月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『追悼 本多愛也さん』第1回(小島屋万助さん(1))

2016-03-15 01:14:17 | スペシャルインタビュー
昨年10月に急逝した天才パントマイミスト、本多愛也さん。長年にわたって数多くの人に愛されたその天才の輝かしい活動を、親しい関係者へのインタビューを通して振り返る。第1回では、KANIKAMAなどのユニットで活動を共にした小島屋万助さんに語って頂いた(聞き手:マイムリンクの佐々木、阿部)。

佐々木 改めて本多愛也さんのご活動を小島屋さんにお聞きしたいのですが、まず、初めて愛也さんと出会ったのはいつでしょうか。
小島屋 僕が東京マイム研究所に入った時ですから、多分1985年です。彼が僕の1年先輩でした。そもそも僕がマイムを始めようとしたのは29歳の頃で、色々と養成所を探していて、最初にやまさわたけみつさんのところに、1、2ヵ月いました。
阿部 そうなんですか。初耳ですね。
小島屋 週1回しかレッスンがなかったので4月から新しく頑張ろうと思って、東京マイム研究所の試演会を観に行ったら、そこに本多君が出演していたのです。
佐々木 そうだったのですか。
小島屋 その時観たのが「飴玉」っていう作品で、これがあまりにも上手で大変衝撃的でした。「これは僕には無理だ」って思ったんですが、でも別に、風船を作ったり、壁やったり、ロープできればいいなと思って始めました。ですから、最初から本多君はあこがれ的な存在でした。
佐々木 はじめの出会いからそうだったんですか。「飴玉」という作品は、どんな感じなんですか。
小島屋 飴玉をなめて飲み込むと、飴玉が体内で動きだして、身体の中の色々な場所を移動していく作品です。その作品で、彼は日本マイム協会の新人コンクールで奨励賞を受賞しました。
佐々木 奨励賞!
阿部 もう愛也さんにあこがれて東マ研に入ったんですか。
小島屋 まず、「すごい人がいるな、マイムって面白いな」って感じました。彼があまりにも突出してすごかったので、そっちは狙わずにこっちで行こうとか色々考えたんです。
阿部 笑
佐々木 その頃、愛也さんとは、結構親しかったのでしょうか。
小島屋 当時、東京マイム研究所って、昼と夜のクラスがありました。僕は、夜のクラスで、本多君は昼のクラスだったので、会うことはあまりなかったのです。でも、東マ研は、3ヵ月に1回試演会を上演していて、その関係で一緒に舞台に立ったり、手伝ったりして、会うチャンスがいっぱいありました。入所して1年くらい経った頃に、ちょうど気球座が、「創世記」という公演を上演しました。僕は研究生だったのですが、いきなり出ることになりました。人が足らないパートをやったりする中で愛也君と親しくなりました。
佐々木 東マ研時代は、2人で作品を作ったりとかは。
小島屋 まったくありませんでした。僕が卒業公演を終えて、僕が外でやりだしてから2人でやるようになりました。
佐々木 東マ研の時に一緒に舞台に立ったりとかは。
小島屋 気球座の「創世記」で一緒にやらせて頂きましたがそれ以外はないですね。ひろみ先輩とか、羽鳥先輩(笑)も一緒で、彼女たちは、僕よりも全然先輩でした。当時、本多君は気球座のメンバーでした。演劇の世界で劇団があって、劇団の下に養成所があるように、東京マイム研究所という養成所があって、そこを卒業して気球座という表現する団体に入るか、入らないかという感じでした。僕は気球座には入らなかったのです。
佐々木 そうなんですか。
小島屋 うん。東マ研に入って2年して卒業公演すると、気球座に入らないかって並木先生に聞かれたのですが、僕は歳も歳なので、もう自分の好きな舞台をやっていきたいと返事をしました。それで、並木先生から「分かった。頑張れよ」と応援して頂きました。

