忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

世界を救う「AIMAI」

2013年06月09日 | 過去記事



朝鮮戦争のとき、支那の軍隊に捕まった米兵の青年がいた。しかし、休戦後の捕虜交換で米兵は支那に残ることを決める。気に入ったわけだ。

それからしばらく、青年は支那で自動車修理工として働く。変わった毛唐だと思っていたら、やっぱり「帰りたい」を言い出した。アメリカと喧嘩するわけにいかない北京政府は国外退去を許した。イギリスの共産党機関紙が青年を取材している。その理由は「人民が真面目過ぎる」だった。息が詰まる。それから「北京では女も買えない」。

支那共産党の建前が生きていた時代だ。あくまでも自由はある。あれをやるな、これをするな、と我が共産党政府は言わない。ただ我が人民は至極真面目であり、その高い民度から品行方正を選ぶ、と北朝鮮みたいなことを真顔で言っていた。

例えば麻雀。支那人と言えば上海事変の最中でも、戦車の砲台の真下で麻雀をやって、当時、そこを取材していた朝日新聞の門田勲を驚かせている。しかしながら、これも共産党政府下の支那ではぴたりと見かけない。外国人記者らは「処刑でもされるのか」と案じたが、支那共産党に言わせると「賭博を禁止しただけ」となる。

いまの日本。あちこちに雀荘がある。もちろん、日本も賭博は禁止だが、少々、小遣いをかけてやるくらいはあるだろう、と女子プロゴルファの父親でも知っている。会社の慰安旅行の際、オッサンらが屯するバスの後部座席周辺は「おいちょかぶ」で楽しい鉄火場になるのも相場だ。1万円勝ったとか土産代がなくなった、などで旅行中は盛り上がる。それでパトカーがサイレン鳴らして、バスに乗り合わせていた30人を一斉逮捕、とか聞いたこともない。これには二つ理由があって「取り締まらない」と「取り締まれない」になる。

そこで例えば支那人が威張る。日本は堕落している、順法精神が希薄だ、とか。そう言われた日本人は頭を掻いて照れ笑いで誤魔化すが、それじゃあ、支那人は本当に麻雀をやっていないのか、となれば、それはそんなことはない。ただ、徹底的に隠れてやった。古き良き時代があったどうかはアレとして、支那人は戦場で卓を広げるほど博打好きだった。それが街の風景から一瞬にして消える、というのは民度がどうのと別の理由、つまり、人民警察にたかられるからだ。賄賂を欲しがる汚職警察の小遣いにされるからだった。

最近、パチンコ業界も衰退し切って大変だが、以前からよく「駅前に博打場があるのは日本だけ」と叩かれていた。私が尊敬する西村眞悟氏もそう。高山正行氏もそう。「日本の恥」とまで書いていた。もちろん、外国でパチンコが普及しない理由もそこにある。庶民が堂々と、真昼間から「賭博場」に出入りするなんて、という感覚か。しかし、私はそれをずっと「日本人的な曖昧さの象徴」として「パチンコ悪くない」を言い続けている。

また、日本の場合、古くから売春宿は「曖昧屋」と呼ばれていたとここにも書いた。元禄三年、長崎にやってきたドイツ人医師のケンぺルは『江戸参府旅行日記』で、日本の旅館はすべてが事実上の女郎屋である、と驚きを述べている。スウェーデン人の植物学者だったツェンペリも、日本の港には女郎屋がある。多くは寺院の門前にあるとして「奇妙」だとしている。それも当然、江戸時代の日本には巨大な遊郭が25か所、それに全国津々浦々に女郎屋があった。いわゆる「飯盛旅篭屋」だ。それに非合法の「岡場所」や「夜鷹」もあった。どこに出しても恥ずかしくない性風俗大国だ。

いまでも男性だけ、あるいは一人で温泉街に旅行すると、仲居さんが「女の子は?」とか問うてくる。値段交渉もそのときにする。大胆にも仲居本人を売り込んでくるのもある。これも毎日、日本のどこかで繰り広げられる光景だが、その部屋に刑事が踊り込んで逮捕、とか聞いたこともない。そんなの張り込んでいる野暮な刑事もいない。

江戸参府に同行したシーボルトは「東海道」に女郎屋が並ぶ様子を驚きと共に記している(江戸参府紀行)。当時の東海道といえばメインストリートだ。その大通りに白昼堂々、商人も侍も僧侶も女郎屋に「よっ」ってな感じで入っていく。少なくない人通りの中、女郎は隠れもせず、開かれた玄関先で愛想をする。大阪市長が弁護士時代に顧問を務めた飛田新地とか、それはいまでもちゃんとある。日本の歴史的伝統文化と言っていい。

それを白人らは破廉恥だ、と罵った。野蛮な無法地帯じゃないか、と馬鹿にした。そして言う。我が祖国には売春などない。公的秩序が守られていて、公共良俗の概念が浸透していて、領民はすべからく清廉潔白で神の子供である―――これは共産主義国には泥棒がいない、に似る。つまり、子供にも通じない偽善だ。

