槍と銃剣

近世西洋軍事と日々の戯言&宇宙とか色々

テルシオのパイク兵に関する調書を読んだ

2012年11月26日 00時10分39秒 | 大北方戦争+軍事史
テルシオのパイク兵に関する調書を読んだ。
内容は
http://togetter.com/li/412493
を参照して欲しい。

 まず土台から私とは認識が異なった。16世紀において、モンテクッコリ曰く、歩兵の女王は、「槍」である。当時の常識において、銃兵が槍兵の付属物であり、その逆ではない。なので議論の始まりからしておかしい。では何故、女王は槍兵であったのか?

 当時、歩兵に対する最大の敵は騎兵であった。そしてその騎兵を打ち破るために生まれたのが槍兵方陣である。スイス人やフランドル人がこの隊形で騎士軍を打ち破って以後、この槍兵方陣が歩兵陣形のスタンダードとなった。実際、歩兵大隊の50%以上が槍兵であるならば、基本的に槍は多数の騎兵を全く寄せ付けない能力を持った。秩序だった密集隊形を取る2~300名の槍兵隊は、槍を水平に構えて全周を向けば、どんな騎兵隊であろうと、小火器あるいは随伴砲兵による援護無しに打ち破ることは不可能である、と私は考えている。

 小火器の性能はどうであったか? 確かに斉射によって敵の槍兵隊の突撃を破砕する能力はあった。しかし騎兵に対してはなかった。17世紀のグスタヴ・アドルフのスウェーデン軍ですら、野戦においてポーランド軍騎兵隊と正面で戦うことは敗北を意味した。この事実を持って、敵に騎兵隊がある限り、銃剣のない銃兵隊は槍兵隊の支援が不可欠であるということが言える。

 しかも銃兵が敵の槍兵隊の突撃を破砕する能力を持つとしてもそれは限定的でしかない。まずマスケットであるがこれは重すぎて扱いが難である。故に連続射撃向きの兵器ではない。次にアルケビュースであるがその点は問題ない。しかしどっちにしても火縄銃である。これは大問題だった。
 槍と火縄銃の時代、兵士たちは後の7年戦争やそれ以降に比べて広がった隊形を組んでいた。それぞれの縦列の兵士たちは通常、2,3フィート離れていた。そしてそれぞれの横列は一般的に12から13フィート離れていた(下士官のハルバードの長さの2倍)。もし純粋に攻撃や防御と言った問題だけが関係しているならば、兵士たちはより密集しているべきであっただろう。しかし兵士と兵士の距離を保たねばならない大きな問題があった。
 フリントロック銃が普及する以前、それぞれの銃兵は火のついた「火縄」を銃につけていた。グスタヴ・アドルフは30年戦争期に紙薬莢を導入してあらかじめ決められた量の火薬と弾丸を一緒にした。しかしながらこの発明は、すべての欧州諸国陸軍に採用されたわけではなく、その理由は紙薬莢が高価で連隊指揮官たちが供給することが出来なかったからである。その結果、兵士たちにとって、火薬角のなかにだけでなく、革で裏張りされたポケットの中にも火薬の粉を入れて持ち運ぶということをスペイン継承戦争の中盤になるまで行っていた。もし兵士が密集しすぎて互いを押し合ったら、あるいは誰かがミスをしでかしたりしたら、その結果を予想することはあまりに簡単である。
 1680年頃の記録には、極めて頻繁にそのような惨劇が発生したことが記されている。当時、弾薬帯は銃兵の肩に掛けられていた。
「それらが火を発すると、通例、身に帯びているその人は負傷するか死亡させ、近くの仲間までも巻き添えにした。そしてもし一つの弾薬帯に火が移ったら、所属する残りの部隊全員に燃え移るということもありえた」
 17世紀に至り、紙薬莢の採用によって縦列間隔は以前に比べて半分あるいはそれ以下に削減できるようになった。しかしながらフランス軍は縦列間隔を狭めることに抵抗し、スペイン継承戦争の終わりに到るまで、2フィートの距離を保つようにさせた。
 もちろん、これは大隊が敵の50歩以内に接近した時を除く。敵と至近になれば横列間は極めて小さくなり、1~2歩(5フィート)程度となった。しかし、その際に彼らは射撃などできなかったろう。もし敵が至近距離まで近づいた状態で斉射を実施するならば、1分に1発が実効値としての平均射撃速度であった当時の銃兵は、間違いなく近接戦闘に陥った場合、敗北を免れなかった。
 このことは何故、火縄銃の時代に銃剣が発達しなかったのかについての解答ともなっている。事実、イングランド内戦の時代にはすでに熊手の先を外して火縄銃の銃口に差し込むというようなことが行われていた。しかし、火縄銃を使っている限り、密集できない歩兵の白兵戦能力、対騎兵戦能力は、期待できなかったのである。

 しかも上述の通り、突撃破砕を実施するには適切な距離での斉射が不可欠である。しかしこれが難しい。18世紀のイギリス銃兵隊ですら、剣と盾で武装した原始的な高地地方突撃の前に幾度となく敗北を喫している。銃剣があり、燧石式で密集が可能、しかも全員が銃兵で練度も十分な銃兵ですら、断固たる意志を持って突撃する歩兵を阻止することは難しかったのである。このような戦術を16世紀に頼りにすることは余りに自殺行為だと私は考える。