阿部 小島屋さんは、卒業公演後の公演は、どこで始めたのでしょうか。
小島屋 その後の舞台はタイニイアリスに移りました。まず、タイニイアリスのフェスに出演しました。
阿部 そこでもう小島屋万助劇場「脳みそグリグリ」を上演したのですか。
小島屋 そうです。
佐々木 その時は、愛也さんに手伝ってもらったりとかは。
小島屋 それはまだありませんでした。それで、その時に僕の演出をしてくれたのが小倉悦郎さんだったのです。
佐々木 小倉さんは、どういう方でしょうか。
小島屋 僕がちょうど卒業公演を上演した頃に、TAICHI-KIKAKUという劇団があったのです。その劇団は、オーハシヨウスケさん、モリムラルミコさん、小倉くんの3人でやってたのです。小倉君は、その劇団の演出家で、そこに僕がゲストで出たんです。ゲストと言っても、ほとんど一緒に作ったのですが、すごく面白かったので、「小倉さん、ちょっと僕のマイムの演出もしてよ」という感じで話したことがきっかけで、タイニイアリスで上演することになりました。
阿部 そういうつながりだったのですか!
小島屋 それで、2回目の公演もそこで上演して、3回目は、渋谷のジァンジャン(小劇場の老舗)で上演しました。4回目の公演の時には、下北のスズナリでやったのですが…。
佐々木 すごいですね。
小島屋 その公演の時に、本多さんと「私と私」という作品で初の共演をしました。これは、サラリーマンの男がある日、鏡で何かやっていると、鏡の向こうに分身がいて、それが本多さんなんですが、分身が傍若無人なことを色々やって、最終的には鏡に追いかけられるというよくある話ですが、そこは、僕と本多君なので、なんとなく想像できるだろうけど、かなり面白い。今でも短いバージョンでやっています。
佐々木 へぇー。
小島屋 そこからの流れで、小島屋万助劇場(でもそこからそんなに作ってないのですが)の時にゲストで出演してもらうようになりました。それから僕もちょくちょくソロをやりだしたのですが、小倉さんはすごく本多君を気に入って、一緒にやろうよと言って、小倉さんとのコンビでずっと一緒にやっています。

佐々木 愛也さんの初のソロ公演「ZOERUNA」(1986年)に小島屋さんが手伝ったそうですが…。
小島屋 手伝いました。それは、出演というか、あるワンシーンにウンコの役で出たのです。
阿部 笑
小島屋 僕は、3人くらいのサブで出演して、出演時間は3分くらいでした。だから共演という感じではなく、その他大勢でした。その当時は、お互いにちょっと手伝う関係でした。相鉄本多劇場や高円寺明石スタジオなどで上演しました。
佐々木 この時の公演ってどういう感じだったのでしょうか。
小島屋 うろ覚えです、違ってたらごめんなさい。「二人羽織り」という作品は、馬鹿馬鹿しい、自分でしゃべりながらする人間羽織りなんですが、つまり1人でやる二人羽織りです。
佐々木 独り2人羽織(笑)
小島屋 二人羽織りみたいな感じの姿で、ヤメロよとか言いながら身ぶりをするのですが、でも1人で演じるのです。
佐々木 馬鹿馬鹿しいですね。
小島屋 「チャーリー」というのは、ちょっと今の年齢の彼を彷彿させる、ちょっとジャジーなじいさんというか、アメリカに行ったことないけどね(笑)、小粋な感じの作品です。「トム」というのは、最終的に月に向かってどんどん登っていく、印象的な作品です。
佐々木 月に登っていく!ファンタジーな感じなんでしょうか。
小島屋 そうですね。
(つづく)

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アーティストリレー日記(62)TEN-SHOさん⑨

2016-03-15 01:10:58 | アーティストリレー日記
リハビリ生活から脱却してイベント出演が少しづつ叶い始めた頃、
言葉では言い尽くせない悲しい出来事が、ありました。
パントマイムの勇、本多愛也氏の他界です。
彼とはパントマイムフェス毎に顔を会わす程度の付き合いでしたが、
彼のリクエストで愛也氏のソロライブに参加させてもらったり
そのリハーサル中に自宅に打ち合わせに行ったりと
ピンポイントでディープな時間を共有した仲でした。

