蜘蛛網飛行日誌

夢中説夢。夢の中で夢を説く。夢が空で空が現実ならばただ現実の中で現実を語っているだけ。

我愛欧羅巴影片(五)

2005年09月07日 03時09分07秒 | 昔の映画
むかしむかし学校でドイツ語初級の授業のとき、アーベントィアと聞いて何のことだか判らなかった。アバンチュールと聞けば恋愛事のイメージしか浮かばなかった。これらがラテン語の"advenio"を語源としていると知ったのはもっと後のことだった。"advenio"の意味は動詞"venio"「来る、生ずる、起こる、(ある状態に)陥る」に方向を表す前綴り"ad"が付いてできた合成語であり、ここから"advena"「異国の人、旅人」という言葉が出てくる。なるほどね、「恋の旅人」か、なかなかロマンチックじゃないか。などと当時のわたしは馬鹿みたいに感心したものだ。
今回はフランスSociété Nouvell de Cinématographie1967年製作の"Les Aventuriers"、邦題「冒険者たち」について。某サイトにこの作品をアメリカ映画であるとしてご丁寧に"The Last Adventure"などという下卑た英語題名まで紹介してくれていたが、これはあくまでフランス映画です。
ところで、この作品についてはもう語りつくされていて、この上いったい何を付け加えることができるのだろう。フランソワ・ド・ルーベの音楽や海上要塞の廃墟風景などの美しさにも多く言及されているけれども、その語られている内容を煎じ詰めれば要するに「三角関係」「マヌーとローランの友情」「レティシアへのプラトニックラブ」この三点に尽きるように思われる。べつに間違いだとはいわない。たしかにそうなのかも知れない。作品中で明示的に物語られていない限り、観客がどうのうように解釈しようとそれは自由だし、むしろそのようにいろいろな解釈がある物語ほど人をひきつけるものだから。しかし解釈があまりに似通ったものに集中してくると、これはちょっとつまらないのではないか。わたしはそう思う。
たとえば上記の三点についていうならば、一番目の「三角関係」、これにわたしは賛同しかねる。三角関係を「一人の男と二人の女、または一人の女と二人の男との間の複雑な恋愛関係」という意味に取る限り、これは主人公三人の関係には当てはまらない。この映画のどこを観てもレティシアとマヌー、レティシアとローランの「恋愛」関係は直接的にも間接的にも見て取ることがわたしにはできないからだ。もしも「恋愛」関係が成り立ったならばこの映画はその時点で破綻してしまう。
「マヌーとローランの友情」、先ほども書いたように間違いではない。でもこの二人の関係を単なる「友情」という言葉に還元してしまうと、とたんに作品全体が薄っぺらくなってしまう。ロベール・アンリコはハリウッド型冒険活劇を作ろうとしたわけではない。マヌーとローランの関係が同年輩同士の友情だけで繋がっているのでないことは、この二人の年齢差を見れば歴然としている。青年期を終わろうとしているマヌーと、老眼鏡をかけなければ計器類が見えなくなってきている中年男ローランの間には「友情」だけではない何かがる。かつて折口信夫は師弟関係は恋愛関係となってこそ本物なのだ、というようなことを言ったとどこかで読んだ記憶があるけれども、折口はもちろんこれを男色という意味で言っていることは確かだが、「恋愛」感情というのが異性間でしか成立しないという考え方のほうがむしろ特異なのであって、そもそも人間同士の関係は「友情」や「恋愛」に厳密に分類できるものなのだろうか。ことはそれほど単純ではないように思う。
そのように考えてくると「レティシアへのプラトニックラブ」というのもかなり紋切り型の解釈ではないか。この場合「プラトニックラブ」は性交を伴わない恋愛関係という意味で使われる。これはこの言葉本来の意味ではなのだが、たしかに「プラトニックラブ」というキーワードは便利だ。しかしそもそも「愛情」とは精神的な衝動なのでる。異性関係には性交のない「恋愛」感情もあれば、「恋愛」感情のない性交もある。現実には後者のほうが多いのではないか。
何回読んでも飽きない小説、何回観ても飽きない芝居や映画には必ず謎が仕込まれていて、この謎の部分が読むごとに、観るごとに変化してくる。物語の本当の楽しみはここにあるのだと思う。

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