月刊パントマイムファン編集部電子支局

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第1回(TOKYOマイムシティ代表・細川紘未さん①)

2011-01-28 02:22:59 | スペシャルインタビュー
今、パントマイムは、東京近辺だけでも年間数十回の舞台公演が当たり前のように行われている。その歴史を紐解いていくと、60年代から70年代の“開拓期”に辿りつく。ヨネヤマママコ氏、佐々木博康氏、清水きよし氏、並木孝雄氏、あらい汎氏という、先人たちがパントマイムを広め始めた頃は、どういう活動を行っていたのであろうか。著名なアーティストたちのインタビューを通して、その開拓期から現在までの大きな歴史の流れを旅してみたい。
第一回は、TOKYOマイムシティを主宰しマイムリンク代表でもある細川紘未に、師であり“並木流パントマイム(注1)”の創始者である、並木孝雄氏の活動について尋ねた。

 ※注1 並木氏がご自身のパントマイムを「並木流パントマイム」と読んでいたわけではなく、そのような意識もなかったとのことですが、後継者である細川の口からはこの言葉が出てきましたので、使用させて頂いています。
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並木孝雄氏は、早稲田大学演劇科、文学座養成所、日本マイム研究所を経て、70年に清水きよし氏らと「舞無羅」を結成、73年に渡仏し、マクシミリアン・ドゥクルーに師事、74年に帰国後、気球座を結成、75年に東京マイム研究所を設立した。数々のパントマイミストを育成するとともに、ソロ公演の上演やアンサンブルの作・演出なども務めた。1980年には、日本パントマイム協会の設立にも関わったという。1992年6月20日、1年半の闘病生活の末、夭折。享年45歳。
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佐々木 まず、80年代半ばに、並木さんのパントマイムと出会った頃について教えてください。
細川 当時、お芝居の養成所に入っていたのですが、研究生に進むことができず、これからどうしたらいいんだろうと思っていた時に、養成所の友人が、並木先生が主催するマイムトループ気球座(以下、気球座)の公演を観に行くというので、一緒に観にいってみました。その後、気球座の養成機関の東京マイム研究所(以下、東マ研=とうまけん)に、友人が入るというので、お芝居のためにパントマイムが役に立つかもと思い、友人と一緒に入ることにしたんです。

佐々木 その時観た公演に、並木さんはご出演されていたのでしょうか?
細川 並木先生は出演されず、気球座のメンバーお二人の方のパントマイム公演でした。その当時は印象が特に強かったわけではなく、なるほどこういう感じの表現もあるんだという印象でした。

佐々木 それまでは、パントマイムを観た事は…?
細川 全然知りませんでしたし、観たこともありませんでした。

佐々木 入所してから並木先生の作品を観た時は、どうだったですか?
細川 入ってから半年後くらいに『ラプソディ』(ボクサーの戦いと生活を描いた並木氏の代表作)を観て、びっくりしました!何もない空間に、色々な情景が見えてくるんです!ほぼ無表情だし、着ている服装だって一緒なのに、風景や洋服が違って見えてくるし、感情が伝わってくるのです!そして驚いたことに、終わった後に涙が出たんです!でも、なぜこの涙が出たのかもわからない!感動的なスト―リー展開があったわけでもないのに、どうして涙が出るんだろうって。それで仰天して、何なんだこれは!って。今までに観たことのない表現にその時初めて出会ったんです。『ああ!こんな表現のできる人になりたい!』って思ったのを今でも良く覚えています。思えばあの時に(並木流の)パントマイムの魅力にとりつかれたんだと思います。

佐々木
 それからは、パントマイムに専念することになったのですか?
細川 レッスンには熱心に参加していましたが、別にパントマイミストになろうと決めたわけでもなかったです。お芝居もやりたかったし、いつでもそっちに行けると思っていたのです。でもなぜかパントマイムをやめなかったんですね。当時は、ボディもマインドも柔軟でシンプルだったので、するすると(スキルを)吸収していって、パントマイムがやりやすかったんでしょうね。パントマイムスキルは、シンプルなボディとマインドの人の方が入りやすいですから。少なくとも言葉の滑舌よりボディの滑舌の方が良かったということです(笑)

