐらいである。全盛期のナポレオン軍を解放軍として一般的に歓迎したのは、独立を目指すポーランドだけだったのではないだろうか。
 師団編制は1740-8年のオーストリア継承戦争で試されているし、それ以前にも三兵科を保有する常設旅団が編制されたことがある。これらが広まらなかったのは、パーカーによれば「大軍を分散し、移動展開を相互に調整し、再び迅速に集結させるのに必要な道路と地図が、思うように手に入らなかったためである」とのことで、革命よりも政府(革命政府である必要性はない)と測量士の努力が構想を現実に変えたと見るべきだった。
 つまり通説として良く言われる、「絶対主義の王朝軍~傭兵と強制徴募兵には、分かっていて実行できぬのが、ナポレオン戦術だった」という意見は余りに一面的過ぎるのである。もちろん革命以後の「フランス軍の兵員補充ははるかに楽であった」のは事実であるし、それによる兵員数の増加がナポレオン戦争を特色づけ、要塞無視の戦略を取ることをナポレオンに許した。しかし、前述したとおり革命フランスが用いた戦術は、「革命軍にのみ可能な戦術」だったわけではなかった。
 この戦争は、兵員数の大幅増加やそれによって可能になった決戦主義(決戦による勝利を追求しその為には手段を選ばない)の一時的優勢によって説明されるべきなのである。
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こっちの話も別に真新しい話でもない。でもいまだに所謂通説に向こうを張るだけの勢力を獲得していない様な気がする。

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1 コメント

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Unknown ()
2020-04-22 10:44:36
6日間の戦役見れば明白、形容するなら天才と云わざるを得ない
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