月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『パントマイムの歴史を巡る旅』第12回(清水きよしさん(2))

2012-12-09 07:51:57 | スペシャルインタビュー
佐々木 舞無羅は実験的な試みをやったそうですね。
清水 色々と遊びましたね。というのは、その頃、僕たちはマイムをほとんど観たことがなかったので。僕が初めてマイムを観たのは、マイムを始めてから1年後くらいです。ドイツからロルフ・シャレさんという方が来日した時に彼のマイムを観たのが、僕が生で観た初めてのマイムでしょうか。シャレさんは、ドイツのパントマイミストで、ヨーロッパでは有名ですが、日本ではマイムはマルソーというイメージがあってほとんど知られていませんでした。ヨーロッパでは、マルソーが太陽ならシャレは月だといわれていました。シャレさんの作品は非常に分かりやすくて、オーソドックスなパントマイムです。そんな状態だったので、僕たちが手本にしたくても、ママコさんは日本にいなかったですしね。
佐々木 ヨネヤマ・ママコさんは、その当時アメリカで活動していたのですか。
清水 ママコさんの話はよく聞きましたけれど、もうアメリカで活動していたと思います。で、真似するものも手本するものもなかったので、自分たちのやりたいことをやっていました。ちょうど芝居の世界では、イヨネスコやベケットの不条理演劇が出だしたころで、おかしな状況の中で不思議なことが起きて、というような作品をよくやっていました。

佐々木 襖を使ったユニークな舞台もあったそうですね。
清水 そうそう。新宿アートビレッジで上演した第2回公演の『まいむら廻り舞台』では、劇場のど真ん中に襖を立てて、廻り舞台にしてました。
佐々木 廻り舞台?
清水 襖で分けた舞台の半分に、僕は襖を背にして舞台をやって、並木孝雄君も同時進行で反対側の襖を背にして舞台をやるというものでした。同じ時間に、こっち側とあっち側で全然違ったマイムをやって、それぞれが時間を決めて終わったら、今度、舞台は廻らないけど、お客さんが廻って反対側の作品を観るのです。お客さんには、舞台の裏から笑い声や拍手が聴こえてきて“舞台の裏で何をやっているんだろ”と想像させる実験的な舞台でした。
佐々木 スゴイ発想ですね。
清水 最後となった第3回公演では、井上ひさしさんに台本を書いていただいて上演するはずが、公演が近づいても作品が仕上がらず、恐れ多くも井上ひさしさんの作品を没にしてしまいました(笑)。
佐々木 えっ。
清水 井上さんは、1週間前に出来ても役者は上演するものだと思っていたそうですが、僕たちにはとても一週間では仕上げられない。待てど暮らせど作品が来ないので、ヤバイから、同時進行で「サンライズ・サンセット」という作品を作って、結局、井上さんの作品をボツにして、「サンライズ・サンセット」だけを上演しました。「サンライズ・サンセット」は、自転車を放り投げたり、物を舞台に放り込んだり、色々なことをやりました。舞台にどんどん物が増えて、最後の方には舞台が物で溢れかえって段々身動きが取れなくなって、廃物の中で日が昇り落ちるというものです。
佐々木 スゴイ。これは大体何分くらいやったのですか。
清水 作品としては、1時間くらいですね。この公演のパンフレットには、当時の日本マイム協会会長の吉田謙吉さんにコメントを書いて頂いてますね。
佐々木 その頃に日本マイム協会ってあったんですか?
清水 吉田謙吉さんというのは、マイムをとても愛して下さった有名な舞台美術家で、ほとんどこの方が好きでやって下さっていたという感じですね。

