槍と銃剣

近世西洋軍事と日々の戯言&宇宙とか色々

カール王のブケファラスあるいはスウェーデンの赤兎馬

2006年01月17日 00時23分41秒 | 大北方戦争+軍事史
 ブランドクリッパーレン(Brandklipparen)と呼ばれる馬は、カール十一世と十二世の親子にとって忘れられない馬であり、スウェーデンで最も有名な馬の一頭である。灰色のこの馬の別名はブリリアント(Brillant)と言う。
 ブランドクリッパーレンは、1673年フランス王ルイ十四世からカール十一世の即位の記念に送られた馬であったが、その名が初めて史上に刻まれたのは、1676年のルンド会戦になる。この戦いの最中、それまでの乗馬トロッペンを銃弾で失ったカール十一世は、初めてこの馬に騎乗した。その姿は、後に宮廷画家ダヴィド・エーレンシュトラールによって描かれている。
 それ以降、ブランドクリッパーレンはカール十一世の愛馬となった。スコーネ戦争の終結までこの馬は王の騎乗馬として使われ、戦争終結後も、カール十一世は頻繁にこの馬に乗ってストックホルムの街やその周辺を周り、特に火事の際に現場に急行する際に利用した(ちなみに当初、ブリリアントと呼ばれていたが、この逸話からブランドクリッパーレンという呼び名が生まれた。日本語に訳すとブランドクリッパーレンは「火戦馬」とでもなる)。ブランドクリッパーレンは、ヘランズホルメンの王室厩舎で手厚く扱われ、王の親友の一人であるグスタヴ・ハルド王室厩舎長官の厳重な管理下に置かれた。
 その後、カール十一世の愛馬であったと言う記憶は、王の死後もその息子カール十二世に引き継がれた。そして馬が27才の時、すなわち1700年、カール十二世は、この既に老馬と言っても良い馬を、長い戦陣の供として引き連れることにした。それは、まるで父の代わりのようであり、幼い日に願った父とともに戦場に立ちたいと言う夢を叶えるためかのようであった。
 それを証明するかのように、ブランドクリッパーレンは、カール十二世のあらゆる戦役に参加した。1700年のシェラン島フムレベックに始まり、ナルヴァ、ドヴィナ、クリッソ、ポーランドの地を転戦し、トルニ、レンベルグ、グロドノを見て、ザクセンの地アルトランシュテットへ。そして過酷を極めたるロシア遠征に加わり、ホロウツィンと類を見ない寒い冬を経て、あのポルタヴァの激戦を目撃し、ペレヴォロチナではロシア軍の追撃を逃れた。その後、カールのトルコでの亡命生活をもともに過ごし、ベンデリのカラバリクを見て、この馬はついにクリミア・タタール軍の手に落ちる。
 しかしカール十二世はブランドクリッパーレンを見捨てなかった。身代金を払い、ブランドクリッパーレンは1716年スウェーデンに返還される。この前年の12月、奇しくもカールもルンドに帰還していた。スウェーデンに帰還したブランドクリッパーレンは、カールの妹ウルリカの計らいにより、兄妹の再会の場に引き合わされ、再びカールをその背に乗せて、ルンドへの帰路に使われたのである。それは、カール十一世の記憶を呼び覚ますかのような、印象的な儀式であった。
 ブランドクリッパーレンがその長い人生を終えたのは、1718年のことである。彼は二度のノルウェー遠征を見守り、歴史にその名を最初に刻んだルンドの地で、45年という長い生涯を終えた。そしてその年の冬、後を追うようにカール十二世も世を去るのである。
 アレキサンドロスに憧れていたカール十二世は、ブランドクリッパーレンをブケファラスに例えていたのだろうか? しかしともかくも、ブランドクリッパーレンは、カール十一世の記念的勝利からカール十二世の最後の戦役までの、カール朝絶対王政期のスウェーデンの栄光と敗北の全てを見た馬であった。

新撰組!!

