忘憂之物

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             渋沢栄一

9条改正めぐり賛否=各党が見解、集団的自衛権も論議>2012.5.31

2012年05月31日 | 過去記事

    




http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120531-00000103-jij-pol
<9条改正めぐり賛否=各党が見解、集団的自衛権も論議―衆院憲法審>

<衆院憲法審査会は31日、国会内で「戦争の放棄」を定めた憲法9条の改正などについて議論した。自民党の中谷元氏は「国家の自衛権は国連憲章で認められている」と述べ、9条改正を通じて集団的自衛権の行使を認めるべきだと主張。これに対し、公明、共産、社民各党は「平和憲法はアジア諸国の共通財産だ」(共産党の笠井亮氏)などと改正への慎重論を展開した。
 民主党は憲法改正に関する党内論議がまとまっておらず、逢坂誠二氏が「(9条は)平和国家日本を示すものとして今後も引き継ぐべきだ」とした2005年の憲法提言を紹介するにとどめた>








国際連合憲章の条文には、未だ日本は「敵国条項」に加えられている。第二次世界大戦の戦勝国で作られた国際連合の中では、たかだか北朝鮮に対する非難決議すら常任理事国である支那やロシアの反対でどうにもならないのが現実だ。そんな国連にあっても「国家の自衛権」までは取り上げることが出来なかった。アメリカは日本から武力を取り上げたり、そのあと、ちょっとだけ持たせたりしたが、それも自国の都合によるものであった。

アメリカは日本が二度と白人様の敵にならぬよう、憲法を押し付けたり、官僚を優遇したり、自虐史観を擦り込んだりした。そのためにメディアも教育も利用した。御蔭で戦後日本人は自分らを「悪の侵略国家の子孫」だと信じ込み、小役人はエリート意識丸出し、支那人のようにコソ泥してもよろしい、と思い込んだ。規範意識も何もなかった。その首輪の鎖が「憲法9条」だった。我々の国は主権国家ではありません、歴史ある立派な国でもありません、従って自衛権も要りません、宣戦布告されたら即時、敗戦で結構です、というおかしな国になった。その狂気の沙汰は市町村レベルで「無防備都市宣言」を出すところまでいった。大のオトナが「侵略されれば殺されたらいいじゃない」と公言するまでになった。

心の綺麗な左巻きは、本気で「平和的に解決しましょうよ」と言えば、相手国の外交担当者も「そうですね、なんか、わたし、涙が出て参りました」と言うと思っている。しかし、それでも相手が「NO」しか言わぬとき、それが日本にとって国益を損なう事案であれば、それはそれで我慢しましょうとなる。辛抱強く、あくまでも平和的に対話による外交で解決しましょうとなる。相手の気が済むなら謝罪もしましょう、やっていない罪も認めましょう、援助も惜しみなく行いましょう、でずっとやってきた結果が今だったりする。つまり、なにも改善されていない。問題も解決できていない。代わりに日本の国益やら誇りはズタズタ、領民も領土も護れていない。


<「平和憲法はアジア諸国の共通財産だ」(共産党の笠井亮氏)>とのことだが、これの本当の意味は「平和憲法がある日本は特定アジアの共通財産だ」が正しい。日本が武力で自衛するなど言語道断、支那共産党が困るような事態は許すまじ、そのために自分は日本なんかで国会議員になっているのだ、という自負心溢れる決意表明である。

こういう連中は、日本人が「日本が大嫌い。中国は大好き。KARAも好き」と言えば身悶えして喜ぶ。日教組の教師も、教え子が「日本人として生まれてきて申し訳ない」とか作文を書けば花丸をくれる。「日本人は過去の反省を忘れているのではないか。若者の右傾化は深刻だ。軍靴の足音が」と書けば、朝日新聞は読者の窓を全開、掲載して図書カードをくれる。日本だけは軍隊を持つべきではない、という妙なコメントをすればテレビにも出られる。いまなら「生活保護はプライバシーの問題」と言えばよろしいが、そんな連中が大好きな支那では1999年に「生活保障制度」を作った。誰でも受けられるわけではないのだろうが、社会主義の国らしく、喰えないならなんとかするアル、ということだから、連中はもっと自慢すればよろしいのだが、じつはコレには条件が付加されていて「申請者、受給者の個人情報を公開する」とあるから、連中からすれば藪蛇、だからテレビで言わない。バカバカしい限りだ。