佐々木 舞無羅は、どれくらい続いたのですか。
清水 並木君と僕とで舞無羅をやったのは1年半くらいでしょうか。並木君は、和田蓉子さんと夫婦になって、鶴巻温泉の土地を買って家を建て、そこに僕も来ないかと言われたのですが、そこに一緒に僕も住むのもどうかなと思って僕は別れたのですが、並木君と和田さんは鶴巻で活動を始めました。しばらくしてから、そこに並木君の友達でレクラム舎の演出家・赤石(武生)さんが同居していました。赤石さんは、清水邦夫作品の演出をやって、とても良い舞台を作ってました。彼は多分並木君と文学座の同期だったと思います。僕は並木君達と分かれた後、平野弥生さんという前の奥さんと二人で、自分たちでやろうということで活動を初めました。

佐々木 舞無羅を解散されてからどういう活動をしていたのですか。
清水 前の奥さんと一緒に活動もしましたが、私はほとんどが自作のソロの作品を演じるスタイルでした。並木君はあまりイベントを好まず、理論的に物事を突き詰める人でした。彼は非常に理詰めな作品を作り、スタジオの経営も非常にきっちりしていたのに対して、僕は系統立ててやる事が苦手で、イベントで人形振りや大道芸をやったり、地方を回ったりして好きなことをやっていて、全然性格が違っていました。僕の場合は、そういう形でやっていたことが後々の活動に非常にプラスになりました。並木君は、スタジオを運営して、東京マイム研究所と気球座を作って、落ち着いた形の中で作品を作っていって、なるべくしてなっていったのだなと思います。

佐々木 気球座と東京マイム研究所は、どういうものだったのですか。
清水 気球座は公演するための母体で、東京マイム研究所はマイミストを育成するために立ちあげたのでした。東京マイム研究所は、最初は新宿御苑前に近いところにありました。そこを並木さんが探してきて借りて始めました。気球座の第1回公演は僕も手伝いました。当時の気球座にいた人で、今も残っているのは伊藤ターリーさんや望月さんあたりでしょうか。他にも何人かいたけど、お芝居の方に行った人が多いですね。それから並木君の本の翻訳を手伝った、小野のん子さんもいらしたですね。
佐々木 気球座と東京マイム研究所の結成の時期が正確なところがよくわからないのですが。
清水 並木君は、74年にフランスから帰国して同じ年の5月に気球座設立です。東京マイム研究所設立が75年1月だったそうです。75年には、旗揚げ公演の「バラード」を上演しました。その頃に再び僕も参加し、5月にプーク人形劇場で気球座の3回目の公演として僕のソロ作品を上演しました。
佐々木 その時は、けっこう並木先生と交流があったのですか。
清水 僕はその時は気球座で一緒に動いていて、並木君とはお互いの舞台の舞監をやってという感じでしたね。

佐々木 当時はパントマイムの舞台ってどれくらい知られていたのですか。
清水 舞台はあまり上演されていなくて、マイムはあまり一般には知られていなかったですね。当時、三橋さんが石丸さんという方と活動していましたが、彼らはいわゆる舞台公演の形ではなく、日劇に出演したり、テレビに出たりして活動していたので、舞台活動は僕と並木君くらいしかいなかったです。しばらくしてからママコさんが日本に帰ってこられ、渋谷のジャンジャンで活動を始められました。あとは、及川(廣信)先生たちのアルトー館がマイムと舞踏の中間のような独特な作品を上演しておられました。
佐々木 ところで、日本で一番初めにマイムをやったのは、やはりヨネヤマ・ママコさんですか。
清水 伊藤道郎さんというモダンダンサーが、アメリカかどこかでパントマイムをやったという話もあります。恐らくヨネヤマ・ママコさんより及川先生が先ではないでしょうか。

