名のもとに生きて

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ロシア大公家系の末路/ニコラエヴィチ

2016-08-11 21:31:18 | 人物
『黒い家族』とささやかれ
ロマノフの皇族たちから疎まれた
ニコラエヴィチ家


アレクサンドル3世とロマノフの血縁者たち

ニコライ1世の男系子孫である4分家を、引き続き紹介します。
ニコライ1世の子女
❶アレクサンドル2世 1818〜1881
②マリア 1819〜1876
③オルガ 1822〜1892
④アレクサンドラ 1825〜1844
❺コンスタンチン 1827〜1892
❻ニコライ 1831〜1891
❽ミハイル 1832〜1909


ニコラエヴィチは帝政崩壊までに大公は3人。
革命時に存命中の2人は亡命して生き延びた。
処刑された者はいない。



〈第1世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1831〜1891





同じ名前と父名を持つ息子と区別する目的で、年長を意味するстарший(スタールシー)を付けて呼ばれることもある。
ニコライ1世の第6子、三男。

陸軍でキャリアを積む。兄の後ろ盾で高いポストに付けられていたが、軍を指揮する能力に乏しく、失敗が多かったため、露土戦争後には非難された。
軍隊生活を好む一方、身辺はだらしなく、女好き、狩猟好き、公金横領で信用を落としていった。

オルデンブルク公の娘アレクサンドラ・ペトロヴナと結婚し、新築したニコラエフスキー宮殿に住んだ。アレクサンドラとの間に二男が生まれる。

❶ニコライ 1856〜1929
❷ピョートル 1864〜1931

長子ニコライを抱くアレクサンドラ・ペトロヴナ


地味な容貌のアレクサンドラとは不仲になり、バレリーナのエカチェリーナ・チスロヴァを愛人にし、家族と同じ宮殿に住まわせた。
チスロヴァとの間に三男二女が生まれる。

①オリガ 1868〜1950
❷ウラジーミル 1873〜1942
③エカチェリーナ 1874〜1940
❹ニコライ 1875〜1902
❺ガリーナ 1877〜1878

たまりかねたアレクサンドラ妃は、義兄の皇帝アレクサンドル2世に夫の不貞を訴えたが、同じように愛人を抱えているアレクサンドル2世は、逆にアレクサンドラを「静養」というかたちの国外追放にした。しかし、アレクサンドラはキエフにとどまり、離婚要請には断じて応じなかった。
一方で、チスロヴァからは自分を正式な妃にするようしつこく迫られた。
ニコライは妻が先に死んで、チスロヴァと結婚することを願ったが、結局、妻がもっとも長く生きたため、叶わなかった。
軍事費の不正請求によって役職剥奪され、破産。
チスロヴァが急死してからは精神的に不安定になり、アレクサンドル3世の命令によりクリミアで監禁された。



〈第2世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1856〜1929





父と区別するために、若いという意味のмладший(ムラートシー)を付けることもある。
同時代の皇帝ニコライ・アレクサンドロヴィチと区別するときは、それぞれの愛称「ニッキー(ニコライ2世)」、「ニコラーシャ」あるいは「ニキ・ニキ」で呼ばれた。
父とは違い、陸軍では尊敬された。

ニコライは193センチの長身、騎兵大将として大音声の号令、一糸乱れぬ騎兵を操る様は、威厳あり、迫力あり、圧巻だったといわれている。
20センチ以上も小さい皇帝の横に立つと、皇帝が気の毒にも見えたようだ。
身分による分け隔てを一切しないニコライは、兵士の信頼も厚く、陸軍は彼の下によく統制されていた。

ニコライ2世とニコライ・ニコラエヴィチ大公

1905年のロシア第一革命で、ニコライ2世は、立憲君主政を受け入れるか、軍事独裁体制によって専制を守るかの二択を迫られ、親衛隊サンクトペテルブルク軍管区長であるニコライ(ニコラーシャ)に、軍事独裁にむけての連携を打診したが、ニコラーシャはピストルを自身に向け、皇帝に、立憲制を受け入れるよう懇願した。
皇帝は、ニコラーシャを頼らずして軍を動員することは叶わなかったため、仕方なく立憲制を受け入れ、革命は小康状態になった。
しかし、専制を望んでいたアレクサンドラ皇后は、このことによりニコラーシャをひどく憎むようになった。