彼は東京マイム研究所出身、ソレガシは汎マイム工房の出身です。

1980年代の前半期、東京マイム研究所の新たな試みとして「ソロマイムギャラリー」というシアター・トライアル・ライブが、ありました。

初期は勅使川原三郎さん(原コンテンポラリーダンサー+コレオグラファー)やギリヤーク尼崎さん(大道芸)が出演していました。

その後、シリーズ化されソレガシも出演させて頂く機会があり
リハーサルや本番で東マ研スタジオに通いました。
その頃に本多愛也氏の存在を知った訳です。
ソレガシより2歳年下、当時の彼は、ジャッキー・チェンとアル・パチーノとショーケン(萩原健一)を混ぜた様な風貌でした。

ソレガシにとって初めて触れる別団体の同世代で、とても刺激を受けました。

故、並木先生の旗の下、東京マイム研究所は、新しい風を求めている熱い若手パントマイマーだらけでした。
仲良くしてもらった村田ミホちゃん、津野氏、小島屋氏、細川ヒロミちゃん、羽鳥ヒサヨちゃん、前田氏、川口氏、芹澤チカちゃん、鈴木氏、安原氏、など
若手パントマイマーが自由に創作活動が出来る環境を自分達で作り出していたのには、正直、驚きました。
「そうか~師匠の言うことだけを やっていてもダメなんだな~」とソレガシ目から鱗の心境でした。

故、本多氏の作品は本多氏しか出来ませんよね。
悲しいですけど彼の死で彼の数多くの名作は、このままコールドスリープに入ったんだと思います。

パントマイムは個人の芸。
そのパフォーマーとともに生きるんだと
つくづく思いました。

愛也ちゃん(生前ソレガシは彼をそう呼んでました)
から教えてもらった事が、あります。

教え伝える事の大切さです。

本多氏は小島屋氏、アガリエ氏とともに
北九州にパントマイムを伝授する活動をしていました。

作品は土へと帰りましたが
本多氏のマイムの種は、全国の生徒さんに受け継がれ成長し
それぞれのパントマイムの華を咲かせるはずです。

ソレガシもこれからは、そんな存在に、なりたいと心底思いました。

伝える事が先人へのリスペクトになりうると信じつつ
微力ではありますが、頑張りたいと再確認する今日この頃のソレガシです。
m(__)m

追伸
今回あるいみ長いリハビリ期間のストレスを吐露する機会を与えて頂いた佐々木氏に、お礼を言いたいです
「マジで、ありがと!」
原稿執筆中に数十年ぶりに空を飛ぶ夢を見ました。
満天の☆の中、自由に飛びまわる事は、とても気持ち良かったです。
ほんとうに、ありがとうございました

原稿おわりです。

TEN-SHO
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アーティストリレー日記(62)TEN-SHOさん⑧

2016-03-15 01:07:55 | アーティストリレー日記
人と人の繋がりは大切ですよね~。人と動物、人と植物、いろいろなモノと繋がれたら楽しいでしょうね~。パントマイムでは動物や植物などにも変身しますからね~。
さぞかし勉強になるだろうなぁ~。

自分以外の考え方を受け入れる気持ちを持っているうちは、年齢に関係なく心の伸びしろが、あると思いますソレガシ。

パントマイムを通して様々な人達と知り合いたいですソレガシ。

ちなみにソレガシfacebookでは濱村典正となっております。
友達リクエスト大歓迎でございます。
m(__)m

自分と違うデータやアプローチを目の当たりにすると
曖昧な自らの考えがハッキリしてきて
その考えを人に伝える頃には更にシェィプされ際立つ意見になるんですよねぇ。
初めから自己完結してしまうとグルグルの堂々巡りで進歩がないんですよねぇ。

たとえばパントマイム実践でもパントマイマー(パントマイミスト)の数だけ考え方や教え方が違っているみたいです。

面白いジャンルだと思います。

少し例えてみますから
その違いを楽しんで頂ければと思いますm(__)m

☆人形振り(ロボット表現)

ストリートダンスではロボットが踊るという表現になるので基本カクカクした動きが中心。パントマイムでは、イザマ(居様)が重要ポイントなので究極、表現者は、とまってしまいます(静止)。
いわゆるスタチューになる訳ですが、パントマイムとスタチューは別物だと思います。
静止した状態でもパントマイマーの心は、いろいろ動いています。いわゆる心を持った人形のイザマなんですよね。
(※決してスタチューが、そうではないと言うことではありません。)

