[WWF]へーげる奥田の空談言説

サークル「WWF」主宰・へーげる奥田が適当に告知したり興味の対象について論じたりするウェブログである。

東京を歩きながら押井作品について考える(下)

2008-10-26 11:43:19 | Weblog
 どうして私たちは東京の地名をそんなふうにしか知らないのだろう?
 それを考えるのは後回しにしよう。もう一つ、築地を通り抜けて隅田川の岸辺に立って気がついたのは、押井作品の東京には具体的な地名がほとんど出てこないということだ。
 具体的な場所が描かれていないわけではない。逆で、劇場版『パトレイバー』シリーズに関するかぎり、緻密なロケハンを経て描かれているだけあって、「東京風だけれどもじつはどこにも実在しない場所」というのはあまりないのではないだろうか。『パトレイバー2』では、東京駅、渋谷駅前、西武線の踏切などが具体的に細かく描かれていた(現実の二〇〇二年にはもう見ることのできなくなっていた景観も含まれているのだけど)。また、押井守自身やスタッフが設定を明かしているばあいもあるし、映像を見れば場所が特定できるところもある。南雲しのぶの家は世田谷区の成城だという話を聞いたこともある。ほんとうにそういう設定かどうかは知らないけれど、起伏があって一戸建ての住宅が多い地区となると、世田谷区か目黒区あたりの高級住宅地だろう。東京をよく知り抜いている人ならば、『パトレイバー1』や『2』に出てくる場所をもっと多く特定できるだろうと思う。
 けれども、『パトレイバー2』で具体的な地名が出てくるのは、ほんのちょっとだけ駅名標が映る場面などを除くと、飛行船が墜落する新宿と、埋め立て地に突入する結節点になっている新橋ぐらいではないだろうか。篠原重工の工場がある八王子は、地名としては出てくるが、篠原の工場以外の場所は描かれない。
 押井守作品の東京は、詳細な具体性をもって描かれながら、そこがどこかということに明確に言及されることのない場所―そういう場所の集積体なのだ。



東京駅近くの常盤橋



首都高の橋脚で目立たなくなっているが、なかなか端整な橋である。江戸時代にはここには常盤橋門という門があったそうで、上はその遺構である。常盤橋門から江戸城までのあいだに、いま東京駅が割りこんでいるわけだ。



その常盤橋近くに建つ渋沢栄一の銅像。渋沢栄一は東京開発に熱意を燃やした人で、藤森照信さんにたしか「東京を私造したかった人の伝」という伝記があったと思う。



 私たちは東京の地名をいくつも知っている。東京から遠いところに住んでいて、東京を一度も訪れたことのない人でも―かつて私もそうだった―、渋谷、新宿、池袋、上野、浅草、秋葉原、有明ぐらいは知っているだろう(いや、まあ、秋葉原と有明は知っている人は限られるかも知れないけど)。しかし、そうやって名まえだけを知っている東京の土地がじっさいにどういう位置関係に並んでいるかは、あんがい知らない。東京に十年や二十年住んでいる人でも、名まえだけはよく知っている東京の土地がじっさいにどこにあるのかをそれほどは熟知していないのではないか(例題。地図を見ないで牛込と馬込と駒込の位置関係を説明してみましょう)。「ポストモダン」思想用語を使えば、東京は、地名という「シニフィアン」(指し示すもの)と、その土地がどこにあって他の土地とどういう位置関係にあるのかという「シニフィエ」(指し示されるもの)がなかなか一致しない都市なのかも知れない。
 そうなった理由というのは、しかし、わりと容易に考えつく。
 まず、東京は日本の他の都市と較べて格段に広いということがある。山手線の一周が三五キロ程度、それに対して、同じように大阪市の中心部をめぐっている大阪環状線が二一キロだ。しかも山手線の東側にも広く江戸時代以来の街区は広がっている。都営地下鉄大江戸線の環状部分が二八キロほどだが、大江戸線は池袋など山手線の北半分をカバーしていない。
 そういう広い都市なので、通勤・通学で東京を移動している人でも、その人が動いているのはその東京の一部分に過ぎないことが多い。渋谷や新宿を乗換駅にしている人は上野のほうにはなかなか行く機会がないかも知れない。もしかすると、新宿から山手線で一〇分以内で行ける池袋にもめったに行かないかも知れない。しかも、渋谷、新宿、池袋などは、その街だけで何でも揃う街なので、他の街に行く必要がない。それも通勤・通学で東京を移動する人たちの動く範囲を限定してしまっているかも知れない。