ニコライは長く、平民女性や女優と不倫を続けていたが、弟の妃の妹と出会い、結婚を望む。
弟ピョートルの妃は、モンテネグロ王ニコラ1世の娘ミリツァ・ニコラエヴナ。その妹、アナスタシア(スタナ)・ニコラエヴナと出会ったのは、ロイヒテンブルク公との離婚直後だった。離婚歴ある相手と結婚する場合、死別による離婚以外の再婚は皇族には認められていなかったが、皇帝はこの結婚を許可した。
子供は生まれていない。

第一次世界大戦開戦。
ニコライは帝国軍最高司令官。ロシア軍は多大な犠牲者を出しながらも、当初は緊迫感がなかった。1915年、戦況悪化に乗じて、ニコライの力を削ぎたいアレクサンドラ皇后とラスプーチンは、最高司令官を解任し、カフカス方面軍に送る。
その後は皇帝が最高司令官を兼ねて本営に詰めることになるが、それは内政を皇后に委ねる結果となり、帝国は内部からも壊れていくことになった。皇帝は、二月革命で退位させられると、後任の最高司令官をニコライに任命したが、本営に到着したニコライは臨時政府によって即座に解任された。

ニコライは他のロマノフの親族達と同様、クリミアに避難。最終的に、皇太后はじめアレクサンドロヴィチの家族らとともにイギリスの軍艦で国外脱出した。

ニコライの義弟にあたるイタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世の招きでニコラエヴィチ家はイタリアに身を寄せ、その後パリへ移る。

1922年に、白軍が開催したゼムスキー・ソボル(全国会議)において、ニコライを皇帝に据えての帝政復活を企てた。ニコライは、皇位継承順位は低いにもかかわらず、亡命ロシア人、特に元軍関係者から尊敬を集めており、もっとも皇帝に相応しいとみなされた。他方、皇位継承順位筆頭のキリル・ウラジミロヴィチは人気がなかった。
過去に、ロマノフを皇帝に選んだ、権威あるゼムスキー・ソボルによって選ばれたことは重く受け止められるべきではあったが、ニコライは、皇太后への配慮と、離婚歴のある女性と結婚したことを理由に、自分より弟が選出されるにふさわしいとして辞退した。もっとも、弟は兄を皇帝に推していた。




ピョートル・ニコラエヴィチ
1864〜1931





兄ニコライより9歳下。ロマノフ家の慣いとして軍人になったが、病弱で、軍務には性格的にもあまり向いていなかった。芸術、特に建築に優れていた。物静かで似た性格の、ドミトリ・コンスタンチノヴィチとは親しかった。ただし、切れ者で正反対の性格の兄の、影のような存在ではあったが、生涯にわたって親しかった。

ピョートルは軍では兄ニコライの参謀であった。
妃同士が姉妹でもあるため、亡命先でも兄弟で行動を共にした。

モンテネグロ王女ミリツァ・ニコラエヴィチと結婚。一男三女が生まれる。

ミリツァ(右)とアナスタシア


〈第3世代〉
この代では、遡ってニコライ1世は曽祖父となるため、大公ではなく公(プリンス)である。

ピョートルの子女。

①マリナ 1892〜1931
❷ロマン 1896〜1978
③ナジェジダ 1898〜1988
④ソフィア 1898(ナジェジダと双子)


マリナとロマン

ミリツァの3人の子供達

ロマン・ペトロヴィチ

ロマン・ペトロヴィチ 再建されたイタリア傀儡国家のモンテネグロ王国の王位に就くよう要請されたが辞退した
母はモンテネグロ王女、母方の叔母が元イタリア王妃という縁による




