koshiのお部屋2

万年三歳児koshiの駄文のコーナーです。

關西紀行-其之廿(最終章)「浄瑠璃寺の春・・・」

2015年01月29日 21時54分15秒 | 旅行,および「鉄」

州見台・梅美台という2つの団地を過ぎ,小高い丘に挟まれた県道44号線を東に向かう。
京都府なのに奈良市のベッドタウンとなっているというのも妙と云えば妙だが,行政区はともかく生活圏としては明らかに奈良市となるのだろう。
やがて県道752号線に入ると,道幅は狭くなり勾配も登りとなる。
浄瑠璃寺が近いことを思わせるが,2~3度,道端に鎌倉期の石仏群を垣間見ることができた。
山里の路傍の石仏とは,何とも言えない鄙びた味わいがあり,存在自体が嬉しい。
残念なことに,シャッターを切ってもうまく撮影できなかったのだが・・・。


そして勾配がピークになると,バスは浄瑠璃寺前の駐車場に滑り込んだ。
所要時間30分ちょい。
心地良い路線バスの旅であった。
完全に認識不足だったが,目の前にマイクロバスが停まっており,岩船寺行きだそうだ。
岩船寺は,ここより数キロメートル先の山寺で,半分ぐらいの乗客はそのまま乗り換えていた。
後で知ったのだが,帰途は浄瑠璃寺まで歩くらしい。
私が乗ったバスだと,11時前に岩船寺に着き2時間半で2つの寺を見て,1時奈良駅前発の折り返し便で奈良へ帰るというコースのようだ。


比較的長い浄瑠璃寺の参道を歩く。

2,3の土産物店と畑が有る他は何もなく,如何にも山里へ来たという雰囲気だ。
天気が上々なのも有難い。
やがて小さな,しかし味わいのある山門が見えてきた。

山門をくぐってゆっくり中へ入ると,別世界が広がっていた。
先ずは広々とした中央宝池を中核とする見事な庭園(史跡,特別名勝)が眼前に広がる。

本堂である阿弥陀堂(国宝)は,1047(永承2)年の創建と伝わり,何と1,000年近い歴史を持つらしい。
池の周囲をゆっくりと一周すると,小高い場所にこぢんまりとした中にも堂々とした構えの三重の塔(国宝)が鎮座し,その下辺りから対岸の阿弥陀堂を眺めるのがベストアングルと思われた。


せっかくなので,拝観料を払って阿弥陀堂に入る。
九体の阿弥陀如来像を安置するので,九体寺なる別名もあるらしいが,寺名の由来は,薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」から来るという。
北国人の私からすると,関西の日射しは十二分に明るく暖かいのであるが,阿弥陀堂内の空気は凛とした冷ややかさが有り,仏像の表情とも相俟って,一種独特の雰囲気を醸出していた。
誰もが一様に静かに見入っている。
そうするのが至って自然であるような空気感も,そこに存在していた。
今まで中宮寺の菩薩半跏思惟像や秋篠寺の伎芸天,そして新薬師寺の十二神将像に相対した際に感じたものと同種にして異なる雰囲気・・・とも言えた。
飽くことなく静かに見入った後,心静かに庭園へ戻った・・・。


 傍らに花さいている馬酔木(あしび)よりも低いくらいの門,誰のしわざか仏たちのまえに供えてあった椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木,秋になってその柿をハイキングの人々に売るのをいかにも愉(たの)しいことのようにしている寺の娘,どこからかときどき啼なきごえの聞えてくる七面鳥,――そういう此のあたりすべてのものが、かつての寺だったそのおおかたが既に廃滅してわずかに残っているきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――というよりも,それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのようにさりげなく取り入れながら,――其処にいかにも平和な,いかにも山間の春らしい,しかもその何処かにすこしく悲愴な懐古的気分を漂わせている。
 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが,長い歳月の間にほとんど廃亡に帰して,いまはそのわずかに残っているものも,そのもとの自然のうちに,そのものの一部に過ぎないかのように,融け込こんでしまうようになる。そうして其処にその二つのものが一つになって――いわば,第二の自然が発生する。そういうところにすべての廃墟の云いしれぬ魅力があるのではないか? ――そういうパセティックな考えすらも(それはたぶんジムメルあたりの考えであったろう),いまの自分にはなんとなく快い,なごやかな感じで同意せられる。……
 僕はそんな考えに耽りながら歩き歩き,ひとりだけ先きに石段をあがり,小さな三重塔の下にたどりついて,そこの松林のなかから蓮池をへだてて,さっきの阿弥陀堂のほうをぼんやりと見かえしていた。

堀辰雄「大和路・信濃路」~浄瑠璃寺の春より,新潮文庫刊


凡百たる私が百万遍もの駄弁を弄するより,昭和の文豪に語っていただいた方が良いに決まっているのは自明の理なので,ここで引用させていただいた。
昨日も書いたが,堀辰雄の諸作品に填ったのは,20代前半の頃だったと思うが,「風立ちぬ」にしても「美しい村」にしても「楡の家・菜穂子」にしても,全編を貫く透徹した視線が何とも薄ら寒く,軽井沢や富士見高原のサナトリウムの印象とも相俟って,何とも暗い雰囲気を漂わせているのであるが,この文章は穏やかで明るい。
初版が昭和18(1943)年7月の刊行だそうだから,堀辰雄がここを訪れたのは戦中と云うことになる。
暗い世相など一切感じさせない静かな明るさと清澄さを感じさせるのは,戦局悪化前であることと,昭和19年秋より前の我が国は,空襲も散発的でありまだ平和であったと云うことだろうか・・・。
いずれにしても,若い頃からの宿願の1つをかなえることができた・・・。


以上で,今回の紀行は終わりとする。
お昼過ぎに奈良市内へ戻り,近鉄駅前から前々日と同じく春日大社表参道前までバスに乗り,飛火野の風物を愛でてから東大寺を訪れ,下の子と大仏殿を訪れた後,しかまろくんに鹿せんべいをあげるのに付き合い,ホテルに戻って荷物を取った後,3時近くのJR奈良線で京都へ向かい,新幹線を乗り継いで,年が変わる直前に慌ただしく来宅・・・というばたばたした日程だった・・・。


・・・ということで,相変わらずの竜頭蛇尾で私に相応しい終わり方となってしまいました。
紀行文の特徴というのは,訪れた地の風物の紹介や描写ではないかと思うのですが,そうした点では全く役に立たないものを書いてしまった・・・という印象は否めません・・・。
ま,私の書いたものですから,誰もそのようなことは期待しないでしょうが・・・。
あとは,拾遺集が書けたら良いですね。
全くたいしたものは食べていないのですが,グルメ編とかお土産編とか・・・。
SNSへの画像のうpも終わっていないし,結構やるべきことが残っていたりします。
そう言えば,今日で出立した日から丁度一ヶ月となりました・・・。


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