酔中作 張説

2005-02-24 21:08:57 | Weblog
張説(ちょうえつ)の作です。(667~730)玄宗のとき中書令になり、燕国公に封ぜられた人です。李白のような言葉の煌きはありませんが、酔いの楽しさをまことに即物的に語っている愛すべき詩です。

酔後方知楽
彌勝未酔時  
動容皆是舞
出語總成句  

酔後 まさに楽しみを知り
いよいよ 未だ酔わざる時に勝る。
容(すがた)を動かせば皆是れ舞にして
酔語(ことば)を出せば、総て詩と成る。

酔いつぶれてはじめて酒の楽しみがわかり、酔わない時よりも断然いい。身体を動かせばそのままで舞踏となり、言葉を吐けばみな詩になる。(岩波 中国名詩選)

*まことに素朴な詩ですが、よく読んでみると2つのことに気付きます。まず、本当にこの通りだとすれば、張説さんは良い酒飲みです。自分も酒で楽しみ、周りの人をも楽しくさせる酒ですね。酔うにつれて、だれかれを捕まえて「おい、このヤロー、オメ、ちゃんと飲んでるのか?」などとからむのが少し昔の日本の飲み会の通例でした。私もずいぶんやられたものです。故人ですが、飲めば必ず荒れる、という札付きの人物が居りました。私など、その人物に頭髪をつかまれ、そのまま座敷中を引きずり回された、というのですが、私自身はそんなこと全然記憶にないんですね。ということは私もよほど泥酔していた、ということです。私は酒そのものは好きなのですが職場の飲み会というのは苦痛でたまりませんでした。そこで自衛索として、宴会が始まる前に部屋でワンカップなどを2~3杯、ぐいぐいと流しこんで宴会に臨むわけです。宴会では挨拶などで20分くらいはかかりますから、宴会が本当に始まる頃にはかなり出来上がっているわけです。そうすると
苦痛であるはずの宴席も楽しいものに思われてくるのですね。始まるやいなや、献杯は片っ端から平らげ、自分でもコップ酒をさらに煽ります。これで山頭火に近い境地に達しますね。だれも怖くありません。

下らないことを補足しました。さて、張説さんの詩から分ることは、この詩の境地ではかなりお酒が入った境地であろうことが想像つきます。「身体を動かせば、即舞踏になり、ものをしゃべれば総てが詩になる」・・・・団塊の世代以上の人には身に覚えがある状態のはずですよ。私の同僚には、旅館の鴨居にぶら下がった人物もおりましたし、さらには何かの拍子で身体全体で(!)大きな障子に突っ込んで障子を破壊した猛者もおりましたし、だれも聞いてないのに勝手にカラオケをうるさくがなっている御仁もいらっしゃいました。「コノヤロー」だって立派な詩ですよ。だって「コノヤロー」って、実は日常的な表現ではないでしょう?「非日常用語」を輝かせるのが詩人の技なのでしょうから、酒席の「コノヤロー」は立派な詩であろうと思われます。(実にレベルの低い次元での詩ではありますけれどもね)

張説さんは、はるか後代の日本国のこの猛烈な酒席を歌ったわけではありませんが、充分にお神酒の入った時の愉悦を余すところ無く語っているのが良いですね。好きな酒歌の1つですね。