蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

死也全機現

2005年06月12日 07時53分36秒 | 不知道正法眼蔵
たしか去年のことだったと思う。わたしの自宅近くの道路で、猫がひき逃げされて落命した。朝、道の真ん中に轢死体があったのを目撃したけれども、わたしはそのまま見てみぬ振りをした。強烈な不快感だけしか感じなかった。数時間して同じ場所を通ったら、亡骸が歩道の植込みのところに退避されていた。奇特な人が処置したのだと思う。さらに翌日にはそれがなくなっていた。役所に連絡して始末してもらったに違いない。むかしは犬猫の骸なんぞ、いつまでたっても放置されていたものだが、まあそれだけ人々の心持に余裕が出てきたということになるのだろうか。それはそうと、わたしとはなんの拘わりもない猫だったので悲しいとかいった感情は起こらなかったけれども、この一件が「生き死に」ということについてほんの少しだけ考えるきっかけを造ってくれた。
道元禅師は生について「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり、死は全機現なり。しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり」(正法眼蔵第二十二 全機)(注1)といっている。なるほどねえ、生きるということは何処からか来たものでも、何処かへ去っていくものでもない。来るものでなければ現れるものかというとそうではない。何処かへ去っていくのでなければ生成変化するのかというとそうでもない。ここでは生の本質がどこかイデアの世界からやってくるといったプラトンのミュトスや、ヘーゲル流の自然における自己発展を基礎付ける弁証法哲学は完全に否定される。そのうえで道元禅師は生やそして死もまた全ての機能の完全な現成であるという。自己の持っている特性、というよりは数え切れないほどの特性の総体としての生命体が全機能を完全に現成するとき、そのなかに生も死も含まれてしまうのだそうだ。生死という生命体の絶対的形式はここで否定され、特性の総体としての自己のうちに還元されてしまう、ということか。というよりも恐らく生死という現象そのものが重要なのではなくて、生死をも含めて一個の生命体、特性の総体としての生命体の全ての機能が現実に完璧に成就するそのことこそ、最も大切なことなのだといっている(と思う)。
そこでひき逃げされた猫にもどって考えてみると、その猫、たぶん野良だったことと思うが、彼または彼女は生まれてから死ぬときまで自分の全機能を完全に成就させて一瞬一瞬を行動していたかのどうか。わたしはしていたことと思う。野良猫にとって軽く流して過ごせる瞬間などなかっただろうから。それでは軽く流して過ごすことの多い人間は野良猫よりも真如から遠い存在なのか。そうだともいえるし、そうでないともいえる。だってそもそも人間と猫を比較してあっちが上等だこっち下等だと議論すること自体がナンセンスなことなのではないだろうか。六道輪廻のなかで猫も人間もぐるぐると生まれ変わるという意味では互いに救われない存在なのですからね。

(注1)『日本思想体系12 道元(上)』275頁 岩波書店 1970年5月25日第1刷

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