酒飲みで有名な中国の詩人といえば、横綱が李白、張り出し横綱が陶淵明、というような感じです。今日本の国税庁で用いているアルコール度でどのくらいの酒量だったのかは本人に聞かないとわかりませんが、李白にいたっては、自分のことを、「日日 酔うこと泥の如し」と述べたり、大酒飲みぶりに驚いた杜甫には「李白一斗詩百編」などと詠われたりしました。(一斗、とは今の日本の一升くらいに当るそうです)
李白については後でまた述べたいと思い、今日は李白や杜甫の辺りの詩人で大酒飲みを探してみました。居りました!賀知章(659~744)です。杜甫の作品に、同時代の8人の大酒飲みを詠った「飲中八仙歌」というものがあって、その中に次のように詠われております。
知章の馬に騎(の)るは、船に乗るに似たり
眼に花さき 井(せい)に落ちて 水底に眠る
知章が馬に乗る様は船に乗るに似ている。ゆらゆら揺れるのだ。眼は霞んでまるで火花が散っているようだ。井戸に落ちても、水底に眠っている。(これは誇張でしょう!)
こういう人ですから、酒量は日日泥のように酔っ払う李白を超えているのではないでしょうか?だから良い酒の歌が多く遺されているのではないかと思うのですが、手元の資料やPCでの検索ではごく僅かの詩しか出てきません。でも、賀知章の人柄を推定するには足るようです。政府の高官にまで登りつめた人でしたが晩年にはかなり酔狂な人生を送ったようです。八十四歳の時に役人を辞めて故郷に帰った時に「回郷偶書」という詩を書いております。
少小離家老大回
郷音内改鬢毛サイ
児童相見不相識
笑問客従何処来
*二行目のサイという字は難字なので出てきません。
少小にして家を離れ 老大にして回(かえ)る
郷音 改まる無く 鬢毛 くだく
児童 相見て 相識(し)らず
笑って問う 客 何処より来たれりと
*ごく若い頃に家を離れ、年老いてから帰って来た。お国なまりはもとのままだが、鬢の毛にはしらがが増えた。村の子供に出会ったが、こちらの顔を知らない。子供は笑いながら訊く、「おじさん、どこから来たの」と。
入手できた賀知章のもう一篇の詩をあげます。
主人不相識
偶坐為林泉
莫マン愁コ酒
嚢中自有銭
*マンは言偏に曼、コはサンズイに古
主人 相識らず
偶坐せしは 林泉のためなり
みだりに酒を買うを愁(うれ)うるなかれ
嚢中 自(おのずか)ら銭有り
*この別荘の主人とは面識はない。さし向かいで坐ることになったのは、庭の林や泉のただずまいに惹かれてのことだ。酒を買ってこなければ、などとムダな心配は無用だ。わが財布にも銭はある。この「嚢中自有銭」の意味についてはいろいろな説があるようです。
ともかく、だれのゼニでもいいから酒を飲みたいということのようです。漢字だけ並ぶとやたらと難しげに見えますが、もう酒が欲しくてたまらない、という気迫のようなものが感じられます。こういうことをズケズケ言った人だったようですね。山頭火あたりだともう少し柔らかに頼んだことでしょう。(^-^)
ああ、漢文、漢詩、というとあの老先生を思い出します。貫禄のある方でしたが、特に漢文の時間は教室に厳かな雰囲気がみなぎっておりました。
考えると、これはあまり好ましいことではないですね。賀知章の2番目の詩など、単にスーダラ節とも取れるのではないでしょうか?
「ああ、良い庭だねえ。ところで酒飲みたいんだがね。カネならあるよ。頼むよ」というようなことでしょう?厳かでは全然ありませんね。
漢文、というと厳か、という日本人の反応は、英会話、というとやたらと軽薄になる反応とそっくりで、どちらも止めたいものですね。
李白については後でまた述べたいと思い、今日は李白や杜甫の辺りの詩人で大酒飲みを探してみました。居りました!賀知章(659~744)です。杜甫の作品に、同時代の8人の大酒飲みを詠った「飲中八仙歌」というものがあって、その中に次のように詠われております。
知章の馬に騎(の)るは、船に乗るに似たり
眼に花さき 井(せい)に落ちて 水底に眠る
知章が馬に乗る様は船に乗るに似ている。ゆらゆら揺れるのだ。眼は霞んでまるで火花が散っているようだ。井戸に落ちても、水底に眠っている。(これは誇張でしょう!)
こういう人ですから、酒量は日日泥のように酔っ払う李白を超えているのではないでしょうか?だから良い酒の歌が多く遺されているのではないかと思うのですが、手元の資料やPCでの検索ではごく僅かの詩しか出てきません。でも、賀知章の人柄を推定するには足るようです。政府の高官にまで登りつめた人でしたが晩年にはかなり酔狂な人生を送ったようです。八十四歳の時に役人を辞めて故郷に帰った時に「回郷偶書」という詩を書いております。
少小離家老大回
郷音内改鬢毛サイ
児童相見不相識
笑問客従何処来
*二行目のサイという字は難字なので出てきません。
少小にして家を離れ 老大にして回(かえ)る
郷音 改まる無く 鬢毛 くだく
児童 相見て 相識(し)らず
笑って問う 客 何処より来たれりと
*ごく若い頃に家を離れ、年老いてから帰って来た。お国なまりはもとのままだが、鬢の毛にはしらがが増えた。村の子供に出会ったが、こちらの顔を知らない。子供は笑いながら訊く、「おじさん、どこから来たの」と。
入手できた賀知章のもう一篇の詩をあげます。
主人不相識
偶坐為林泉
莫マン愁コ酒
嚢中自有銭
*マンは言偏に曼、コはサンズイに古
主人 相識らず
偶坐せしは 林泉のためなり
みだりに酒を買うを愁(うれ)うるなかれ
嚢中 自(おのずか)ら銭有り
*この別荘の主人とは面識はない。さし向かいで坐ることになったのは、庭の林や泉のただずまいに惹かれてのことだ。酒を買ってこなければ、などとムダな心配は無用だ。わが財布にも銭はある。この「嚢中自有銭」の意味についてはいろいろな説があるようです。
ともかく、だれのゼニでもいいから酒を飲みたいということのようです。漢字だけ並ぶとやたらと難しげに見えますが、もう酒が欲しくてたまらない、という気迫のようなものが感じられます。こういうことをズケズケ言った人だったようですね。山頭火あたりだともう少し柔らかに頼んだことでしょう。(^-^)
ああ、漢文、漢詩、というとあの老先生を思い出します。貫禄のある方でしたが、特に漢文の時間は教室に厳かな雰囲気がみなぎっておりました。
考えると、これはあまり好ましいことではないですね。賀知章の2番目の詩など、単にスーダラ節とも取れるのではないでしょうか?
「ああ、良い庭だねえ。ところで酒飲みたいんだがね。カネならあるよ。頼むよ」というようなことでしょう?厳かでは全然ありませんね。
漢文、というと厳か、という日本人の反応は、英会話、というとやたらと軽薄になる反応とそっくりで、どちらも止めたいものですね。