タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

島原の隠れ切支丹展を観てきました、その4

2015-11-20 08:27:32 | カメラ
島原の隠れ切支丹展を観てきました
江戸時代潜伏していたキリシタンたちは、200年以上もの間司祭などの指導を受けることなく自分たちだけで信仰を伝えていったため、長い年月の中でキリスト教の教義などの信仰理解が失われていき、仏教や神道、民俗信仰などとも結びついたり、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や、殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象とするもの[4]に変化していった。このため、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、これを受け入れず[5]、今なお独自の信仰様式を継承している人たちが、長崎県の一部地域に現在でも存在する。















島原の隠れ切支丹展 島原城で展示、

2015-11-19 08:38:40 | パタヤの水上マーケットその1
日本では、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して以降、キリスト教の布教がおこなわれて次第に改宗する者(キリシタン)が増えていったが、1614年に徳川家康による禁教令によってキリスト教信仰は禁止され、さらに1637年に起きた島原の乱の前後からは幕府による徹底したキリスト教禁止、キリシタン取り締まりが行われた。こうして、当時のカトリック信徒(キリシタン)やその子孫は、表向きは仏教徒として振る舞うことを余儀なくされ、また1644年以降は国内にカトリックの司祭が一人もいない状況ながらも、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「潜伏キリシタン」と呼ぶ[1][2]。彼らは、ごく小さな集落単位で秘密組織を作ってひそかに祈祷文「オラショ」を唱えて祈りを続け、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれる)、聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けるなどして信仰を守りつづけた(これらの信仰の形式は地方によって異なる[3])。当初は国内のあちこちに広く潜伏していたと思われるが、多くの土地ではすぐに途絶えていったとみられる。しかし、長崎県をはじめ熊本県の天草など九州の一部では、キリスト教伝来当時から継続的に宣教師の指導を受けて信仰が広く浸透していたこともあって、幕末まで多くの信仰組織が存続していた。














島原城の隠れ切支丹展を観てきました、

2015-11-18 09:26:09 | パタヤの水上マーケットその1
隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、日本の江戸時代に江戸幕府による禁教令の後、

強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教(カトリック)を偽装棄教したキリスト教信者(潜伏キリシタン)。
1873年(明治6年)に禁教令が解かれて潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリック教会に戻らない信仰者の群(カクレキリシタン)。
上記両者を特に区別せず指す俗称である。




















千本木展望所

2015-11-17 08:01:50 | パタヤの水上マーケットその1
島原市千本木地区は、平成5年6月23日、24日の2日間にわたって断続的に発生した火砕流と、それに伴う熱風(火災サージ)によって、壊滅的な被害を受けました。現在、この地区は土石流の発生を軽減するための砂防工事が行われていますが、一部地域には、火砕流に伴う堆積物がそのまま保存されています


















島原市 板倉重昌の墓

2015-11-16 08:27:23 | パタヤの水上マーケットその1
天正16年(1588年)、徳川氏の家臣・板倉勝重の次男として駿河駿府にて誕生。

慶長10年(1605年)4月10日、主君・徳川家康の参内に伺候し従五位下内膳正(ないぜんのかみ)に叙任された[1]。松平正綱・秋元泰朝とともに徳川家康の近習出頭人と呼ばれた。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、豊臣方との交渉の任にあたった。

寛永14年(1637年)11月、島原の乱鎮圧の上使となった。嫡子の重矩を伴い、副使の石谷貞清と出陣。動員された西国の諸侯を率いる命を受け下向するが、九州の諸侯は小禄[2]の重昌の指揮に従わず[3]、小身の重昌では統制が取れないことや一揆勢の勢いの強いこと、長期化した際に幕府の権威が揺らぐことや海外からの勢力の参加の恐れなどを鑑みた幕府は老中・松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援も決定した。

重昌は功を奪われることに焦慮を覚えたとされる。翌寛永15年(1638年)1月1日に総攻撃を命じるが、やはり諸軍の連携を失い4000人とも伝わる大損害を出す。重昌自身は板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢の鉄砲の名手・三会村金作が放った銃弾の直撃を受け、戦死した。享年51。墓所は島原市の江東寺。辞世は、「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」とされるが「咲く花の」とする説もある。

残された嫡子の重矩は、元の副使石谷貞清と共に原城陥落の際、抜け駆けを行った佐賀藩に遅れじと突入を行った。この際、一騎打ちで敵将・有家監物を討ち取る功をあげているが、佐賀藩との抜け駆けと当初の敗戦の軍律違反により、一年ほど謹慎処分を受ける。しかしその後は老中や京都所司代を務め、5万石にまで加増する。重昌の子孫はその後、下野烏山藩、武蔵岩槻藩、信濃坂木藩、陸奥福島藩と転封され明治まで続いた。












島原市の水源 湧き水

2015-11-15 08:47:12 | 無農薬野菜作り
島原は古来「水の都」とよばれる観光地で、市内各地に自噴の湧水(ゆうすい)があり、とくに1792年(寛政4)の島原地変によって生じた白土ノ湖(しらちのいけ)は自噴泉で上水道の水源をなし、杉山の湧水も豊富で、旧藩時代には城下町の水路と水田とに引水され、水奉行(ぶぎょう)が置かれた。鉄砲町(下ノ丁(したのちょう))では、水路を巡らした士族屋敷の原型が保存されている。観光地は、島原城跡や、旧島原藩薬園跡(国指定史跡)のほか、島原地変によって大崩壊をおこした眉山の奇景、その崩壊の土石流によって生じた秩父ヶ浦(ちちぶがうら)や九十九島(つくもじま)の景勝地がある。地変直前に流出した焼山(やけやま)溶岩流の末端は焼山を生じ、その付近にはキャンプ場、クレー射撃場の施設がある。










島原 普賢岳が見えてきた

2015-11-14 14:29:11 | パタヤビーチ
雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県の島原半島中央部にある火山で千々石カルデラの外輪に位置する。広義では普賢岳、国見岳、妙見岳の三峰、野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、絹笠山の五岳からなる山体の総称。「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。行政区分では島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。狭義ではいわゆる「三峰五岳」のうちの「三峰」を指すこともある。












熊本から島原に移動する

2015-11-13 08:28:16 | 無農薬野菜作り
九商フェリーは「島原~熊本」を航路運航するフェリー会社です。雲仙普賢岳が見下ろす 歴史色豊かな島原と阿蘇の雄大な自然や熊本城、水前寺公園といった観光名所として 全国に名高い熊本への60分ののんびりとした船旅が楽しめる航路です。









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熊本城に行きました、

2015-11-12 08:02:41 | パタヤの水上マーケットその1
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。

中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある[1]。

細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和時代中期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。

サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。
















鉄砲狭間

2015-11-11 22:48:38 | パタヤビーチ
銃眼(鉄砲狭間)

 敵が攻めてきた場合、中から鉄砲を撃つための装置です。矢を射るための矢狭間は形が少し異なりますが、同じ目的です。
 熊本城では長方形を主としていたようですが、他の城郭では円形や三角形のものなどいろいろな形のものがあります。
武者走り

 戦闘時には、おし寄せる敵に対して素早く対応するために、原則として櫓の城外側には必ず廊下が設けられます。このような廊下のことを武者走りといいます。