忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

理想の夫婦とはライバル夫婦でもある?

2010年06月07日 | 過去記事
吉本芸人で「手相占い」をする人が人気だ。場末のバーでも何人かの「なんちゃって手相占い師」が登場する。女の子の手を弄くり回すには格好の理由だ。付け焼刃の恋愛線がどうの、感情線がどうした、結婚線があるとかないとか、これが結構、ウケている。ちょっとした専門用語を交える口達者ならば、30分はモテることもできよう。

テレビでも毎朝、今日の占いなんとかとして、血液型や星座から色を選んだりするものまで、まあ、飽きもせずにやっている。男性はあまり興味が無いのか、朝のテレビで「ラッキーカラーは赤、ラッキーナンバーは6」などと言われても昼には忘れている。「ランチに冷やし中華を食べると運気がアップ」などと言われていても、昼にはざるそば喰ったりする。今日は大きな仕事があるぞ!という日に「今日のごめんなさいは残念、ふたご座のあなた」とか言われても仕事を休んだりもしないし、失敗の言い訳にすらならない。

しかし、やっぱり女性は興味があるようだ。我が妻も例外に漏れず、これが結構な占い好きで困る。先日も「365日占い」とやらの本を懸命に読んでいたかと思えば、大きな声を上げて私を呼びつける。みると、私の誕生日である5月22日のところには「生涯のライバル」として6月27日生まれの人と書いてあった。この日は妻の誕生日だ。もちろん、妻の誕生日も「生涯のライバル」には私の誕生日が記されていた。なんの嫌がらせなのか。

妻はその気である(笑。

「おとしゃんはライバルやからな!」という宣戦布告までされる始末。私は今晩の「からあげ」が心配になった。そういえば、我が妻は何かと私と張り合おうとするが、それもやはり「ライバル・好敵手」だからなのであろうか。私がハゲリーマンと虹の会を結成した際もすぐ「虹の会を潰す会」を立ち上げて会長の座に収まった。会員はひとりである。

まあでも、良い意味での競争心は問題ない。「おとしゃんもがんばってるから、わたしもがんばる!」もある意味では競争、ライバル関係だ。妻に笑われたくない、がっかりさせたくないで私が頑張るのも、そういう意味では「妻をライバル視」しているのかもしれない。

また、プロスポーツの世界などにもライバルは欠かせない。そのドラマがスポーツを意義深いものにしたりもする。単なる結果だけを競うアマチュア的なニュアンスから、連続性のあるストーリーへと昇華する。「相手の力を認め合った者同士」の本気で競い合う姿は、それを観る者へも影響を及ぼす。それはフェア精神を生み、ルールを遵守することは美学となる。戦乱の世であってもそうだった。塩不足で困る甲斐の国、武田信玄に上杉謙信は塩を贈ったから川中島の合戦を戦うことが出来た。タイガーウッズは相手が難しいパターを入れようとする時「入れ!」と念じるらしい。自分と戦う相手は下手糞では困るのだ。

「お互いを認め合って、あるときは助け合ってでも正々堂々と戦う」ということは、互いの成長や戦いそのものに意味を与える行為なのだとわかる。フェアに競い合うことは互いが伸びること、いざ尋常に勝負とすることは「競争を無意味化させない」ということだ。

また、ライバル・好敵手とは「単なる勝利」を目的ともしない。あくまでも「勝利」とは結果であって目的ではない。例えばジャイアント馬場とアントニオ猪木のライバル関係とは「相手に勝つ」ことによる「プロレス界の発展」だったりする。王と長嶋の関係もそう、読売巨人軍は永久に不滅ですという根拠とは、プロ野球界の発展が目的でなければ困る。

ンで、困るといえば、それは現在の日本の政党だ。日本も2大政党制を目指した方がいいという識者は少なくないが、民主党のライバルを問えば、おそらく相当数が自民党と答えるのかもしれない。しかしながら、そのライバル関係とはおよそ、先ほどのようなフェア精神に則ったモノではないから困るのだ。要するに「相手が負ければ勝ち」という、競争らしからぬ、およそ最低な判断基準における「醜い争い」に堕してしまって久しい。

