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『パントマイムの歴史を巡る旅』第32回(長井直樹さん(3))

2019-10-19 19:20:45 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第3回は、アンサンブル作品「黎明記」後の活動について語っていただきました)

阿部(以下、A) 「黎明記」を上演した後に、メンバーが徐々に抜けていったのですか。
長井(以下、N) そうですね。メンバーそれぞれの事情で辞めて行きました。
佐々木(以下、S) ちなみに、ケッチさんはいつ頃入ったのでしょうか。
N ケッチは1度ロンドンに留学(※東マ研を一度休学?して、留学して戻ってから卒業公演を開催)しているから、はじめは結構早かったですね。
S 「黎明記」が終わって残っていたのは誰ですか。
N 細川さんと自分のほか、マルさん(丸岡達志)と安さん(安原徹)。二人は、新人のソロ公演を上演したりしていました。
S それで、その方々もいなくなって、ひろみさんと長井さんの2人になり…。しいなまんさんは、どうしていたのでしょうか。
N しいなまんは、自分より半年前の先輩で、気球座には入らずしっかり薬剤師で、まったく良い意味で趣味のパントマイムに徹していました。
S えっ、入っていなかったんですね!? 黎明記を終わった後の活動はどんな感じだったのですか。
N 若い人がごそっといなくなった後は、完全に細川さんと長井がポツン状態でしたが、学校公演で奥田雅史さん、ましゅ(ましゅ&Keiのましゅ)、チカ(チカパン)さんにも少し頼みました。当時は、児演協に入ったばかりの頃でしたから。
A 長井さんとひろみさんのお二人だけで…。
N あと、制作のゆみじさんがいたからね。でも、急に並木先生がいなくなったから、細川さんと自分の2人でやっていくには若過ぎるから。
S 当時、長井さんはいくつくらいだったのですか。
N 26~27くらいでした。でも、やらざるを得ない状況でしたね。もし、もう10何年ずれていたら違っていたと思います。「たら」、「れば」になってしまうけど。あの後も、少しはもがいていたけどね。

S 気球座がなくなったのはいつでしょうか。
N 並木先生が亡くなってから…、
A でも、ひろみさんと長井さんで続けて、
N 続けて、そこで(当時スタジオのあった)山の手通りの拡張の話が来て、稽古場ももう閉めなきゃいけない状態になって、でも、閉めちゃったら新しい場所は厳しいかなという話で閉めたと思う。やっぱり場所が大きいよね。都内で稽古場を持つって、ものすごいことだからね。まだ全然若造だからどうしたらよいのか分からないし。で、しばらく、その後、少し活動はしていたのです。ゆみじさんが制作でいて、初台のバレエスタジオの「スタジオ余白」を稽古場で使わせてもらっていました。で、少しもがいていて、そこで細川さんと愛也さんの「ロングディスタンス」(93年1月上演)の稽古もかなりやってたんです。青年座の前田和則さんという演出家を招いていました。前田さんは、細川さんのお知り合いで、実は、わたくしの青年座時代の卒業公演の演出を担当された方です。

S その当時は、松田(充博)さんは、活動に関わっていたのでしょうか。
N 関わっていました。松田さんとやり始めたのは…。
A 「プレイゾーン」(94年4月上演)だ。
N うん。そもそもは、Project・Pさんとのつながりがあったのです(※Project・Pは、当時、高円寺の明石スタジオにて提携公演を行っていました)。その頃、明石スタジオで松田さんはずっと照明を担当していて、当時は照明だけだったんです。
A 照明だけだったのですね。
N 音は、げしょ君。もちろん、松田さん監修のもと、って感じでした。げしょ君は松田さんの弟子みたいな感じでした。それで、Pさんが止めた後、うちら(Pang Ping Pooh)が提携公演を引き継いだのです。それで、自分は松田さんと親しくなりました。
A そうだったのですね。
S Pang Ping Poohの提携公演にはどういう方が出演していたのでしょうか。
N メインとしては、しいなまん、チカちゃん、安さん、丸岡君、ぶんちゃん(当時は小泉ぶん)、田子さん(田子裕史)らです。
S ひろみさんは?
A ひろみさんは、入っていませんでした。
S どういう作品を上演したのでしょうか。
N アンサンブルではなく、個人のソロ作品です。
S どれくらいの頻度で提携公演を行っていたのですか?
N 2ヵ月に1回程度だったと思います。制作はおーちゃん(おおたゆみこ)。それで、段々回数を重ねる毎にちょっとアンサンブルをやろうということになって。それで、松田さんとすごく近くなりました。
S Pang Ping Poohは、どの程度活動していたのですか。
N 2年程度だと思います。その後に、自分が松田さんとソロ公演を上演するようになりました。
S それでは、当時は、松田さんが長井さんの作品の演出を行っていたのですね。
N 細川さんと松田さんが組む以前は、ずっと、松田、長井コンビでした。
S そうだったのですね。どんな劇場で上演していたのでしょうか。
N 今はないけど、狛江のBeフリーで、その時は提携公演でした。あれっ、なんで自分はBeフリーで上演することになったのだろう。
A 多分、「プレイゾーン」の再演をするために、Beフリーさんとつながったと思います。その頃、「プレイゾーン」を、確かどこかの大学で1度上演して、もっと再演しようということになって、東マ研時代の先輩であった狛江市在住の大畑さん(※奥田さんと同期くらいの方)が、Beフリーの並木さんとお知り合いで、それで、つながったんだと思います。その後、「マジカルフラッパー」の公演とかやって、それから、アンサンブル作品の「大江戸捕り物帳黄金鬼面の謎」(演出:松田充博)」とかをやったんだと思います。
N それで、小屋とのつながりができたことで、長井個人への依頼として、“劇場費は、全部小屋持ちでお金を出さなくて良いからソロ公演を上演して欲しい、その代わり毎回新作をやる”という話があり、上演することになりました。結構、とんでもないことをやっていましたね。Beフリーには、小屋が持っている月会員みたいなものがあって、その方々は無料で観れたのです。
S どれくらいのペースで上演していたのですか。
N 2ヵ月に1回かな。
S スゴイ!
N だから、半分以上は駄作です。でも、数を作れと最初は言われて。
A ちなみに、そこでケッチさんが卒業公演を上演しましたよね。その頃はよくBeフリーを使っていました。
N 小さいけど、面白い小屋だったよね。
A 安かったし。松田さんと組んで、長井さんが泣き泣き作品を作ってたのは覚えてます。
N その時は、「ドラ○もん」も却下されたね。
A 代表作の「ドラ○もん」が松田さんにダメ。
N それっきり、お蔵入り。松田さんの演出を離れ、20年以上経過したあとにバリで観た松田さんから、面白いじゃんって言われました。その時は、きっと面白くなかったのだろうね。本人は、全然変わっているつもりはないけど。
(つづく)



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