日本橋川と神田川の合流点。『パトレイバー2』で、しのぶは柘植の部下にこのあたりまで連れて行かれたものと思われる。



ジェイアール御茶ノ水駅、遠くに日本一の「萌え」街秋葉原が見える。ちなみに聖橋のすぐ近くにこの本の印刷所である日光企画お茶の水店がある。いつもお世話になっています。



六本木ヒルズから見た新宿。




 また、東京は城下町だったこともあって、道が込み入っている。道どうしが直角に交わっていないところもたくさんある。
 近代都市も、京都や大阪のような古代都市も、街は「碁盤の目」状に作られている。京都ならば、三条通とか四条通とかの東西の道は必ず東西に走っているし、烏丸通りのような南北の道は必ず南北に走っている。ところが東京は必ずしもそうはなっていない。東京の道は、同じ名まえの道が東を向いたり北を向いたり南を向いたりする。浅い角度で分岐したはずの道がいつの間にかまったく違う方向に向かっていることもある。自動車で移動するばあいには、さらに一方通行規制がかかるので、迂回しなければならなくなり、それが土地勘を狂わせる。だから東京では方角や距離がつかみにくいのだ。
 さらに、東京の地名は日常的に全国に向けて多く語られている。ニュース番組でも娯楽番組でも、東京で起こったことは「六本木」とか「神楽坂」とかいう地名つきで流されることが多い。明治時代の文学作品から時代小説、現代の小説やエッセイまで、東京の地名は数多く出てくる。自分自身がかかわりを持つことなどまずないであろう土地の名に、ニュースや文学作品を媒介にして、私たちは頻繁に接している。でも、そういう接しかたでは、六本木の南が麻布に、北が赤坂に、北西が青山につながっているということはなかなかわからない。
 東京の地名を知る機会は多いが、じっさいに訪れて実地にその土地を知る機会は少ない。道が入り組んでいるので場所どうしの関係もつかみにくい。それが、東京について「名のみ語られて実体の定かでない土地」を増やすきっかけになっている。名まえは知っていてもそれがどうつながっているかわからないダンジョンのような都市なのだ。
 押井守は都市としての東京のそのダンジョン的性格を作品づくりに利用している。








文京区茗荷谷の庚申坂。『紅い眼鏡』で紅一が上る坂である。前に見えるのは東京地下鉄の茗荷谷の操車場だ。紅一が見上げるとこの坂の上に少女の巨大な看板が見えるのだが、実際にはこの坂の上には中学校がある(上の写真の奥のほうに見えている)。なお、撮影日記にある「キリシタン坂」というのは正確には線路をはさんで反対側の坂の名まえである。