2006年01月04日 00時20分18秒 | 歴史の話
見ました。なんと言いますか……まぁあんなもんでしょうかね。
オイラが大好きな大鳥圭介は相変わらず、馬鹿な描かれ方でした。
だいたい、大鳥が戦好きなんて評価、どうかしてますね。
彼は技術者です! その技術の中にたまたま軍事技術もあっただけなんです。

それに、あんな落ち着きのない奴ではないと思います。
後年の朝鮮半島で見せた行動とか、
負けた負けたと笑って帰ってきて、大将の器があると評されたこととか、
三谷幸喜氏は知らないらしい。
第一、降伏しようと言いだしたのは、榎本ではなく大鳥で、
榎本が切腹しようとして失敗したときに、
死ぬのはいつでも出来る、ここは一つ降伏としゃれ込みましょう。と言ったらしい。
まぁこれは土方の死後の話。
土方が死ぬ前は、まだ降伏の話はあそこまで大きくなってなかったと思うし。

だから、あんな金切り声でわめき散らす大鳥はおかしい。
悔しかったろうけど、それを表に出さず、
明るく常に振る舞っていたというのが真実の大鳥だとおもう。
どうしても土方を光らせようとすると大鳥はあんな感じになってしまうなぁ。

三谷幸喜的には、榎本=近藤、大鳥=山南、って描き方か。
まぁ認識に間違いはないんだけどね。つまり大将、参謀、前線指揮官てな訳。
日本は参謀をあんまり評価しない土壌が、昭和陸軍の暴走の結果、戦後に生まれてしまった。
この辺が、問題なんだよねきっと。

オイラのイメージだと、大鳥と土方の仲もそんなに酷いものではなかったと思う。
なんだかんだと、宇都宮から蝦夷までの戦いをともに戦って、
苦楽をともにしているわけだし。
常に大将は大鳥だったわけだし。嫌だったら、普通、別行動とるでしょ。
別段、一緒にいろって命令が下りてきていたわけでもないんだし。
もし嫌だったとしても、大鳥が軍をとりまとめないと、
みんなバラバラになってしまうからで、
それはつまり、大鳥の器がでかかったってことでしょう。土方よりも。
結局、土方は現場指揮官の器。大鳥は参謀や指揮官の器だったわけ。

でもやっぱり、大鳥は技術者として描いて欲しいなぁ。
結局、技術者ってのは武士じゃないわけで、その辺が嫌われるところなのは間違いない。
土方とも、そこのところは対立していただろうね。
命あっての物種という大鳥の考え方、
戦後、明治新政府に奉職する大鳥の姿、
実に技術者らしい。

蝦夷地の開拓やら、工部大学校の学長。
仕える相手が誰だろうと、作りたいモノが作れる環境を求めるのが技術者。

きっと、蝦夷共和国に加わろうと思ったのも、
蝦夷でやりたいことがやれると思ったからだろう。
で、それが無理なら、新政府でも問題ない。
そりゃ、降伏しますよ。端から見ているものが違う。
武士道も良いけど、夢を達成するには武士道はいかんわけです。

でもドラマの大鳥は武士だった。だから、あんな変なキャラになる。
こまったものだ。

独り言

2006年01月02日 21時35分10秒 | 戯言
いつの間にやら年を越していた。
ので思いついたことをつらつらと。

はやぶさは元気だろうか?
はやぶさは探査機と呼ばれているけど、実際は工学実証衛星だったはず。
そこの所を誤解している人がいる。
去年の日本の宇宙開発は素晴らしかったのだが、
やっぱり一般の人には、失敗と認識されているのだろうか?
イオンエンジンの長期間運用。運用チームの素晴らしい能力。
そして小惑星イトカワで離着陸することが出来たということが、
どれほど凄いのかと言うこと。
これらはどれほど理解されてるのだろうか?

いつか理解してくれるはず、分かる人には分かる、
と言うのが、今までの日本の宇宙開発、
のみならず新技術に対する挑戦者たちの心境だったと思う。
でも、言わねば分からないことの方が世の中多い。
はやぶさは、従来以上に、凄いんだ、新技術の実証に成功したのだ、
と言うことが広報された。
やっと意識が変わってきたのだろう。

この辺、日本人の意識は全体的に変わりつつあるのだろうね。
去年は物申す人たちが世間を騒がせた一年だったし。
でも、良いことばかりでもない。
新技術の広報も、行き過ぎれば、お隣の国の論文偽造につながってしまう。
やっぱり程ほどが一番。

その辺りに気をつけながら、胸を張って誇れる技術者になりたいなぁ。

でもおみくじは吉。辛抱して待て。後々好転する。だってさ。
どうやら、修士論文やら社会人新人研修やらには
辛いことが待っているようだ。不安だ……。
友達百人とは言わないが、似たような思考回路の奴がいると良いなぁ。

でもカール12世知ってる奴はいないだろうなぁ。賭けても良い。
文系でも知ってる奴がいるのか怪しいのに、オイラの周りは絶対理系だからなぁ。
歴史好きをまず探すかねぇ。