『黒い家族』と呼ばれて


ピョートル、妃のミリツァ、その妹アナスタシアの3人を指して『黒い家族』とささやかれていたのはなぜか。
黒い家族、あるいは、邪悪な権力の中心とまで言われたのには、皇后アレクサンドラとの関係においてだった。

アレクサンドラ皇后が結婚してロシアにやってきた時、そもそもが内向的な性格の上、ロシア語が苦手、華やかすぎる宮廷や皇太后とそりが合わず、たちまち孤立。そんな皇后に優しかったのが、同じように外国から嫁いで来ていたミリツァだった。
モンテネグロ王家出身ではあるが、ロシアと比べるなら辺境の小国にすぎない。モンテネグロのネグロとは黒を意味するのと、ミリツァやアナスタシアは黒髪に黒い瞳であったので、それにも因んで黒いイメージが植えつけられていた。
色だけでなく、暗いイメージと結びつけられたのは、彼女達の神秘主義傾向やオカルト趣味に起因した。ただし、この時代、そうした傾向は、ロシアだけでなくヨーロッパの王家ではめずらしいものではなかった。おそらく非難されたのは、皇后を神秘主義に巻き込み、最終的にラスプーチンをもたらしたという点においてだった。
しかし、これについても、皇后は結婚前からそういう性向を持っていたためだと言われている。
黒い家族と言われた彼女達にどんな思惑があったかはわからないが、周囲の宮廷人たちから見て、彼女達が、皇后に取り入ろうとしているかのように感じられて、半分は嫉妬からあだ名されたと考えてよいだろう。
アレクサンドラは、自分の抱えるさまざまな問題を克服しようとして、神以外にもさまざまなものにすがった。特に、男子がなかなか生まれず、ノイローゼ状態。想像妊娠するほどだった。
ミリツァがフランスから連れてきたフィリップ・バショによって祈祷を受け、妊娠したが、生まれたのはアナスタシア皇女だった。
再び、さまざまな呪詛に頼り、待望の皇太子が生まれてからは、その血友病の不安に苦しみ、ラスプーチンが連れてこられた。
相互依存関係にお互い満足したラスプーチンもアレクサンドラも、次第にミリツァたちを遠ざけるようになった。さらに、妹アナスタシアがニコライ・ニコラエヴィチと結婚したことについては、皇后は良しとせず、皇后自らミリツァらを黒い家族と呼んで、以降、疎遠になった。
皇后は、威厳と風格があって、皆に慕われているニコライ・ニコラエヴィチ大公の存在を、皇帝の威信を脅かす者として、常々不愉快に思っていた。ラスプーチンは、皇后に媚びるため、ニコライの失脚を狙っていた。


ミリツァとアナスタシアの長姉ゾルカ(兄弟姉妹は三男九女)はセルビア王ペータル1世との間に五子を産み、産褥死した。生き残った二男一女のうちの一女、イェレナを、ミリツァとアナスタシアで引き取って育てた。
イェレナは、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの長男イオアン公とのちに結婚した。因みに、同じ時期にイオアンの妹タチアナ・コンスタンチノヴナも結婚したが、貴賎結婚になるかどうか波紋を呼んだ一方で、イオアンの相手はセルビア王の娘であり、十分な相手だった。
なお、ミリツァとピョートルの娘ナジェジダは、コンスタンチノヴィチのオレグと婚約していたのだが、オレグは第一次世界大戦で戦死した。

イェレナ・ペトロヴナとイオアン・コンスタンチノヴィチ



ニコラエヴィチ家はそもそもが少なく、革命で処刑された者もいない。もちろんチェカは逮捕の機会を狙っていたが、イギリスへ亡命する機会を得られたことが命を救った。
亡命先では特に政治的に動くこともなく、静かに生活をしていたが、キリルとその息子ウラディミルの皇位継承は承認しなかった。
ピョートルの一人息子ロマンを介して、現代にロマノフの子孫を残している。