忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

忘憂之物 12

2013年07月31日 | 過去記事




最近は行けていないが、我ら夫婦はよく美術館などにデートする。妻は恐竜博物館も好きだし、なにやら古い石があるだけのコーナーも好きだが、学生時代には美大も目指したほど絵心もあるそうな。比して私はダメだ。小学校の頃、少しだけ漫画家になりたいと思った時期もあったが、ストーリーはともかく画力とセンスが壊滅的になかった。

だから抽象画などをみてもわからない。退屈だから、と建物の防犯設備などをみていると、妻に叱られるのだった。せっかくだから一緒に絵を観ようと。

わからないから、と言ってみるとまた叱られる。なんでも「わかろうとする」のもどうか、と詰められる。でも正直なところ、画用紙に絵の具をぶちまけたようにしか見えないのだと泣き言を垂れると、なんと「それでいい」ということだった。

この絵はなにを描いているのか、どこの景色なのか、女なのか男なのか、果物なのか動物なのか、なにがしたいんだろう、と考え込む必要などまったくないのだと教えてもらった。観たまま、感じたまま「奇麗な色が出てる」とか「迫力がある線が描かれている」などを楽しみ、感動するらしい。また、これが美術館の絵画であるから、そんなに構えてしまうだけのことで、普段、そこらへんの建物のデザインやバッグの柄などはそうしてるやんけ、と言われたら、なるほどと思った。

例えば、我々はちゃんと読めず、意味すらわかっていないアルファベットが並ぶTシャツに疑問を生じない。あくまでも「デザイン」という枠で見て選んで着ている。女性の「スカートの柄」などもそうだ。なんとなく涼しそうとか、軽やかそうなどという雰囲気、それから色や形の「デザイン」を見て判断している。また、部屋の壁紙を変えようとするとき、そこに例えば「リンゴ」などの肖像を入れてしまうと、リンゴが好きなのかどうか、リンゴに縁がある人なのかどうか、などの意味が生じてしまうから重たくなる。そういう場合は普通、好きな色などをベースに「デザイン」を見て選んでいる。なるほどである。

しかし、我妻の賢いところは「どこでも抽象的」ではないところだ。例えばいま、映画館では宮崎アニメをやっているが、妻は京都府八幡にある「飛行神社」に行ったことを思い出し、ちゃんと二宮忠八と堀越二郎を区別できていた。二宮がいわゆる「飛行器」を開発したのは1889年、オートバイのエンジンを紹介する新聞記事を読んですぐ、これを飛行機の動力に使えないか、と思案し始めている。その発案、着手はライト兄弟よりも早く、ちゃんと英国王立航空協会が「玉虫型飛行器」を展示して説明文も標示している。

だから妻は「風立ちぬ」を観に行こう、とねだっても「反原発」とか「憲法9条」を抽象的に感じたりはしない。左に巻いた連中にちやほやされる監督やプロデューサーの宣伝効果もない。そこは「わからなければ、おとしゃんに聞く」というルールを守る。原発反対が良い人っぽいとか、平和憲法が優しい人みたいな「ファッション」に惑わされない。だからちゃんと「山本太郎は馬鹿」だと評価もできる。当選した、と聞けば「うわぁ」と嘆くこともする。バックが中核派で友達が社民党、普通、ろくなもんじゃないとわかる。

慰安婦が可哀想、もそう。これを抽象的に受け止めると思考が停止する。目の前の赤色が奇麗、とうっとりするように、だって目の前にいるじゃないの、で感極まってしまう。屁理屈は吉見義明とか、左巻き御用達の学者がしてくれる。自分らはただ、元売春婦のばあさんらに同情して、性風俗という職業を差別し蔑んでいれば済む。

そんないわゆる「従軍慰安婦問題」の泰斗(笑)である吉見義明が日本維新の会の代議士を訴えた。同代議士が記者会見で吉見の著作を「捏造」としたことで、名誉が傷ついたから1200万円支払え、という内容だ。自分は吉田清治じゃないぞ、と言いたい。

そして論調がまた変わっていることにも気付く。以前は「強制連行」だった。要すれば日本軍がトラックに乗って村々を襲い、山賊顔負けの粗野粗暴で若い女をさらっていく。その女らは兵隊の慰みモノにされて戦場に放置、戦後は証拠隠滅のために「処分」された女もいるとか、それはまあ、極悪非道な話だった。