佐々木 清水先生は78年に「マイムシアターぴえろ館」をお作りになったんですね。
清水 そうです。
佐々木 これは劇団ですか。
清水 当初は劇団ではなく自分の舞台をやるために作りました。でもその後、教え子たちと一緒に公演活動を始めました。
佐々木 ぴえろ館はどこにあったのですか。
清水 府中にありました。あの頃は週3回クラスをやっていたと思います。最初は府中駅から大分離れた場所にスタジオ兼用の家を借りて、そこに最初にあがりえ弘虫君と何人かが来て、そのあとに山田とうし君が来ました。山本さくらさんもその頃に入りましたね。しばらくして、スタジオを府中駅近くに移し、移ってすぐくらいに、がーまるの吉見君が来ました。
佐々木 ぴえろ館として何か公演はやりましたか。
清水 何回かやりましたね。「いそっぷ物語」をマイムで上演したりとか。僕は基本的にソロで育てるスタイルだったので、山田君たちのソロ舞台をやったり、ジャンジャンで舞台をやったりしました。
佐々木 ぴえろ館には、大体何人くらいいらっしゃたのですか。
清水 一番多い時は、府中駅前に移った後、東部町でフェスティバルを始めたころで、緑川敏行君とか渡辺実君ら10何人かいましたね。

佐々木 1980年に日本マイム協会が設立されましたが、最初は及川さんが会長だったのですよね。
清水 うん。最初の会長に及川先生、並木君が事務局長でした。途中事務局長が交代し、及川先生が体調を悪くされ、会長を交代したあたりから次第にバラバラになり、最後に私の所に事務局が廻ってきた時には、もうほとんどど活動休止状態で自然消滅でした。
佐々木 何年くらい活動を続けたのですか。
清水 7、8年続いたのではないでしょうか。最初の頃は若手のコンクールも開催して、第1回目は本多愛也君が受賞したと思います。
佐々木 コンクールは何回くらいやったのでしょうか。
清水 多分3回くらいやっていると思います。コンクールとは別に主催の公演も開催しました。並木君みたいにきっちり運営が出来、ものが言える人が長生きしていたらもっと発展していたと思います。彼以外は、やる方がメインでしたから。
佐々木 まとめる方が大変ですよね。
清水 そういうのは面倒と思う方が多いですね。そういう中で、細川ひろみさんは並木君の活動をしっかり受け継いでいますね。
佐々木 昔も『パントマイムウィーク』のソロマイムギャラリーをやっていたそうですね。
清水 僕も参加してました。気球座のホームグランドを使ってやってましたね。

佐々木 80年代の頃は色んなパントマイミストの交流があったのですか。
清水 僕や並木君、汎さんは、あまりお互いに交流しなかったですね。自分がという意識がみんな強いから。僕もそうだし、並木君もそうだと思う。あっちはあっち、俺達は俺達みたいな。並木君とも汎さんとも色々な意味でお互いに同じようなキャリアで同じようにやっているから、お互い認めているけど“俺は俺、あれは違う”というような意地の張り合いみたいなものがありました。それで逆に切磋琢磨してきたと思います。それが、小島屋万助君あたりから変わってきました。僕たちの一代下から色々な面でマイムの世界の雰囲気が変わったかもしれない。僕たちより前と後では明らかに空気が違うと思います。
佐々木 そうですよね。そんなに流派の壁は、感じないですよね。
清水 あまり表に出して言わないし。我を張り合うことはあまりしなくなったようですね。昔は、佐々木先生の流れと及川先生の流れと2つあって、そこにママコさんの流れが入ってきて、大きく分けると3つの流れがありました。それで、佐々木さんから、僕と並木孝雄君とが分かれていって、ママコさんから汎さんが分かれていって。及川先生のところはどうなっているか、いわゆるマイムとしてやっている人はいないのではないかなあ。今、当時のマイムの世界で残っているのは、佐々木先生とママコさんの2つの流れではないでしょうか。JIDAIさんたちのポーリッシュマイムは、新しい流れですね。
(つづく)


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アーティストリレー日記(23)バーバラ村田さん

2012-12-08 23:07:15 | アーティストリレー日記
今号では、舞☆夢☆踏出身で、国内だけでなく海外でも活躍中のパントマイミスト、バーバラ村田さんの日記をお届けします。

