むかしの映画館は音響効果がわるかった。日比谷などの一流館はおくとして、渋谷、新宿、池袋などの小屋は総じて音が割れていた。だからわたしの子供の頃の映画館の記憶は、洋画の音声のあの独特の響きだった。今でこそドルビーなんとかシステムですっかり様変わりしてしまったが、例えばイタリア映画などは逆にあの音声の響きがよけいに雰囲気を盛り上げていたようにも思う。
最近めっきり映画を観なくなってしまった。わたしの知っているもっとも新しいイタリア映画といったら「カオス・シチリア物語」や「パードレ・パドローネ」というのだからお話にならない。それにしてもあのオメロ・アントヌッティという俳優はいい。野卑な男から知性ある紳士まで何を演じても様になっているからすごい。そこでアントヌッティ主演の作品について語りたかったのだけれども、ちょっと資料不足ゆえ別の機会にまわすことにして、今回は古いイタリア映画、カルロ・ポンティ製作一九五六年イタリア映画「鉄道員」(Il Ferroviere)を取り上げる。
四十代くらいまでの人には馴染みない作品かもしれない。わたしだってこの映画を初公開当時観ることのできた年代ではないのだから。最初に観たのは高校生の頃だったと思うがどうも記憶が曖昧だ。しかしあのカルロ・ルスティケッリの哀愁漂う音楽だけでも日本人の観客には充分受けた。ま、いうならばイタリア版家庭劇といったらよいだろう。アクションもなければもちろんセックスシーンもない、むかし風に表現すれば「文部省推薦」。あるイタリア国鉄職員の一年間の物語で、主人公の機関士アンドレアを演じているのはこの作品の監督でもあるピエトロ・ジェルミ。いま主人公を機関士アンドレアとしたが、じつは正確な表現ではない。この映画は彼の末息子であるサンドロ少年(エドアルド・ネボラ)の目線でみた家族の物語だからだ。したがってもしかしたら本当の主人公はサンドロ少年かもしれない。
仲間付き合いはよいのだが、家庭では暴君のアンドレアは長男や長女からは嫌われている。しかしサンドロ少年にとっては特急列車機関士の父は英雄的存在である。小学校低学年のころはまだ父親は偉大に見えた、そんな素朴な時代が舞台となっている。しかもアンドレアは第二次大戦中にはレジスタンス活動の経験もある戦争の影を引きずる男だということを忘れるわけにはいかない。だからサンドロ少年にとっては父親は単に機関士として以上に英雄なのだが,いっぽう長男(リナート・スペツィアーリ)や長女(シルヴァ・コシナ)は家庭における現在の父親しか評価しない。母親に手を上げたり、長女が妊娠すれば相手と強引に結婚させて世間体を繕うほんの五十年くらい前、つまりこの映画の舞台と同じ時代の日本でも普通に見られた父親像は、戦後世代の彼らとって因循姑息以外の何ものでもない。そのような中、衝突事故未遂を起こして査問委員会にかけられ、その結果市内を走る小さな貨物列車の運転士に左遷されたアンドレアは自棄となり、ついには当局にのせられてスト破りを犯すこととなる。ここから転落が始まる。アンドレアは家にも戻らず酒場でコールガール相手に安ワインを浴びる毎日を送るようになり、それが元でとうとう身体を壊してしまうのだ。
しかしそこは家庭劇で、最後は職場の仲間とも家族とも和解し、クリスマス・イブのパーティーには自宅に多くの仕事仲間や家族が集い、絶えて久しかった賑やかさが戻ってくる。さてこれで大団円だったら白けてしまうところだがそこは名匠ピエトロ・ジェルミ監督ちゃんと話を作ってくれていて、機関士アンドレアは皆が教会のミサに出かけたあと、残った妻が台所で片付け物をしているとき、ベットに身体を横たえ彼女のために得意のギターでセレナーデをひきながら永遠の眠りにつく。
ところで、この映画のもう一人の主人公それが母親。ルイザ・デラ・ノーチェが演じていたが、これがいいんですねえ。ぽっちゃり型のいかにもイタリア母さんって感じで、彼女の存在が下手すりゃ家族崩壊になりかねないこの一家を救っている。彼女はジェルミ監督の「わらの男」でも似たような設定の役を演じているが、このルイザ・デラ・ノーチェの表情が本当によい。ラストシーン、アンドレアの死から数ヶ月経ち生活に落ち着きを取り戻した一家。グレてすさんだ生活を送っていた長男も更生して父と同じ国鉄で働くようになったある朝、国鉄官舎アパート自室前の階段踊場でサンドロ少年と長男が出かけて行くのを見送る母親。階下の部屋から隣人が出てきてボン・ジョルノと彼女に挨拶する。しかし彼女はその声に気付くことなく、ふっと寂しそうに虚空を見つめる。この一瞬の表情が絶品。まるで泰西名画の世界なのだ。