あまりの嘘に心ある日本人が怒った。ちゃんとした学者も出てきて「ウソだ」をやった。その後も朝日新聞などは意図的に「女子挺身隊」を慰安婦と混同したり、人さらいは止めろ、ちゃんと給金を支払え、性病検査もするぞという「軍の関与」を悪意で染めて報じたりしたが、いよいよ「強制連行」はどうしようもない嘘だとバレてしまう。

すると「狭義・広義」が出てくる。本人が望んだわけではないから「広義」の意味では強制じゃないか、が言い分だった。ほとんどいちゃもんだ。

しかし、それも通じない。やはり「強制連行されて性奴隷にされた」ほどのインパクトはない。連中は国内には見切りをつけ、アメリカをはじめとする欧米諸国にスイッチした。「日本は悪魔だった」で喜ぶ白人の国に阿呆な石碑をいくつか建てた。そして国内向けには「人身売買」を言い出す。いま、吉見の言い分がこれだ。

吉見が「捏造じゃない」と言う部分は「人身売買はあった」だ。そしてこれを日本軍は看過したじゃないか、日本兵も一般国民も座視していたではないか、ということは同罪じゃないのか、ということだ。人身売買の結果、性風俗で働かされる、これは立派な「性奴隷」だと。

それなら親に騙されたも、業者に騙されたも関係ない。それを知りつつ放擲した日本軍の責任は追及できる、という論法だ。左巻きの連中は唸っただろう。さすがは学者先生様だと拝み倒した。だってこれなら人権侵害も女性差別も包含される。また、その原因である「貧困」も利用できる。戦争なんぞするから貧困に陥るわけであり、それはやっぱり軍政府の責任だ。時の国家権力の横暴だとできる。だからいまこそ平和憲法なんですよ、とも言いやすい。改憲なんぞ論外ですよ、と。

「抽象的」に慰安婦問題を騒いできた連中もうっとりする。人身売買なんて、なんて酷いことでしょう、と滂沱の涙を流せば「良い人対策」はばっちりだ。そこで「貧しい時代もあったのだ。でもそれは日本だけじゃない」とか言おうものなら、どこかの公党の代表市長みたいな憂い目に遭う。

どこの誰も「人身売買も仕方ない(時代もあった)」などとは言えない。おまけに合法でもない。少なくとも倫理的には許されない。だから言わなくていい。その代り、日本政府も徹底的に「それじゃあ、だれが人身売買をやったのか」を一緒に追求しましょう、とやればいい。そんな悪辣非道なことは許せない、いくら戦時中とはいえ、いったいどこのだれが、罪もないうら若き朝鮮人女性を騙して売らせたのか、を調べればいい。

当時の朝鮮半島の政府高官の8割は朝鮮人。地方の知事も政治家も朝鮮民族。警察官も軍人もたくさんいた。この人々はその現状を目の当たりにしていたはずだが、いったい何故にそれを許していたのか、を徹底的に調べ上げる。また何故に勇敢で誇り高い朝鮮民族はそれを許し、抗議活動も暴動も起こさなかったのか。朝鮮人中学生と日本人中学生の揉め事から、朝鮮全土に広がった抗議運動もあったほど、当時の朝鮮民族は「差別」や「迫害」には敏感だったはずではないか。

つまり、日本政府も軍も取り締まってはいたが、それでも高給取りの軍相手の売春は美味しかった。だから闇で取引する「女衒」が跋扈した。借金がある貧乏な家は娘を売ったかもしれない。ならば、そのような犯罪行為を「取り締まれなかった」日本の責任はどれほどか、を議論すればいい。いま、支那朝鮮人犯罪者が日本国内で犯罪し放題だが、これを「取り締まり切れない」日本の警察や国家の責任を追及するのと同じだ。

非人道的な人身売買をやった、あるいはやっていたならば「犯人」がいる。そして残念ながら、それは日本軍ではなかった。わかっているのは日本軍が今の時代と同じく、性風俗営業には「関与」して「管理」していた。その裏で人身売買が横行していた、且つ、当時の誇り高い朝鮮民族も何ら反応もしなかった。その理由は?その犯人は?

吉見センセイは是非、当時公募された慰安婦の「前貸金」の10倍ものカネを要求していないで、可哀想な人身売買の被害者オモニのため、一肌脱いでいただきたい。




2 コメント

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Unknown (あきぼん)
2013-08-02 08:59:05
漫画化の才能あったのに・・
「学生大戦」の続き待ってますw
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Unknown (久代千代太郎)
2013-08-08 20:52:10
>あきぼん どの

がくせいたいせんw

やめろくださいwwやめてw
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