その演技プランで人前に立つことによって、次のドラマが生まれ受動的な動きが始まるわけです。
もちろんカクカク動きもします。グニャグニャ動きもします。
大切なのは、いかに静止したり動いたりするか?
なんですよね。

ソレガシは、人の形が人じゃない動きをした時には、「もう、それ、人形じゃない?」くらいのファジーな感じで演技したり指導しています。
どこか遊び(ゲーム)感覚なんですけど~エンターテイメントには大切な要素だと思います。

(つづく)

TEN-SHO


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アーティストリレー日記(62)TEN-SHOさん⑦

2016-03-15 00:58:46 | アーティストリレー日記
このコメントは、だいたい深夜の3時4時に書いてます。
もともとソレガシは、昼に寝て夜に活動するコウモリタイプなんです。
深夜、シーンとしている静寂が好きで、その中あれこれ考える癖が、あるんですよね。

昔から考えるだけでなく身体も動かすトレーニングも深夜にやってしまうので
東京時代も地下一階(正確には半地下)のアパートに住んでましたし
福岡のマンションも下には住居のない部屋(駐車場入り口)に住んでます。
深夜にドタドタすることもあるので、それなりに住む所も制限されるんですよね(笑)

リハビリの筋トレは、10キログラムのシャフト(バーベル用の棒)とチューブを使ったトレーニングでした。
パントマイムに重いものを持ち上げる太い筋肉は必要ないと思ったからです。
(それでも予定より太くなってしまいましたが)

ほどよい筋肉はパントマイムの空間固定点を創る身体作りになります。

関節は柔らかく保ちながらの筋力アップするメニューを考えるのは楽しい作業でした。

今まで(アキレス腱断裂前)は、めんどくさがりで、てきとーな自己管理者だったソレガシ。
最近は自分でもビックリするほどストイックに自らの身体と向き合ってます。

リハビリ担当医さんが、退院時に言った言葉が耳から離れません
「ハマムラさん、ある患者さんは精神を病みましたよ。ネガティブにならない様に気をつけて下さいね」
「ハマムラさん、油断してると反対側のアキレス腱、切る人もいますからね」

怖い忠告ばかりする担当医さんでした。

きっと彼は彼の責任を感じていたんだと思います。

あえて怖がらせて、慎重に慎重に~少しづつでも確実に回復をさせたかったんでしょうねぇ~(T-T)

少しでも早くパフォーマンス現場に復帰したかったソレガシ。
オーバーワークにならない様に気をつけました。
リハビリ後には必ず痛みが出ましたが、不思議なもので良い痛みと悪い痛みの見分け(

感じ分け)が出来るようになり悪い痛みの時は、即リハビリ運動を中止し余暇にはイラスト描きやパフォーマンス道具を作ったり
自宅マンションまわりを徘徊する野良猫と遊んでました。


(参考写真その9)
野良猫のシロちゃん
あと黒猫のクロちゃんもいます(笑)

再断裂防止のため外出は、必要以外ひかえていたので精神的に孤独を感じたり落ち込んだりした時もありましたが、
facebookが大きな助けになりました。
facebookの友達の皆さん~励ましのコメントありがとう~(^-^)v

(つづく)

TEN-SHO
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アーティストリレー日記(62)TEN-SHOさん⑥

2016-03-15 00:40:02 | アーティストリレー日記
パフォーマンスを自分の仕事にして34年、いろいろな所に行きました。

汎マイム工房時代には日本の全ての県に行ったと思います。
当時の化粧品会社はテレビCMでキャッチーな曲を有名アーティストに作曲させ春はリップスティク、夏はファンデーション、秋にはチークと季節ごとにメイン商品を決め大々的なツアー商戦をやってました。
ソレガシはカネボウ担当で全都道府県を巡るツアーに参加させてもらいました。
大手デパートの化粧品売り場、ピエロ(クラウン)の扮装で人形振りをやり集客するのが主な仕事です。集まったところでMCさんとモデルさんが登場してプロモーションが始まると言うショー構成でした。
「自分の好きなことをやって、お金がもらえるなんて!」
うひゃうひゃ時代だったなぁ~( 〃▽〃)
海外公演にも2回参加させてもらい(イタリア、フランス)
師匠あらい汎先生には、いろいろなテクニックを伝授して頂きました。