佐々木 東マ研のレッスンは、どういうレッスンでしたか?
細川 週3回、昼と夜にレッスンがあって、ある曜日は分解運動の日、ある曜日はムービングの日(全身のあらゆる個所を回転して動かし続ける練習)、ある曜日はテクニックの日がありました。作品作りは、土曜日の夜の試演会のクラスでやりました。

佐々木 東マ研には、卒業とかあったのですか?
細川 一応2年間で卒業でした。入所して6ヶ月経つと作品作りに入り、その3ヶ月後から試演会に参加しました。3ヶ月置きで合計6回くらい試演会に参加し、その後卒業公演をやります。卒業公演は翌年度になることもありました。

佐々木 卒業公演はソロ公演だったのですか?
細川 基本的にソロ公演でした。アンサンブルを入れて、協力者に出演してもらったりする人もいましたが。音響や照明は東マ研のみんなが持ち回りでした。
佐々木 卒業公演は並木さんが演出つけたのですか?
細川 卒業公演だからつきませんでした。並木先生の演出無しでソロ公演を打つという事が、東マ研を卒業するということだったんです。

佐々木
 並木さんはどういう方だったのですか。
細川 とにかく心の広い人でしたね。寛容で、何でも許してくれている感じで。つまり、心が広いというのはどういう事か分かりますか?
佐々木 好き勝手にやっても良いとか(笑)
細川 そうですね。みんなが独自の表現をしても許してくれていました。表現はその人のオリジナルなものだから、決してご自身のパントマイム(並木流)を生徒さんに押しつけることが無いというか。そして、テクニックや身体の柔軟性を重視するのではなく、作品の中の『想い』を重要視するという感じです。それで、東マ研の出身の方は今もオリジナルの表現を追求していってる方が多いのだと思います。それから、社会人の方の生徒さんも多く、仕事を持ちながらパントマイム表現活動を続けていくということも、とっても歓迎してました。プロのパントマイミストを養成することが一番の目的ではなく、自己表現をすることの喜びを知って欲しい、自己表現を続けて欲しい、という想いがあったのだと思います。

佐々木 東マ研はどんなところでしたか?
細川 のびのび暖かい所でした、私にとっては。なんというか、更生施設みたいな(笑)。現実社会にちょっと生きにくい人なんかは、そこに来て並木先生の下でのびのびしてしまうというか。ありのままの自分でいてもいいんだよ、ありのままの自分であることが素晴らしいんだよって、すごく許されている感じがしました。そんな感じだから、私も長くパントマイムを続けて来られたんだと思います。
佐々木 それは、並木さんのお人柄でしょうか。
細川 まさにお人柄ですね。彼は個人を尊重する人でしたから、その人のためになる指導の仕方、つまり、その人のオリジナリティを守った指導の仕方といいますか、そういう指導をされていました。才能があるとかないとかが、問題なのではなくて、自分の表現を追求することに意義を持つという感じで。

佐々木 他に指導方法で印象的な事はありましたか。
細川 東マ研では、入って9ヵ月くらいで初舞台を踏ませていましたね。
佐々木 舞台の経験を早く積む事で育てていくというお考えだったのですね。
細川 そうです。入って9ヵ月ということは実はまだパントマイムのスキルが充分付いていると云えない時期ですよね。でも、それでも舞台に立つ経験を持つことで、作品作りの楽しさや表現の厳しさや緊張感を得て、普段のレッスンよりも多くの学びを得るんです。普段のレッスンも重要だけど、まず舞台に立つ経験を持つことがその人を成長させるのだよとおっしゃってました。私もそれはすごく実感してまして、舞台に立つことが役者にとって最大の勉強だと思ってます。なので、今、私が指導する上で、その部分も並木流を継承しているつもりです。

佐々木 ところで、東マ研と気球座は、どういう関係だったのですか。
細川 東マ研は気球座のメンバーを養成する機関でした。東マ研を卒業して入りたい方が気球座に入りました。私が気球座に入る前は第一次気球座というのがありまして、それはソロ活動をする方たちの集まりだったと聞いています。イトー・ターリさんや里見のぞみさんらが第一次気球座に参加されていたそうです。私や(本多)愛也さんが入った後に、アンサンブル中心の第二次気球座が生まれました。

(つづく)
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