 つまり銃剣もない、密集も出来ない、射撃速度もおそい16世紀の火縄銃兵が、その能力を完全に発揮するためには、正面切っての野戦は相応しくないという結論に至る。銃兵が素晴らしい成果を上げるには野戦陣地あるいは、それに比肩するものが必要だということである。ポーランドにおいてフス派の流れをくむ車陣が盛んに利用されたのも、銃兵隊を敵の騎兵から守るためであった。西欧の解答は、野戦陣地の構築、あるいはその役割を槍兵に担わせることだったのである。

 こう考えれば、テルシオ方陣の全盛期において、銃兵が如何に制約があり、運用が難しいかが分かるだろう。これを主力にするなど狂気の沙汰である。比べて槍兵は守って良し、攻めて良しの主力たり得る存在であった訳である。

 この状況はスイス方陣以来、長らく続いたわけだが、17世紀に至り、マウリッツに代表される教練の普及により火縄銃兵の射撃戦能力が向上して、それに伴い、火力を最大化するために隊形が徐々に横隊化した(砲兵の発達も多少は影響しただろうが、遊兵を減らすことが最大の目的だった)。おまけに当時の西欧の騎兵は、カラコール戦術を行うことも多く、騎士軍の昔ほど、騎兵に突撃能力がなかったことも影響した。しかしここにおいても当初、槍兵は依然として大隊の中央を占め、主力を担った。理由は銃兵の射撃速度に対する不信、運用の難しさ、対騎兵戦能力の不足である。

 しかし、銃兵に対する改革は徐々に進展した。教練の力が大きかっただろう。騎兵の能力が落ちていたことも原因だったろう。そして人間は基本的に、白兵戦などしたくはない。よって1600年頃は1:1であった比率は、17世紀中頃には槍1に対し銃2となり、世紀の終わりまでに1:4となった。ここでようやく歩兵の女王が銃兵となるのである。

 しかし今度は、騎兵が突撃したとき、こうなってしまうと初期のマスケット銃兵隊の試みである、槍兵隊の後ろに隠れる方法や槍を低く構えた槍兵隊の隊列の間に身を置くやり方は、もはや17世紀の初期の頃のようには適切な方式ではなくなっていた。今や、擲弾兵を含めて530名の銃兵隊に対して槍兵隊は120名しかいなかった。これはもし銃兵隊が槍兵隊の隊列の間に身を置くとするならば、平均で言って4から5名の銃兵が2名の槍兵の間に位置することにならざるを得ない。騎兵隊は苦もなく槍を左右に蹴散らして歩兵隊を撃破することが出来ると言うことが言える。しかも5列しかない横隊の槍隊は、その昔の10列やそれ以上であった頃ほどの堅固さをもはや持ち得ていなかった。

 そこで様々な隊形が考案された。例えば最も有効だったのは、5列横隊の内の前後2列を銃兵、3列目を槍兵とした隊形である。この隊形が敵の騎兵隊に攻撃されると、兵士たちは密集し、武器を構える。第三列の槍兵が持つ槍はその長さ14フィートであり、低く構えられたとき、その槍先は第一列を超えてさらに7フィートは突き出されていた。この隊形は槍兵と銃兵の間に相互防御の関係を与えた。士官たちは大隊の前面に位置し、第一列は膝立ちして射撃に備え、大隊指揮官の命令によって敵に向けて射撃した。騎兵からの攻撃に対しては槍によって守られ、銃兵の射撃は非常に正確になったし、槍兵にしても騎兵の攻撃に対抗する際に、迎撃射撃という援護が得られ、自信を持って敵に対処し、臆病風に吹かれる心配も減った。
 しかしやはり運用に問題があった。こんな複雑な隊形をどうして運用できようか? おまけにせっかく火力を向上させてきたのに、後ろ2列は役立たずである。こうして1650年代にはこの戦術はうち捨てられた。

 その結果、この時代、つまりテュレンヌの時代、カラコールから既に脱却を果たし、すでに突撃能力を取り戻していた騎兵は決戦兵種としての役割を奪還することに成功したわけである。もちろん、昔とは違い、銃兵の火力は向上していたから単純に正面から突撃することはなかったが、騎兵戦に勝利すれば、いくらでもやりようがあった。槍兵隊が持続して削減されていくに従い発生する問題を完全に解決する戦術は存在しなかったし、歩兵隊はますます騎兵隊に対して脆弱になっていったのがこの時代である。日本の戦国時代にも、朝鮮戦役において火力戦能力を高めすぎた所為で、明軍騎兵に対して押し込まれる事例が発生している。

 じゃあ槍兵を増やせよ、となるが、今度は対歩兵戦で火力の欠如が問題になる。火力戦への傾向は特にイングランドやドイツで強い。フランスやスウェーデンなどは突撃に信頼性を置いていた。ここで各国の特色が現れてくる訳であるが、それが発展する前に銃剣がようやく普及した。なお、銃剣の普及と燧石式の普及がほぼ同時であったのは、因果関係があるからである。前述のように火縄銃時代には既に銃剣は存在していた。しかし密集できない限り有用性は低かった。しかし燧石式ならば場合は違う。そして有用性が高まれば、改良が加えられる。こうして槍兵が増える前に、銃剣が普及し、槍兵は消滅した。
 それでもスウェーデン軍で槍兵が頑固に残っていたのは、攻撃に用いたときの槍兵の有用性を信じていたからであり、ポーランド騎兵に火力戦指向の横隊戦術が何度も打ち破られてきた経験から来る槍兵の対騎兵防御力への依存が色濃かったからであろう。

 それでも槍は依然として信頼を得ている。サックス元帥は槍の復活を唱えているのだから、愛されているねと感じざるを得ない。