日本は違った。「あるもんはある」としてルールを作り、あるいは「抜け穴」を用意した。そして、ここが肝心だが、日本人はその不文律とか暗黙の了解を護るモラルが備わっていた。曖昧さ、だ。これは100年後くらい、世界のいくつかの国が日本に学び「AIMAI」として広がる、かもしれないほどの高等なる価値観である。

その代わり、というか日本独特なのは金も払わずに「素人」の娘と遊ぶことを「意地汚い」と蔑視することだった。外国で言えば貴族がメイドに手をつけるとか、奴隷を買ってきて子を産ませるとか、それは日本人からすれば御法度だった。どころか素人女と遊ぶことは「地者挊(じものかせぎ)」と呼ばれて蔑みの対象だった。「ぼろっ買い」とも言われた。これは女性からも嫌われて馬鹿にされることだった。つまり、男は女遊びくらいすればいいが、女を泣かせるような、あるいは実生活に悪影響が及ぶような遊びはするな、という戒めだ。それなら稼いで金を使えと。それもたくさん使えということだった。

これはいま現在の日本の価値観にも通ずる。全部がそうだとは言わないが、普通の夫婦であれば「亭主の風俗遊び」で離婚まではしない。深刻な問題となるのは、会社の女性に手をつけて醜聞となったり、あまつさえ妊娠させて泥沼になったりする阿呆のことだ。つまり「地者挊」である。

そして白人らがもっと驚くのは「その後」である。つまり、遊女が引退して嫁ぐ。これが信じられなかった。江戸の庶民は遊女を白眼視しておらず、むしろ「親孝行な子」くらいに思っていた。どこのだれも「淫乱の男好き」とか思わない。貧しいから売られて、それで頑張ったのだとしか思わない。だから売る方も買う方も疾しいことはない。これが白人には500年経ってもわからない。神に隠れて売春婦は買うけれど、売春婦と結婚するなど神が許さない、という痛烈な自己矛盾、差別感情を克服できていない。

ましてや日本の場合「花魁」までの登りつめた遊女を「身受け」などすれば、旦那は隠すどころか自慢になった。「花魁」は遊女の最高位だ。これがどれほどかというと、例えばいま、夜の繁華街に遊びに行く。女性と遊ぶために店を回るとしよう。すると「底値」は数千円からあるだろう。それでは「高値」はどれほどかというと、たぶん、十万円ほどか(条件にもよるが)。しかし、当時の「花魁」は底値の数百倍以上である。一万円の店で遊ぶ客からすれば、その最高位とは数百万円になる。ひと晩で年収が吹っ飛ぶ。つまり、それほどの「値打ち」だった。

もちろん、好きでやっている遊女などいない、というのは「戦争反対」と同じく、阿呆でもわかる理屈だ。そんなことは当時の日本人の誰でもが知っていた。しかしながら、世の中には「致し方ない」という動かし難い事実がある。貧困や差別、格差などはあって当然なのが世の中だと知っていた。だから日本人は「本当は何が恥かしいのか」を考えざるを得なかった。貧しいからという理由で遊女になるのは恥ずかしいのか、それを買いに来る男は恥ずかしいのか、と自問自答した。その結果、ちゃんと前を向いて生きていればいいじゃないか、ということになった。ただ「お天道様がみてらしゃる」ということで、卑怯なこと、卑屈なことだけはしてはならぬとなった。

闇に隠れてこっそり女を買いに行き、それを勝手に「恥ずべきこと」にして売春婦を差別するとか、生活の方途をすべて奪った相手を「断れない・抵抗できない」と知りながら手籠にするとか、日本人はそちらのほうを「恥」とした。これはどれほど考えても、私は日本的マインドのほうが好ましいと思う。「人間」というものを深く理解していると思う。




朝日新聞の門田勲は「支那の自由」に対して痛烈な皮肉を書く(外国拝見)。ゴルフをしてもいい、ただしゴルフ場はない。女性は化粧をする自由もある。ただし化粧品はない。言論の自由もある。ただしデマと誹謗はダメ。なにがデマで誹謗かは当局が判断する。まるで白人列強の偽善の劣化コピーであるが、まさに「建前」を履き違えている。それにしても、門田勲という人は戦後間もなくの支那を面白く、正しく描写している。朝日新聞にも昔は凄い人がいたモノだ、と溜息が出る思いだが、もちろん、テレビも劣化してきた。


過日「たかじんの委員会」にケビン・メアが出ていた。アメリカの原爆投下をして「謝りませんよ」と即答し、相変わらずの「必要だった」を繰り返していた。また、パネリストから「米軍の立ち寄る基地周辺には売春施設がある」と指摘されると「あるのは知っている」としながら「でも禁止されている」を繰り返していた。

つまり、米兵は日常的に規則を破る。また、そこで働く女性も違法行為である。それでも合衆国政府や米軍は禁止しているから神は許される。禁止しているのに勝手にするわけだから女性の尊厳を蹂躙もしていない。つまり、そういう仕事をする女性に尊厳などない、と言っている。買う側の米兵も禁止されているのに勝手に規則を破る。つまり、兵士としての秩序すら守れない、と威張っている。この連中は500年以上が過ぎても成長しない。




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