退所してからは遊園地の定点ポイントパフォーマーとして出演。
横浜ドリームランド、西武園ゆうえんち、としまえん遊園地、東京ジョイポリス、ナムコ・ワンダーエッグ、サンリオ・ピューロランドなどで1984年からストレートダンスとパントマイムをミックスした表現でオリジナルショー作りに熱中していました。

「師匠の構成、振り付けじゃなくて、自分で考えたショーがやれるなんて~!」
うひょうひょ時代だったなぁ~(^-^)v

つくば科学万博や横浜大道芸(第二回目から)、大道芸ワールドカップin 静岡(1996年から19回出演)などパフォーマンスブームと共にやってきました。

長野マイムフェス、北九州マイムフェス、韓国マイムフェス、タイ王国マイムフェスなどパントマイムを広める試みの企画には、ソレガシ、スケジュール調整が可能なかぎり参加させて貰ってます。

1981年からの20年は、東京生活。その後は両親の介護の関係もあり福岡に移り住みました。
8年の介護活動の末、両親は他界してしまいましたが、いま考えると本格的にマイム指導をする土壌を作れたことは、とてもラッキーだったと思います。

1週間ほどアメリカ、ラスベガスでのイベントにも出演させてもらい、良い勉強になりました。

日本と海外の観客さんの違いなんですけど海外では、自分が面白いと感じたら他の人が反応しなくても拍手したり笑ったりします。しかし日本では、どうしても周りに気をつかってしまい自分のリアクションが、とりづらい状況があるようです。
もしかしたら基本テレビ文化だったりするからかも知れません。
テレビに向かって拍手したり歓声をする人は、あまりいませんもんね。

それと大道芸などでパフォーマーを見ながら同時に他の観客に見られている感を感じているということかも知れません。
ともあれ奥ゆかしさを尊ぶ国民性が影響しているのは確かだと思います。
それを良い悪いという問題ではないのですが、演技しながら不思議な気はします。
最近は、パフォーマンス中に大いに盛り上がり楽しく演技出来る環境になってきましたね。

常々、思うんですけどソレガシにとってのパフォーマンス感とは、表現者と観客の間に生まれる空気がパフォーマンスという空間になるんだと思います。
卓越した表現者と豊かな感性の観客の間に流れる時間がパフォーマンスなんだ!と思います。

お互いのリスペクトなしではパフォーマンスは成立しません。

自分のパフォーマンスショーを探していた1983年に、ある書籍に出会いました。

マリア・ガブリエル・ヴォジーン著の「神聖舞踏 神々との出あい」です。
内容は、パントマイムとは無縁でしたが、とても興味深かったです。
その本によると世界の舞踊は神事に通じる的な解釈でした。ソレガシ、その本の表紙が魅力的で購入した様な気がします。
購入したCDもそのほとんどがジャケット買いです。


(参考写真その8)
(神聖舞踏の表紙、顔が沢山あるところは、仮面パフォーマンスに、手が沢山あるところは、手いっぱいのジャケットのダンスへと、アイデアが広がりました)

10ヶ月のリハビリ期間の休憩中、繰り返し読んでいました。
古本屋に売らなくて本当に良かったです(笑)

ソレガシは読書は子供の頃から苦手でした。
それでもナカハラ・チュウヤやカネコ・ミスズやタニカワ・シュンタロウなど読みやすそうな本は読んでました。

足が使えなかった期間は映画DVDも沢山みました。
ソレガシはアクション映画好きなので、ブルース・リー、ジャッキー・チェン、ジェット・リー、ドニー・イェン、ジェイソン・ステイサム、トニー・ジャーなど徒手格闘系のアクション映画を観てました。
そのアクションコーディネーターや振り付け家のセンスに刺激を受けモチベーションを上げてました。

今、振り返ると何とか現場復帰するための起爆剤にしたかったんだと思います。

(つづく)

TEN-SHO

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