「勝てば官軍」はよくいわれる。個人でも企業でも、いわゆる社会とは「競争社会」のことをいう。それは誰も否定しない。同僚にライバルがいたり、ライバル企業があったりすることから切磋琢磨、互いに競い合うことで総合的に伸びることもある。これは健全な競争原理のことである。また、日教組などの「子供に競争をさせない方針」とは「競争力を無くした社会人」を大量生産するための手段であり、日本国の弱体化を目的とした工作であると自明であるが、これらは教える側の日教組自身も「その手段では結果的に解決しない」と既知であることから悪質な国家解体工作であるとしれるわけだ。親のいない子に配慮し、運動会などでは教室で昼飯を喰わせるのも、それをしたからといって「卒業後に親が出現することにならぬ」と誰でもわかる。どの子供も、それぞれ与えられたハンデは克服せねばならぬと教えることこそが教育であり、そのハンデを乗り越えようとする努力を理解し合い、支え合い、協力し合うことを学ぶことが肝要であることはいうまでもない。

これも同じく「相手に勝つこと」は単なる結果であり、あくまでも「全体の目的」からすれば、さほど重要ではない。競争することに意味があり、それは全体の目的に資するからこそ意義がある。日教組が何としても避けたい「学校における競争」も落第生をつくりたいわけではなく、テストで競わせることによる互恵的な成長を狙っており、全体の目的とは「日本の子供の学力向上」に他ならない。だから、日本の子供の学力が向上すると困る日教組が反対することは当然なのである。

さらに個人でも企業でも「勝つこと」はある種「生存条件」であるも、それ以前に「どう戦ったか」や「その結果から何を得たのか」のほうが重要だったりもする。例えば個人でも「何をもって勝ちとするか」はとても重要だ。金や地位で勝敗が決するような稚拙な勝負だけであれば、人類の進歩はなかっただろうと思えるほどつまらないものだ。最初からあるのもいるじゃないか(笑)。

分かりやすく言えば、企業同士のライバル関係において、製品の研究や人材の育成による競争ではなく、企業スパイを忍び込ませてアイデアを盗むことで相手に勝ったり、根も葉もないデマを撒き散らし、ライバル企業が風評被害によって負けた場合、そこから得るものは無価値だと思うわけだ。いや、もちろん、企業としてのシェアは広がり、多くの雇用も生みだし、多額の法人税を納めるわけだから意味があるじゃないかと言われるかもしれないが、さて、そこにどれほどの意味があるのだろうか。あくまでも、私が言う「全体の目的」において、である。

「自分が勝つことで相手が負ける」ことと「相手を負かすことで自分が勝つこと」は似て非なり、ここにライバル関係かどうかの判断材料がありそうだ。ライバル関係ならば、そこには互恵的な要因が含まれていなければならない。相互に成長できるという「全体の目的」が達せられていなければならない。少なくとも、その方向に進んでいなければならない。例えば、人類で最初の戦争とは「農耕民族VS農耕民族」だったと言われる。互いに喰う為に土地を奪い合った。これからもう、何年になるのだろう。人類はまだ殺し合いをする。これはライバル関係ではなく、すなわち「相手を負かすことが目的」による所以だ。



話が飛躍しそうだから戻すと、政党の目的は「この国を良くしたい」に他ならない。ただ、この「国を良くする」の定義が違っていたりするから議会制民主主義の国では議論を行い採決する。「良くしたい」と思う国に住む国民に信を問うことになる。「この国を動かせる権力が欲しい」は、その正当なる目的のための達成手段に過ぎないはずだ。

すなわち、去年の夏の選挙における「政権交代」とは手段に過ぎず、その先にある目的とは「日本の国を良くしたい」があるはずなのである。日本に存在することを許されている政党とは、すべからく「日本のため」になることが前提であり、すべての政党はより具体的に「どうやって日本を良くするのか」を国民に常に説明できねばならないし、そういう意味における「政党支持率」とは「どの手段が現実的か」あるいは「どの手段が効果的か」の支持率のことでもある。決して「クリーン」とか「透明感」などの政党のイメージが最優先されることはないはずなのだ。

しかし現実はそうなっていない。だから看板を掛け替えれば中身の評価は忘れられる。国会とは議論の場であるはずだが、単なる罵り合いの場になり果てている。自分で転んで相手を責めるというバカバカしい喜劇までが行われる。ところで懲罰動議はどうなったんだろう。包帯が取れた三宅雪子もすっとぼけてないで、ちゃっちゃと甘利議員を吊るせばいいのだ。山岡も日本国民が忘れていると思っているのかもしれないが、しっかりとけじめをつけてもらいたい。国民はワクテカしながら待っている。

自民党が下野したとき支持者は言った。

「自民党、なにをやっているんだ!」

これは下野したにもかかわらず、未だ与党ボケが感じられる派閥政治から脱却できなかったためだ。有名な古い自民党議員は飛び出した。立党精神を思い出せと叱咤激励が飛んだ。当然のことだ。現在の自民党総裁も「頼りない」とか「存在感が薄い」などと言われている。自民党らしさが失われたと嘆いている。民主党があれほど大コケしているのに自民党の支持が上がらないとの焦りもある。「自民党、なにをやっているんだ!」である。

