またしても適当な翻訳です。でも結構面白いので紹介。
スウェーデンでカール12世サイトを主催しているオスカー・シューストルム(Oscar Sjöström)が
カール12世の伝記とアレクサンドロス大王の伝記の二つを執筆した
ベングト・リリエングレーン(Bengt Liljengren)にインタビューした内容です。
北方のアレクサンドロスと謳われたカール12世は
自らも意識してアレクサンドロスたらんとした節がありましたが、
そのことについてなど、二人の類似点を主にあげています。
色々と翻訳が間違ってたら教えてください。
というより、スウェーデン語をgoogleで英語に自動翻訳して、
意味が分からないところは原文を適当に読みましたので
正確性はまったくないです。
あと日本語も色々おかしくて読みにくいですけど我慢してください。
http://kungkarl.se/intervju2.htm
******************
Introduction
「Memini me Alexandrum, non mercatorem」と1707年、カール12世は神聖ローマ帝国の外交官との交渉において言ったとされる。この「憶えておいて欲しい。私はアレクサンドロスであって、商人ではない」という言葉は、アレクサンドロス大王への敬意と外交交渉において妥協を拒む彼の姿勢がよく現されている。カール12世の皇帝への要求は、30年戦争期にスウェーデンが要求していて、守られていなかったシレジアのプロテスタントたちへの信仰の自由の保証であった。皇帝はこれを当初拒んでいたが、カール12世はまったく妥協しなかったばかりか、交換条件として皇帝側が提案した領土譲渡提案すら拒否した。
「私はアレクサンドロスである」とはそれ故、スウェーデン王が世界へ発した意志であった。カール12世にとってアレクサンドロス大王は特別な存在であったと思われる。特に全ヨーロッパの注目が、ザクセンに駐留する彼と彼のスウェーデン軍に集まっていた1707年にあってはなおさらであった。彼は当時、戦争においては不敗を誇り、一連のめざましい戦闘と戦役を背後に従え、25才にしてその経歴の高みに達していた。はたして、自らをアレクサンドロスに例えたこの言葉は、単なる冗談の類だったのだろうか、それともカール12世は、本当に自らをアレクサンドロスのような神話的英雄だと考えていたのだろうか。
エリック・サンドステッド(Erik Sandstedt)は、カール朝期歴史学会2000年度年報(Karolinska förbundets årsbok 2000)の投稿論文の中で、カール12世の考え方や人生においてアレクサンドロスは重要な役割を担っていたと主張している。彼はアレクサンドロスの物語に親しんでおり、そして戦場にあっても常にクイントゥス・クルティウスのアレクサンドロス大王伝の写しを手元に持っていたと言われている。スタンステッドは、また、カール12世の人生とアレクサンドロスの人生の類似点をあげ、そしてカール12世は可能なあらゆる方法で、彼の偉大な模範をなぞろうと試みたのではないかと推定している。つまりカール12世にとって、アレクサンドロスが遭遇したのと同じような状況に直面したとき、アレクサンドロスが行ったように自らも振る舞うのは自然なことであったということである。
アレクサンドロス大王とカール12世の関連性については、この二人の偉大な個性について伝記を書いた歴史家ベングト・リリエングレーンの著作Karl XII. En biografi (Historiska Media 2000) と Alexander den store (Historiska Media 2005)によっても見ることが出来る。私はストックホルムの軍事博物館でベングトと会い、そこでこれらの関連について話を聞くことが出来た。
**********カール12世とアレクサンドロス大王(その2)へ
スウェーデンでカール12世サイトを主催しているオスカー・シューストルム(Oscar Sjöström)が
カール12世の伝記とアレクサンドロス大王の伝記の二つを執筆した
ベングト・リリエングレーン(Bengt Liljengren)にインタビューした内容です。
北方のアレクサンドロスと謳われたカール12世は
自らも意識してアレクサンドロスたらんとした節がありましたが、
そのことについてなど、二人の類似点を主にあげています。
色々と翻訳が間違ってたら教えてください。
というより、スウェーデン語をgoogleで英語に自動翻訳して、
意味が分からないところは原文を適当に読みましたので
正確性はまったくないです。
あと日本語も色々おかしくて読みにくいですけど我慢してください。
http://kungkarl.se/intervju2.htm
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Introduction
「Memini me Alexandrum, non mercatorem」と1707年、カール12世は神聖ローマ帝国の外交官との交渉において言ったとされる。この「憶えておいて欲しい。私はアレクサンドロスであって、商人ではない」という言葉は、アレクサンドロス大王への敬意と外交交渉において妥協を拒む彼の姿勢がよく現されている。カール12世の皇帝への要求は、30年戦争期にスウェーデンが要求していて、守られていなかったシレジアのプロテスタントたちへの信仰の自由の保証であった。皇帝はこれを当初拒んでいたが、カール12世はまったく妥協しなかったばかりか、交換条件として皇帝側が提案した領土譲渡提案すら拒否した。
「私はアレクサンドロスである」とはそれ故、スウェーデン王が世界へ発した意志であった。カール12世にとってアレクサンドロス大王は特別な存在であったと思われる。特に全ヨーロッパの注目が、ザクセンに駐留する彼と彼のスウェーデン軍に集まっていた1707年にあってはなおさらであった。彼は当時、戦争においては不敗を誇り、一連のめざましい戦闘と戦役を背後に従え、25才にしてその経歴の高みに達していた。はたして、自らをアレクサンドロスに例えたこの言葉は、単なる冗談の類だったのだろうか、それともカール12世は、本当に自らをアレクサンドロスのような神話的英雄だと考えていたのだろうか。
エリック・サンドステッド(Erik Sandstedt)は、カール朝期歴史学会2000年度年報(Karolinska förbundets årsbok 2000)の投稿論文の中で、カール12世の考え方や人生においてアレクサンドロスは重要な役割を担っていたと主張している。彼はアレクサンドロスの物語に親しんでおり、そして戦場にあっても常にクイントゥス・クルティウスのアレクサンドロス大王伝の写しを手元に持っていたと言われている。スタンステッドは、また、カール12世の人生とアレクサンドロスの人生の類似点をあげ、そしてカール12世は可能なあらゆる方法で、彼の偉大な模範をなぞろうと試みたのではないかと推定している。つまりカール12世にとって、アレクサンドロスが遭遇したのと同じような状況に直面したとき、アレクサンドロスが行ったように自らも振る舞うのは自然なことであったということである。
アレクサンドロス大王とカール12世の関連性については、この二人の偉大な個性について伝記を書いた歴史家ベングト・リリエングレーンの著作Karl XII. En biografi (Historiska Media 2000) と Alexander den store (Historiska Media 2005)によっても見ることが出来る。私はストックホルムの軍事博物館でベングトと会い、そこでこれらの関連について話を聞くことが出来た。
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