ブランドクリッパーレン(Brandklipparen)と呼ばれる馬は、カール十一世と十二世の親子にとって忘れられない馬であり、スウェーデンで最も有名な馬の一頭である。灰色のこの馬の別名はブリリアント(Brillant)と言う。
ブランドクリッパーレンは、1673年フランス王ルイ十四世からカール十一世の即位の記念に送られた馬であったが、その名が初めて史上に刻まれたのは、1676年のルンド会戦になる。この戦いの最中、それまでの乗馬トロッペンを銃弾で失ったカール十一世は、初めてこの馬に騎乗した。その姿は、後に宮廷画家ダヴィド・エーレンシュトラールによって描かれている。
それ以降、ブランドクリッパーレンはカール十一世の愛馬となった。スコーネ戦争の終結までこの馬は王の騎乗馬として使われ、戦争終結後も、カール十一世は頻繁にこの馬に乗ってストックホルムの街やその周辺を周り、特に火事の際に現場に急行する際に利用した(ちなみに当初、ブリリアントと呼ばれていたが、この逸話からブランドクリッパーレンという呼び名が生まれた。日本語に訳すとブランドクリッパーレンは「火戦馬」とでもなる)。ブランドクリッパーレンは、ヘランズホルメンの王室厩舎で手厚く扱われ、王の親友の一人であるグスタヴ・ハルド王室厩舎長官の厳重な管理下に置かれた。
その後、カール十一世の愛馬であったと言う記憶は、王の死後もその息子カール十二世に引き継がれた。そして馬が27才の時、すなわち1700年、カール十二世は、この既に老馬と言っても良い馬を、長い戦陣の供として引き連れることにした。それは、まるで父の代わりのようであり、幼い日に願った父とともに戦場に立ちたいと言う夢を叶えるためかのようであった。
それを証明するかのように、ブランドクリッパーレンは、カール十二世のあらゆる戦役に参加した。1700年のシェラン島フムレベックに始まり、ナルヴァ、ドヴィナ、クリッソ、ポーランドの地を転戦し、トルニ、レンベルグ、グロドノを見て、ザクセンの地アルトランシュテットへ。そして過酷を極めたるロシア遠征に加わり、ホロウツィンと類を見ない寒い冬を経て、あのポルタヴァの激戦を目撃し、ペレヴォロチナではロシア軍の追撃を逃れた。その後、カールのトルコでの亡命生活をもともに過ごし、ベンデリのカラバリクを見て、この馬はついにクリミア・タタール軍の手に落ちる。
しかしカール十二世はブランドクリッパーレンを見捨てなかった。身代金を払い、ブランドクリッパーレンは1716年スウェーデンに返還される。この前年の12月、奇しくもカールもルンドに帰還していた。スウェーデンに帰還したブランドクリッパーレンは、カールの妹ウルリカの計らいにより、兄妹の再会の場に引き合わされ、再びカールをその背に乗せて、ルンドへの帰路に使われたのである。それは、カール十一世の記憶を呼び覚ますかのような、印象的な儀式であった。
ブランドクリッパーレンがその長い人生を終えたのは、1718年のことである。彼は二度のノルウェー遠征を見守り、歴史にその名を最初に刻んだルンドの地で、45年という長い生涯を終えた。そしてその年の冬、後を追うようにカール十二世も世を去るのである。
アレキサンドロスに憧れていたカール十二世は、ブランドクリッパーレンをブケファラスに例えていたのだろうか? しかしともかくも、ブランドクリッパーレンは、カール十一世の記念的勝利からカール十二世の最後の戦役までの、カール朝絶対王政期のスウェーデンの栄光と敗北の全てを見た馬であった。
ブランドクリッパーレンは、1673年フランス王ルイ十四世からカール十一世の即位の記念に送られた馬であったが、その名が初めて史上に刻まれたのは、1676年のルンド会戦になる。この戦いの最中、それまでの乗馬トロッペンを銃弾で失ったカール十一世は、初めてこの馬に騎乗した。その姿は、後に宮廷画家ダヴィド・エーレンシュトラールによって描かれている。
それ以降、ブランドクリッパーレンはカール十一世の愛馬となった。スコーネ戦争の終結までこの馬は王の騎乗馬として使われ、戦争終結後も、カール十一世は頻繁にこの馬に乗ってストックホルムの街やその周辺を周り、特に火事の際に現場に急行する際に利用した(ちなみに当初、ブリリアントと呼ばれていたが、この逸話からブランドクリッパーレンという呼び名が生まれた。日本語に訳すとブランドクリッパーレンは「火戦馬」とでもなる)。ブランドクリッパーレンは、ヘランズホルメンの王室厩舎で手厚く扱われ、王の親友の一人であるグスタヴ・ハルド王室厩舎長官の厳重な管理下に置かれた。
その後、カール十一世の愛馬であったと言う記憶は、王の死後もその息子カール十二世に引き継がれた。そして馬が27才の時、すなわち1700年、カール十二世は、この既に老馬と言っても良い馬を、長い戦陣の供として引き連れることにした。それは、まるで父の代わりのようであり、幼い日に願った父とともに戦場に立ちたいと言う夢を叶えるためかのようであった。
それを証明するかのように、ブランドクリッパーレンは、カール十二世のあらゆる戦役に参加した。1700年のシェラン島フムレベックに始まり、ナルヴァ、ドヴィナ、クリッソ、ポーランドの地を転戦し、トルニ、レンベルグ、グロドノを見て、ザクセンの地アルトランシュテットへ。そして過酷を極めたるロシア遠征に加わり、ホロウツィンと類を見ない寒い冬を経て、あのポルタヴァの激戦を目撃し、ペレヴォロチナではロシア軍の追撃を逃れた。その後、カールのトルコでの亡命生活をもともに過ごし、ベンデリのカラバリクを見て、この馬はついにクリミア・タタール軍の手に落ちる。
しかしカール十二世はブランドクリッパーレンを見捨てなかった。身代金を払い、ブランドクリッパーレンは1716年スウェーデンに返還される。この前年の12月、奇しくもカールもルンドに帰還していた。スウェーデンに帰還したブランドクリッパーレンは、カールの妹ウルリカの計らいにより、兄妹の再会の場に引き合わされ、再びカールをその背に乗せて、ルンドへの帰路に使われたのである。それは、カール十一世の記憶を呼び覚ますかのような、印象的な儀式であった。
ブランドクリッパーレンがその長い人生を終えたのは、1718年のことである。彼は二度のノルウェー遠征を見守り、歴史にその名を最初に刻んだルンドの地で、45年という長い生涯を終えた。そしてその年の冬、後を追うようにカール十二世も世を去るのである。
アレキサンドロスに憧れていたカール十二世は、ブランドクリッパーレンをブケファラスに例えていたのだろうか? しかしともかくも、ブランドクリッパーレンは、カール十一世の記念的勝利からカール十二世の最後の戦役までの、カール朝絶対王政期のスウェーデンの栄光と敗北の全てを見た馬であった。