最近めっきり映画を観なくなってしまった。わたしの知っているもっとも新しいイタリア映画といったら「カオス・シチリア物語」や「パードレ・パドローネ」というのだからお話にならない。それにしてもあのオメロ・アントヌッティという俳優はいい。野卑な男から知性ある紳士まで何を演じても様になっているからすごい。そこでアントヌッティ主演の作品について語りたかったのだけれども、ちょっと資料不足ゆえ別の機会にまわすことにして、今回は古いイタリア映画、カルロ・ポンティ製作一九五六年イタリア映画「鉄道員」(Il Ferroviere)を取り上げる。
四十代くらいまでの人には馴染みない作品かもしれない。わたしだってこの映画を初公開当時観ることのできた年代ではないのだから。最初に観たのは高校生の頃だったと思うがどうも記憶が曖昧だ。しかしあのカルロ・ルスティケッリの哀愁漂う音楽だけでも日本人の観客には充分受けた。ま、いうならばイタリア版家庭劇といったらよいだろう。アクションもなければもちろんセックスシーンもない、むかし風に表現すれば「文部省推薦」。あるイタリア国鉄職員の一年間の物語で、主人公の機関士アンドレアを演じているのはこの作品の監督でもあるピエトロ・ジェルミ。いま主人公を機関士アンドレアとしたが、じつは正確な表現ではない。この映画は彼の末息子であるサンドロ少年(エドアルド・ネボラ)の目線でみた家族の物語だからだ。したがってもしかしたら本当の主人公はサンドロ少年かもしれない。
仲間付き合いはよいのだが、家庭では暴君のアンドレアは長男や長女からは嫌われている。しかしサンドロ少年にとっては特急列車機関士の父は英雄的存在である。小学校低学年のころはまだ父親は偉大に見えた、そんな素朴な時代が舞台となっている。しかもアンドレアは第二次大戦中にはレジスタンス活動の経験もある戦争の影を引きずる男だということを忘れるわけにはいかない。だからサンドロ少年にとっては父親は単に機関士として以上に英雄なのだが,いっぽう長男(リナート・スペツィアーリ)や長女(シルヴァ・コシナ)は家庭における現在の父親しか評価しない。母親に手を上げたり、長女が妊娠すれば相手と強引に結婚させて世間体を繕うほんの五十年くらい前、つまりこの映画の舞台と同じ時代の日本でも普通に見られた父親像は、戦後世代の彼らとって因循姑息以外の何ものでもない。そのような中、衝突事故未遂を起こして査問委員会にかけられ、その結果市内を走る小さな貨物列車の運転士に左遷されたアンドレアは自棄となり、ついには当局にのせられてスト破りを犯すこととなる。ここから転落が始まる。アンドレアは家にも戻らず酒場でコールガール相手に安ワインを浴びる毎日を送るようになり、それが元でとうとう身体を壊してしまうのだ。
しかしそこは家庭劇で、最後は職場の仲間とも家族とも和解し、クリスマス・イブのパーティーには自宅に多くの仕事仲間や家族が集い、絶えて久しかった賑やかさが戻ってくる。さてこれで大団円だったら白けてしまうところだがそこは名匠ピエトロ・ジェルミ監督ちゃんと話を作ってくれていて、機関士アンドレアは皆が教会のミサに出かけたあと、残った妻が台所で片付け物をしているとき、ベットに身体を横たえ彼女のために得意のギターでセレナーデをひきながら永遠の眠りにつく。
ところで、この映画のもう一人の主人公それが母親。ルイザ・デラ・ノーチェが演じていたが、これがいいんですねえ。ぽっちゃり型のいかにもイタリア母さんって感じで、彼女の存在が下手すりゃ家族崩壊になりかねないこの一家を救っている。彼女はジェルミ監督の「わらの男」でも似たような設定の役を演じているが、このルイザ・デラ・ノーチェの表情が本当によい。ラストシーン、アンドレアの死から数ヶ月経ち生活に落ち着きを取り戻した一家。グレてすさんだ生活を送っていた長男も更生して父と同じ国鉄で働くようになったある朝、国鉄官舎アパート自室前の階段踊場でサンドロ少年と長男が出かけて行くのを見送る母親。階下の部屋から隣人が出てきてボン・ジョルノと彼女に挨拶する。しかし彼女はその声に気付くことなく、ふっと寂しそうに虚空を見つめる。この一瞬の表情が絶品。まるで泰西名画の世界なのだ。