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『パントマイムの歴史を巡る旅』第23回(ヨネヤマ・ママコさん(5))

2014-09-11 00:21:45 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第5回は、帰国してからの活動について紹介します)

佐々木 米国での13年の生活を終えて、1972年に日本に帰国することになった経緯は何でしょうか。
ママコ 実は病気になってしまったのです。一所懸命に頑張ってきましたが、身体を壊してしまい、帰国しました。帰国後に入院して手術を受けました。身体が治りかかったある日、治りかけと言ってもまだ歩きが不自由だったのですが、新宿駅で歩いている人々の姿を見るとステップが面白いのです。新宿駅には人がいっぱいいて、人が他人とぶつかりそうになるのを避けるステップがタンゴのように見えて、これをタンゴで踊ったら面白いと思って、「新宿駅のラッシュアワーのタンゴ」という作品を創作しました。「ビギンザビギン」というジャズの名曲がありますが、あの素晴らしいリズムとメロディーのように、身体が動けなくても心が元気になる作品を作りたいという気持ちで、駅のホームでステップを踏んで作品を作っていました。
佐々木 スゴイですね。「新宿駅のラッシュアワーのタンゴ」は、実際にいつ上演されたのでしょうか。
ママコ 74年に京都府立文化芸術会館や渋谷のジャン・ジャンなどで上演しました。その当時は、帰国して間もないので、ママコ・ザ・マイムの活動というよりも、ソロでの上演でした。

佐々木 1972年にママコ・ザ・マイムを設立した経緯を教えてください。
ママコ これは、よくあるじゃないですか。一旦有名になると追い払っても人が来て。
佐々木 なったことがないので分かりません(笑)ママコ・ザ・マイムを設立して、あらい汎さんがすぐお弟子になったそうですね。汎さんとの初めての出会いはいかがでしたか。
ママコ あらいさんが銀座で人形振りを披露するイベントを私が観て、それから交流が始まりました。彼は、私のところに来て、色々と良く働いて頂きました。あらいさんがウチに来てすぐにヴィテルボ大学のマイム祭に呼ばれて、彼もスタッフとして一緒に行きました。

佐々木 ヴィテルボ大学のマイム祭とはどんなイベントだったのでしょうか。
ママコ これは、アメリカのマイム祭で、ヴィテルボ大学の先生が企画しました。そのマイム祭の出演者には、ジャック・ルコック(フランス)、ステューバ・トゥーバ(チェコ)、レディスラフ・フィアルカ(チェコ)、ムメンシャンツ、トニー・モンタナロ(アメリカ)、ドミトリー(スイス)、サミュエル・アビタル(アメリカ)、ロッテ・ゴスラー(アメリカ)、ヤス・ハコシマ(日系二生)、アントニオ・ホデック、カルロ・マツオニ(イタリア)らが名をつらねました。ロバート・シールズの名前も入っていましたが、実際には来なかったですね。
佐々木 世界の著名なパフォーマーが集まる国際色豊かなフェスティバルだったのですね。フェスティバルの開催は何年ですか?
ママコ 74年です。マイム祭が終わった後にヴィテルボの川に出演者が集まって記念写真を撮影しました。(写真を見ながら)この人がプロデューサーのルー・キャンデル。彼は、ミスター・トランキライザー(精神安定剤)というあだ名を付けられました。世界中から人が到着する度に、おろおろハラハラして、トランキライザーを度々飲んでいました。世界中から出演者が集まってくるから、あまりにも大変だったのでしょう。
佐々木 汎さんは、そのイベントでスタッフとして手伝っていたのですね。
ママコ あらいさんを音響として連れていったのですが、これはちょっと乱暴でした。彼はまだよく英語がしゃべれなかったから、現地の技術スタッフとのやりとりは専ら愛敬だけで乗り切っていました。彼は行く前はすごく痩せていたのに向こうの食事は肉ばかりなので、段々とこう…。
佐々木 太っちゃったのですね(笑)。