 押井守は、『パトレイバー』シリーズや『紅い眼鏡』で、東京に住む人や東京によく来る人ならば見慣れているはずなのに、どこだか思い出せない景観を多用した。それをつなぎ合わせることで、「見慣れているはずなのにどこだかわからない街」を映像として作り上げたのだ。
 『紅い眼鏡』では、押井守は、東京のいろいろな土地の景観をひと続きにつなげることで、魔都的な異様な空間を演出している。たとえば、紅一が「紅い少女」の大きな看板を見上げるのは、地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅近くの庚申坂、「紅い少女」に出会ってそのあとを追いかけるのは中央線三鷹駅の操車場の陸橋である(そのほかに、映画館は山形県上山市、ホテルは横浜、空港の一部は新百合ヶ丘など、東京以外の都市も使っているが)。この二つの場所は電車で一時間近く離れているし、続いて出てくる新百合ヶ丘の新興住宅地もかなり離れている。遠く離れた場所をひと続きの場所として見せること自体は、映画やドラマではよく行われる方法だ。ただ、『紅い眼鏡』では、そういう都市の景観を、セリフのないままに連続してつなげて観せることで、「よく知っているはずなのによそよそしい街」、「三年ぶりに帰ってきた者が入りこむことのできない街」の感覚を演出している。
 また、『パトレイバー』シリーズでは、水路を使うことで、ふだん見ている東京とは違う見知らぬ場所の感じを演出している。水路沿いの風景は、東京に住んでいれば、橋を渡るときなどにちらっと見かけはするが、たぶんすぐに忘れてしまう。そのすぐに忘れてしまう風景を中心に据える。『パトレイバー2』の決起前夜のしのぶの道行きの場面では、水路からの風景だけを見せ、私たちがふだんから見慣れている都市の風景は見せていない。しのぶが連れて行かれた水路が日本橋川だとすれば、兜町証券街のすぐ裏を通り、三越の下を通り、東京駅と神田駅のあいだを抜け、おそらく後楽園近くまで行っているのだけれど、そういう都市の景観はまったく描かれていない。それによって、押井守は「他人の街」としての東京を描き出したのだ。
 押井守が描く東京は、親しみを感じるが入りこむことのできない都市、自分の街のように思っているけれどもじつは自分の居場所のない都市のように思える。それを支えているのが、場所の固有名を出さず、多くの人が見ている視点以外から、しかし多くの人の目に接しているはずの東京を描くという方法だった。
 その方法が、『攻殻機動隊』・『イノセンス』・『Avalon』のような実在しない都市の描写や、『Stray Dog』(『ケルベロス地獄の番犬』)の台湾の描写にどう引き継がれているのかは、これから考えてみたいと思う。
 ともかく、道に迷ったことから始まった、東京を歩きながら押井作品を考える旅で考えたのはこんなことだった。




紅一が少女を見かけ、追いかける三鷹の陸橋。私が行ったときには、ご近所のお子さまたちが親御さんといっしょに電車を見ていた。私も、子どものころ、最寄り駅の陸橋に連れて行ってもらい、汽車(蒸気機関車)を飽きずに眺めていた思い出がある(そういう時代だったのだ)。それにしてもこうやって見ているとどうしてジェイアールの電車はたくさん来るんだろう? 駅で待っていてもちっとも来ないのに。左は三鷹駅。いわゆる「M駅」である。この本には関係ないけど。それでは、ごきげんよう!


(終)

東京を歩きながら押井作品について考える(上)

2008-10-26 11:41:28 | Weblog
清瀬 六朗

中央大橋の橋脚を見上げる。




日本橋の「道路元標」(複製)。




勝鬨橋。船が通り抜けられるように中央部が跳ね橋形式になっている。今日では船が通ることはないだろうけど。その跳ね橋部分が高くなっているのもわかる。




 まだ梅雨が明けていない七月某日、私は勝鬨橋のたもとにいた。川の両側がアーチ式で、まん中が跳ね橋式になっている橋だ。
 銀座から東京駅方面に歩いていたはずだったのに、九〇度違う方向に歩いていたらしい。あいかわらずの迷い癖で、困ったものだ。
 そのとき、まだ今回の「押井学会」の原稿を書いていなかった私は、この偶発事件をきっかけに、「東京を歩きながら押井作品について考える」という企画を考えついた。以下は、そのときに考えたことの記録である。