【近況】
御無沙汰しております、バーバラ村田です。
早いものでもう12月。今年が明けて、春にイベントをやって夏の3ヵ月間ヨーロッパを回り、ちょっと突っ伏していたらもう秋の大道芸シーズン。またちょっと突っ伏していたら師走とは…。

実は今年の初めから、新作を作っていました。
ソロの、大道芸の(と限らなくてもいいのだけど)新作を一から作るのは本当に久しぶりでした。
私は一つの作品を育てるのにものすごく時間がかかります。
今、一番上演頻度の高い「バーバラビットのキャバレーショー」は今の形になるのにたぶん7年くらいかかっています。
生まれたてのまだ目鼻立ちも今ひとつ判然としないところから、はいはい、よちよち歩きを経てやっとこ歩き回れるようになったら方向音痴で道に迷ったり、全くとんちんかんな方向に走っていってすっ転んだりしてしばしうずくまったりして、やがてまた手探りで歩き出す。
そんな感じで少しずつ、少しずつ。それは真っ暗な森の中を雲に翳りながら射す月明かりを頼りに進むような道行き。
そんな風にして一体何処へ向かっているのかと問われれば、たぶん、私が「きっとどこかにある」「あってほしい」と願う景色に向かって。
やっとその景色に辿り着いたところでまた次の旅が始まるので、全く作品にゴールはないのだけれどそんなふうにしていると本当に時はあっという間に過ぎてしまったりするようです。
だから今回、久々にそのスタート地点に立ってみて、その果てしなさに改めてクラクラしながらワクワクし、呆然としながら陶然としました。
イメージの断片を集めて、探って、足して引いて千切って捏ねて丸めて寝かしてまた捏ねる。なかなか、形にならない。茹でてみる。蒸してみる。焼いてみる。焦げた。やりなおし。
なんとか目鼻がついて、赤子を舞台に乗せる。とにかく、生まれた。
外(大道芸)に出してみる。風に吹かれて飛ばされるし、へしゃげるし、へこむ。
銀座とスイス、2箇所での野外実習(大道芸)を経て、気付く。
たぶんこの子、こうじゃない。暗転。

もう一度、生まれる前の混沌にたちかえる。
何も、ないのかもしれない。あるような気がする。でも、ないのかもしれない。ぐるぐると混沌のまわりを回るうちにふと、思う。
もう、あるのかもしれない。
私のイメージを受けて美術家と衣装家の手から生み出されたマスクとドレスがそこにあり、私の体がここにある。
この三つが出会ったところに、もう物語は生まれている。んじゃないのか。私が物語を作るのではなく。既に。
このモノたちは、仮面とドレスと体はどう現れたいのか、動きたいのか、仮面と体、ドレスと体、仮面とドレスはどう交わりたいのか。
そこをただひたすらに探り掘り起こして行ったら、不可思議な顔をした物語がきょとん、と横たわっていました。
まだ土まみれででこぼこしたその物語と共に上野、静岡、厚木のフェスティバルをよちよち歩きで回りました。
回を重ねる毎に、人と、場所と会う毎に滑らかな肌を見せ目に光が灯りはじめたこの物語は名前を「月のおはなし」と云います。

暗闇に、細く射す月あかりのような作品に育ちますよう。
どこかで観て頂けたら幸いです。


【最近ハマっていること】
まだハマってはいないのですが、旋回舞踊。タンヌーラとかスーフィー、セマー、メヴラーナとかいうもので、でっかいスカートを履いてひたすらくるくる回る舞踊です。繰り返し旋回することによって神との一体化を求める、トルコやエジプトの伝統舞踊。
回る、ということがずっと気になっているので是非ワークショップを受けてみたい…のですが定期的に教えているところがあまりなく、1件だけ見つけたクラスは日曜の昼、という芸人泣かせ。きっと来年には。
訓練すると1時間でも回り続けられるそうですよ。いいなあ…。

バーバラ村田
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