ママコ ママコ・ザ・マイムというのは、私自身が非常に過酷な仕事をしたと感じています。ソリストで先生でもあり、また経営者も兼ねていて、経営では事業家だった兄の米山卓が年間の赤字をいつも怒りながら補ってくれていました。生徒は、一所懸命に教えても上達すると、引き抜かれて条件の良いところに移ってしまったり、早く独立したいと言われたり、きつい巡業が終わると辞める人が出たりして、当時の若い人と接するのは難しかったですね。私の教え方は、民主主義というよりも、見えない物を見せる手と手の流れの美しさに特に厳格で、私のカラーで私のメソッドを継いでもらうという保守的なところがありましたから、失敗したことも多かったです。当時の私には、民主主義というのはなかったです(笑)
佐々木 大変ご苦労されたのですね。
ママコ その上に、舞台は一流志向を持っていて、衣装や音楽もオーダーメイドで作ったりして舞台全部がママコ・ザ・マイムのカラーでないと気が済みませんでした。これが間違いの素だったですが、非常にこだわりました。当時は自分1人で10役をこなしていました。

佐々木 ママコ・ザ・マイムではどんな公演を上演していたのでしょうか。
ママコ 学校公演と劇場公演で、分かり易い基本的な物やメルヘンマイム、「禅とマイム・十牛」、「サティ~ママコ~スル」などです。
佐々木 サティの作品はどうやって生まれたのですか。
ママコ 音楽に導かれて生まれた作品が幾つかあります。例えば、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」ですね。これは、ソロの物ですが、ソニーの石井宏枝さんが企画を持ってきて、そんな難しい曲は困ると言っていながら、言っているそばからアイデアが出てきました。ということは、その曲が私に合っていたんですよ。難解な音楽でしたが、譜面が分からないなんか関係ないですね。私の代表作になりました。エリック・サティの作品は、大村陽子さんというピアニストがサティの曲の企画を持ちかけてきて、これも音源に導かれて創作しました。以前、上演した「マニュアルウェイター」はその中の一つです。
佐々木 マイムリンクで上演した「ウェイター」もサティだったのですか。知らなかった。

佐々木 ママコ・ザ・マイムには、どんな方が在籍しましたか。
ママコ 初期の頃には、あらい汎さん、吉村(服部)宣子さん、藤倉健雄さんが在籍していました。吉村さんは1975年に入っています。それから、2、3年して、藤井郁夫さん、ひらがせいごさんが加わり、今は「マイムランド」というグループで活躍し、学校公演やホテルのイベントなどをやっています。その他に大勢20、30人もいたのですが、現在は、ほとんどの人がマイムから離れています。武井よしみちさんは、現在も前衛パフォーマンスで活躍しております。その何年か後に、江ノ上陽一君、小野廣己君が入ってきました。彼らは、後にSOUKIのメンバーとして活動しております。彼らは80年代後半に入ってきました。

佐々木 ママコ・ザ・マイムは、何年まで活動を続けたのでしょうか。
ママコ まだ続いているといえば、続いております。今は明神伊米日君が最後の1人として残ってくれていて、25年程ひたすら縁の下をやってくれています。劇団というよりも屋号と言った方が良いかもしれません。ただ、努力して失敗もくり返して分かったのは、あんまり大きなグループにしないことが大切ですね。私にとっては、とても大き過ぎてソロとグループの切り換えがうまくできませんでした。

佐々木 ところで、日本パントマイム協会を設立した時(1985年)には、ママコさんも参加していたそうですね。
ママコ 日本マイム協会の設立時に、及川廣信さんが呼び掛けて、佐々木博康さんや並木孝雄さん、清水きよしさん、あらい汎さん、西森守さん、IKUO三橋さん、大阪からは、北京一さん、藤井伝三さんが集まりました。藤井さんは、私のところに何年かいてよく出演してくれました。マイム協会を作る意義は分かるのですが、やっぱり、まず一人ひとりがマイムで生きていくことが大変じゃないですか。それに困ったことに、私も含めて個が強い一匹狼的気質の人がマイムには多いと。「果たして組織としてまとまるのかな?」という思いはありました。私はその当時、創作し続けなければならないこととグループの人達に一つ一つ対応していくことで、日々精一杯でした。ですので今ふり返って、あまり積極的に協会のために動けなかったという反省の気持ちはあります。
(つづく)

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