 勝鬨橋まで行く途中で、築地の中央卸売市場の建物が昔ながらの町並みの向こうに見えたとき、たしかに道をまちがったような予感はしていたのだ。
 ふと緑に変色した銅板で覆われた店舗に出会い、私は思い出した。
 このというと、以前は「看板建築」で有名な一帯だった。有名な看板建築で「築地のナンデモヤ」というのがあったと思う。
 「看板建築」というのは、普通の店舗の二階の屋根を屋根裏部屋にして、前面を銅板などで覆って装飾を施し、建物全体が看板のように見えるようにした店舗建築だ。関東大震災後の東京復興のときに多く作られたという。できたころは銅板があかがね色に映えて面映ゆい家だったのだろう。でも、いまではその銅板の全面に緑青がふいて、地味な、けれどもまわりの家とはやはり違う、独特の味のある家になっている。よく見るとかつては銅板の上に輝いていたであろう装飾がそのまま緑青の色に埋没して残っている。


佃大橋



中央大橋



永代橋






 そういう店舗建築を、建築史家・建築家の藤森照信さんが「看板建築」と名づけた。私は、imaginary press incの登坂正男さんが劇場版『機動警察パトレイバー』(一作め)の評論で採り上げていたことでその存在を知った。押井守の生家がじつは看板建築だったのではないかという話も登坂さんの本に出てくる。
 その劇場版『パトレイバー1』(第一作には「1」という番号はついていない)で、シゲさん(シバシゲオ)が下宿していたのがたぶんこの一帯だ。謹慎中の遊馬といっしょにHOSに仕組まれたウィルスの引き金を探っているあの部屋である。
 特車二課は埋め立て地にあるという設定だった。そこへの通勤を考えれば、海に近いこのあたりに住むのが理にかなっていたのだろう。もっとも、シゲさんの仕事や気質を考えればどれだけ下宿に帰れたのかはわからないけれど。ときどき不定期に下宿に帰ってはいろいろとぼやきながらPCを操作し、すぐに二課に戻ったのではないかと想像する。
 現在でもこの築地の一帯に看板建築はいくつか残っている。八丁堀の近くでも見かけた。
 現在、東京の建物は「都心回帰」の流れや規制緩和のおかげで盛んに建て替えられつつある。バブルのころと較べてどうかはわからないけれど、東京の景観はいま大きく変わっているところなのだ。その象徴が、押井守がオープン記念映像の製作にかかわり、いまでも毎年の二月二六日イベントの会場になっている六本木ヒルズだろう。


六本木ヒルズ森タワー。すぐ下から見上げるとほんとうにバベルの塔のような感じがする。六本木ヒルズのオープニングイベントでは、押井監督の『TOKYO SCANNER』と、野田真外監督の『東京静脈』が上映された。また、このビル内の「アカデミーヒルズ」では、毎年2月、押井監督と軍事評論家の岡部いさくさんを招いて「PAX JAPONICAプロジェクト」のイベントが開かれる。2005年度には、映画『ローレライ』の公開をひかえていた樋口真嗣監督もゲスト参加した(後半のみ)。



アカデミーヒルズから東京タワー越しに隅田川下流方面を見た風景。2005年のPAX JAPONICA Projectイベント時に撮影した。ガラス越しの撮影のため、よく見るとイベント会場の内装が反射して映っている。





