新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

隅田川㉙ 吉田松陰らの眠る旧小塚原刑場に、「解体新書」誕生の秘密があった。

2018-04-07 | 東京探訪・隅田川の橋
 千住汐入大橋でいったん散策を中断して、後日改めて千住大橋を目指して地下鉄日比谷線に乗り、南千住で降りた。

 この駅のすぐ南側は江戸時代小塚原(こづかっぱら)刑場のあった場所だ。刑場は罪人を処刑するところ。南の鈴ヶ森刑場(現品川区南大井)、西の大和田刑場(現八王子市大和田町)と並んで江戸の三大刑場だった。

 同刑場は間口108m、奥行54mの広さ。磔刑、火刑などの刑が執行され、池波正太郎の「鬼平犯科帳」でもしばしばこの刑場の話が登場する。

 その場所に小塚原回向院が建立されたのは1667年。処刑された遺体を供養する寺としての役割を担った。刑場が明治に廃止されるまで、約20万人の遺体がこの区域に葬られた。

 それにしても回向院はコンクリートの近代的な建物で、敷地もそんなに広くない。「ん?」と思ったら、本来の敷地はすぐ横を通るJRの線路をまたいで反対側にも広がっているという。そちらには延命寺という寺がもう1つ建てられているのだ。
 つまり、20万人の遺体が埋まった土地の上を、今日は絶え間なく電車が通り抜けているということになる。

 著名人の墓もあった。吉田松陰。安政の大獄で逮捕され、1859年、伝馬町の牢屋敷で処刑された後ここに移され葬られた。

 同様に橋本佐内の墓もあった。

 そのすぐ近くに、鼠小僧治郎吉の墓も。源達信士とあるが、これが鼠小僧のこと。彼の墓は両国の回向院にもあった。それとは別に彼から恩恵を受けたとされる人たちがこちらにも建てたという。

 1つおいて、高橋お伝。毒婦と呼ばれた伝説の女性。

 さらに隣にはげんこつの墓。喧嘩で深手を負った腕が見苦しいと、子分にのこぎりで斬り落とさせたという侠客「腕の喜三郎」の墓だ。

 義賊、毒婦、侠客。何ともバラエティに富んだ墓の列だ。

 回向院にはもう1つ歴史に残る史実がある。本の絵扉をかたどった浮き彫り板があった。「解体新書」の扉絵だ。
 実は1771年、杉田玄白と前野良沢は「ターヘルアナトミア」の原稿を入手したものの、実際の人体がどうなっているのかは、当時わからなかった。

 それでここ小塚原刑場で女囚の人体解剖が行われた。史実に残る我が国初の人体解剖だ。その場に立ち会った杉田玄白は「ターヘルアナトミア」の内容の正確さに驚くとともに、翻訳出版へ踏み切る強い動機となった。

 両国の回向院が明暦の大火の犠牲者を供養するために建てられたのと同様に、ここの回向院も大多数は無名の庶民たちの供養の場となった。

 また、昭和の事件史に残る吉展ちゃん誘拐事件の犠牲者、吉展地蔵尊があった。この事件までは誘拐事件の報道は無制限に行われていたが、これによって人命最優先の原則から、誘拐された被害者の安否が不明の段階では報道を控えるという報道協定が結ばれるようになった。


 

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