日本はいま、専守防衛とか集団的自衛権とかやっている場合でもなく、本来、マトモな議論とすれば、例えば核武装とかやらなければならない。原子力潜水艦をやらなければならない。これは過激でも何でもなく、野蛮でも物騒でもなく、至極当然、脱原発よりも常識的な話だ。私が北朝鮮の核実験を非難するのは、その攻撃対象が日本だから、という一点だ。アメリカやロシア、支那もインドも持っている。それを北朝鮮やイランにだけ「持つな」というのは本当はおかしい。あまつさえ日本は「議論すらしてはいけない」という論調もある。どこまで差別するのか。

言うまでもなく、この共産党の御仁が言う<平和憲法はアジア諸国の共通財産だ>には、日本という国は北朝鮮やイランと同じ、あるいは「日本はもっと危険な国だ」ということが含意される。腐臭を放つ自虐史観、日本悪玉史観だ。日本人蔑視と言って大過ない。

スペイン(イスパニア)帝国が滅びたのは、1588年の「無敵艦隊」の敗北ではない。司教のパルトロス・デ・ラス・カロスの書いた「インディアスの破壊について簡素な報告」というパンフレットだ。ここには「彼ら(スペイン人)は村々に押し入り、老いも若きも身重の女も尽く捕らえられ、引き裂きズタズタにした」とか「彼らは誰が一太刀で身体を真っ二つに斬れるとか、誰が一撃のもとで首を斬り落とせるか、と賭けをした」とか、どこかで聞いたような「事例」が挙げられている。この圧倒的な喧伝、悪質なプロパガンダの扇動にやられたスペイン人は自信をなくし、自虐に苛まされ、愛国心を失っていく。イギリスやオランダの言う通り、我々スペイン人は愚かで残虐でした、となって衰退していく。もちろん、イギリスやオランダ、あるいはアメリカも同じようなこと、もっと残酷なことをやったが、それはそれで「なかったこと」になる。いまの日本で行われている手口と同じだ。

「インディアスの破壊について簡素な報告」は日本にもたくさんある。朝日新聞などは毎朝夕、それを自宅にまで届けている。「いらない」という家があれば、逮捕されるのも覚悟で押し売りする。NHKはそれを電波でやる。「いらない」と言えば「国民の義務だろが」と威圧してくる。怖くなって「テレビは捨てました」と言っても許してくれない。「廃棄処分した書面を見せろ」と凄んでくる。

学校でもやる。仕事場にもある。無意識でいると、知らぬ間に読んでいて、頭の中がやられる。気がつくと共産党やら社民党やら民主党の支持者となる。「9条の会」とかにも入る。反原発デモに参加もする。民潭とか総連に友人ができる。カルト宗教もある。人権とか平和と聞けばホッとする。「日本は独自で国家国民を護るべき」と聞けば吐き気がする。「皇室アルバム」をみただけで不愉快になる。もはや病気だ。

病気を治すためには「9条改正」では足らない。憲法破棄だ。こんなものは廃棄処分、汚染された瓦礫よりも始末に悪い。除染して埋めてしまうのがよろしかろう。それから日本国憲法を創る。遅きに失するほどのことだが、これもやらないよりはマシだ。自民党もようやく「保守色」を前面に出してきた、とか喜んでないで、もし本気でやるなら「戦後レジームからの脱却」と言った元総理、自民党代議士を総裁にすべきだ。今度は護れるはずだ。




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