しかし、民主党に向けられる「民主党、なにをやっているんだ!」の意味は同じではない。本当に「なにをやっているのか」分からない不気味さがあるのだ。だから、この言葉は民主党支持者以外から発せられる。日本と日本国民に対してなにをやっているんだ!である。

それに政権を担う政党として、その理念や政策に対する批判だけではなく、あくまでも組織として、プロの政治家として、良識ある社会人として「なにをやっているんだ?」という呆れた意味もある。身の丈に合わせた「常識の範疇」で評価しても、こんなのが会社にいれば仕事にならない、こんなのが身内にいれば放っておけない、というレベルの「?」が頻発する。党利党略が過ぎて「全体の目的」が放擲されている。自我、邪心、私的権力闘争により「全体の目的」がボロ雑巾のように捨て去られている。

少なくとも現在、朝鮮半島は緊張感が増している。宮崎の口蹄疫も収束していない。鳩山政権の迷走で普天間の問題もややこしくなった。「日本の国を良くする」という全体の目的において、必ずしも万全とは言い難い状況である。そんな状況をして、政権を放り出した鳩山由紀夫は呑気にも、東京工業大学で間の抜けた講演をしている。

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100605/plc1006052009017-n1.htm
<恥ずかしいがまだ総理。あながち嘘ではない>

もうやめたのだから叩くまい、もわかる。しかし、本人も言う通り、まだ、日本の総理大臣は法的に鳩山由紀夫なのである。少なくともあの辞任会見で「国民が聞く耳を持ってなかった」とは言いながら「10年、20年すれば、鳩山が言っていたことが分かる」などという自画自賛もあったが、たしかに己の責任を認め、小沢を抱いて辞任したことに対する同情論も聞こえていた。しかし、この講演内容を見る限り、なんとも気の抜けた情けなさだ。阿呆臭すぎるのである。この男、本当に愚かなのである。

自民党は少なくとも、政治家による政党だった。そこにはプロの仕事が感じられた。だから国民もマスコミも呑気に批判することもできた。野党も自民党の悪口を言っておれば、それが仕事となった。しかし、現在の民主党、叩けない、叩いている場合ではないのである。素人、社会人的素人が組織のトップにあり、そこに「ど左翼」が介入して牛耳り、内部的にはとんでもないことになっているのではなかろうか。もちろん、当たり前だが有能な人材もいる。本当の政治家も点在する。しかし、悲しいかな、濁流のように押し寄せる非常識に飲み込まれ、信じられないお粗末さを前にして、茫然自失、マトモな人材だけに己を見失うことになっているのではないかと案ずる。

まだ、なんとかしようと苦悩している。せっかく示された民意、歴史的な政権交代を「日本を良くするために」無駄にしてはならぬと奮闘しているのだろう。しかし、残念ながら、そこは客観的視点、岡目八目、傍から見ればよくわかる。もう、そこはそのレベルにない。


2大政党が国益のために競い合う。どちらの政策が日本の国益に適うのか、どちらの理念が日本の国家の尊厳を護れるのかをライバルとして議論する。どちらの政党も日本の政党なのだから、どちらが政権を担おうとも日本国と日本国民は、日本の国家国民としての恩恵を受けることが出来る。今現在をより良くするために、優れた人間が優れた人間と共に、愛すべき国家のために尽力する。

鳩山由紀夫の次に総理になる管直人という政治家は、拉致実行犯のシン・ガンスの釈放嘆願書に署名したことがある。これだけでも日本の総理大臣としての資質はともかく、資格は問われねばならない。本人は未だに謝罪も反省もしていない。鳩山政権がこの8カ月で日本の国益を損ない続けたとき、この次期総理大臣は民主党本部の玄関を掃除していたアルバイトではない。副総理という要職にいた男である。NO2である。当然、その間、なにをしていたのかも問われねばならないが、ニコニコしながら鳩山政権の意志を踏襲すると言ったら支持率が少し上がったらしい。溜息が出る。


文句だけ言っていればよかった無責任議員と、政局重視の志のない執行部、そこに明確な意図をもった「ど左翼」が紛れ込んだ組織の本領はこれから発揮されるのだろう。

ちなみに英語の「rival」に好敵手という意味はない。宿敵となるそうだ。現在の民主党、この組織も日本の政党の好敵手ではない。英語なら「enemy」(敵)となろう。





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