 それを考えれば、一九九〇年代まではもっとたくさんの看板建築がこの地区には残っていたのだろうと思う。
 この通りをさらに東南に向かって歩くと隅田川に出る。勝鬨橋のすぐ近くの公園だ。振り向いて見上げれば聖路加病院の高いタワーが並んでそびえ立っている。
 隅田川ではこの勝鬨橋が最下流にかかる橋で、その上が佃大橋である。その上流で吊り橋式の中央大橋を過ぎたところで晴海運河と合流し、その上が永代橋だ。
 劇場版『機動警察パトレイバー2』で柘植の決起部隊が武装ヘリで爆撃して壊していったのが、この隅田川にかかる橋だった。
 同じ『パトレイバー2』で、その柘植に決起前夜に呼び出された南雲しのぶは、東京湾岸か隅田川の河岸まで自動車で行き、そこから柘植の部下の船でおそらく日本橋川をさかのぼっている。日本橋川は日本橋の下を流れている川だ。永代橋のすぐ上流で隅田川から分かれる―というのは下流からさかのぼった言いかたで、上流のほうから説明すれば、永代橋のすぐ上流で隅田川に合流する。
 六本木ヒルズで公開された野田真外さんの『東京静脈』(押井守監修)でもこの川をさかのぼっている。しのぶが連れて行かれたのは東京湾岸のほかの運河ではないかという感じもするのだが、道行きの長さから考えるやはりこの川だろう。それに、この川だと考えれば、柘植の決起部隊がにわざわざ日本橋を爆撃して破壊する意味も生きてくる―いや、べつに意味が生きなくてもいいんだけど。ただ、この映画での東京攻撃の場面のうち、ほぼこの日本橋の爆破の場面だけ、破壊される前の橋と照準をつけるヘリのパイロット(武装ヘリってパイロットと狙撃手は別?)を描いてから橋の破壊を描くという描写のされ方をしていることには注意したほうがいいだろう。


柘植の決起部隊の武装ヘリはミサイルでこの日本橋を落としているが、実際には、この高速道路の狭いすき間からミサイルを撃ち込み、しかも麒麟像の左右に一発ずつ命中させないといけないので、実行するのはかなり困難だと思う。




日本橋中央の麒麟像。この翼のある龍のような動物が本来の「麒麟」なのだろう。ちなみに「幻の空爆」に出てきた「ワイバーン」も翼龍のことだったはずだ。柘植部隊は、この「幻の空爆」の際の「ワイバーンを殺せ」という命令をここで実行したわけだ。ちなみに橋の両側は獅子像である。



 こういうことを考えてみて、気がついたことが二つある。
 一つは、私たちは東京の地名をバラバラに知っているけれども、その互いの位置関係をよく知らないということだ。
 『パトレイバー1』のシゲさんの下宿のすぐ先に隅田川が流れていて、『パトレイバー2』で柘植の決起部隊が攻撃したあたりと隣り合っていたということは、私はこの日まで―銀座から歩いて勝鬨橋まで行ってしまった日まで気がつかなかった。
 たしかにあとで地図を確かめてみれば知識としては昔から知っていたことではあるのだ(ちなみに勝鬨橋を渡ってさらに進むと、昔コミケをやっていた晴海の国際展示場の跡地に着く。もっとも、いまコミケに参加する人のどれだけが晴海を知っているだろう? ビッグサイトに移ってもうすぐ一〇年だからな……)。しかし、築地と隅田川の近さというのは、その場に住んででもいないかぎり、なかなか気づくことはない。だいいち、私にとっては、隅田川とは両国や浅草のあたりを流れている川であって、銀座や築地のあたりを流れているのはどうも「場違い」な気がするのだ。しかし、もしかすると、築地や勝鬨で育った人は、まったく逆に感じるのかも知れない。
 私たちは東京の地名を―もっというと東京の土地を―せいぜい鉄道の駅名の並びでしか知らない。川の流れもその鉄道の車窓から見た順番で覚えている。だから、たとえば、たまに北区のほうに行き、荒川と隅田川がすぐ近くを寄り添って流れているのに出会うと、「え? 何で?」などと違和感を感じるのだ。もちろん、これも北区に住んでいる人にとってはあたりまえのことなのだろうけど。



下流側から見た日本橋。日本橋川の上には、箱崎から上流にはずっと首都高の道路が走っている。



日本橋川と隅田川の合流点附近。艀船が繋留してある。この川がいまも「静脈」として生きていることがわかる。



押井作品のことを考えながら歩いていると頭の上から鈍い轟音が……顔を上げるとなんと飛行船だった。飛行船はあんがい気づきにくいし、のんびりしている外見からするとけっこう速い。「Ultima Ratio」とか書いてないかなと思ったが、残念ながら(?)「Yokoso JAPAN! 愛・地球博」だそうで。そういえば愛知万博もそろそろ見に行かないとな……。


(下につづく)