ルービンシュタイン・リヒテル・シュピールマンのもあったんだけど分割しているのが残念
ショパン 幻想ポロネーズ (ユリアンナ・アヴデーエワ)
成立年代 1845年から1846年
時代区分 初期ロマン
形式 ポロネーズ
形態 ピアノソロ
楽譜入手 ショパンポロネーズ集・全音ピース
ピアノ難易度 上級中・上級上
アレンジ
ショパンの一曲目は幻想ポロネーズです。軍隊・英雄と共に3大ポロネーズの一つと言われていますが、演奏時間は他の2曲に比べると長いのでなかなか聞く機会というのがありません。去年のショパンコンクールで初めて課題曲の中に組み込まれて、一気に注目を浴びた曲でもああります。ポロネーズというのは独特のリズムをもった4拍子の曲で、発祥はショパンの故郷であるポーランドの舞踊です。しかしショパンはこのリズムを自分のポロネーズの中では他用をしていません。一曲あたり30小節ぐらいしか無い曲もあり、それ以外はショパンの独壇場みたくなっている部分があります。
ショパンが生きているうちに出版された最後のポロネーズで、出版された当初はリストを始めいろんな評論家からあまり良い評価を受けてはいませんでした。しかしこのときショパンは既に市に向かい始めていた頃、さらにサンドとの別れがあったことなどを考えると、その状態でもこういう曲を作ったというのは驚異的です。20世紀に入ってから再評価をされた曲で、今ではショパン後期の作品の傑作の一つとして評価されています。苦痛の中で作曲されたのこの曲はショパンの中での苦悩を表現していると言われ、美しい旋律との対比で自分自身の苦悩を表現していると言われています。
恋人サンド(今で言えば一家揃ってのDQN)とわかれた後のショパンは、もはや苦悩の日々しか残っていませんでした。病に侵された体を引きずりながらの現役復帰。ロンドン公演では強力な支援者を得たものの、その気候のせいで余計に病気が悪化。結局そのまんまパリで生涯を閉じてしまいます。家族関係には恵まれた(映画のおかげでショパンのノクターンの代名詞となった遺作の20番は、元々は姉が自分の協奏曲を弾くためのものとして書いた物)ものの、自分が家族を持つということには恵まれておらず(ショパンとサンドが出会った頃には、既に二人の子どもがいて、その二人の子どものせいで結果的いに仲違いを起こす)、結果的にショパンは生涯独身という形を貫いてしまうことになります。
ショパンが重要視していたのはリストのようにテクニック重視ではなく、イタリア歌手のように歌うように曲を奏でることでした。そのため表だってピアノの弟子をとることはせず、どちらかと言えば生徒を取るという形で、生計を立てていました。そのショパンが重視した曲集にバッハの平均律があげられます。彼自身自分の心を落ち着かせるためによく弾いていたと言われていますし、生徒に対してまず最初に弾かせたのは自分の作品ではなく、平均律でした。(そこからグラドゥス・アド・パルナッズムを弾かせてテクニックの歪みの修正→自分の曲)ショパンをやる上で外せない曲集とも言えるプレリュード集も、この平均律の影響をおもいっきりうけています。自身はロマン派の作曲家であることも否定していることから、大きな影響をバッハからうけていたのではないと思われます。
次回はショパンの2回目。ソナタか協奏曲か。